1話裏話
今回1話デートの裏話です
本編書けって?書いてますよ!!笑
白雪澪は、朝からずっと落ち着かなかった。
鏡の前で髪を整えて、少し離れて見て、また前に戻って、前髪を指で直す。そんなことをもう何度も繰り返していた。
病室の窓から入る朝の光は柔らかくて、外は春そのものだった。天気予報では晴れ。桜も、きっとまだ綺麗に残っている。
それだけなら、本当は嬉しいはずだった。
けれど胸の奥では、別の感情がずっとざわついていた。
今日、会える。
ようやく会える。
でも、きっと彼は覚えていない。
その事実が、何よりも怖かった。
「外出許可、夕方までだからね」
担当の看護師にそう言われて、澪はいつも通りを装って「はーい」と軽く返した。笑えていたかどうかは、自分でも分からない。
本当は、その一日がどれだけ大事なのか、誰にも説明できなかった。
何年も胸の奥に置いてきた約束だった。
桜の下で、また会おう。
たったそれだけの言葉を、澪はずっと捨てられなかった。
忘れても、前に進んでも、別の誰かを好きになってもいいはずだったのに、どうしてもできなかった。自分でも呆れるくらい、昔の約束を大事にしていた。
きっと、馬鹿みたいだ。
でも、陽斗がくれた言葉だった。
だから今日だけは、どうしても会いたかった。
会って、もし覚えていなくても。
それでも、一回だけ隣を歩いてみたかった。
病院を出た瞬間、風が頬を撫でる。
空気が、少しだけ冷たい。でも痛いほどじゃない。
澪は小さく息を吸い込んだ。
春の匂いがした。
それだけで、少し泣きそうになる。
「泣かない。まだ」
誰に言うでもなく呟いて、澪は歩き出した。
大学へ向かう道の途中、人の流れを避けるように立ち止まる。胸の鼓動が、うるさい。ちゃんと会えなかったらどうしよう。会えても、冷たい顔をされたらどうしよう。名前を呼んで、困らせたらどうしよう。
考えれば考えるほど足が重くなった。
けれど、ここで逃げたら、一生後悔すると分かっていた。
だから進んだ。
人混みの向こうに、見覚えのある姿を見つけたのは、その少しあとだった。
背格好も、歩き方も、昔より大人になっているのに、すぐ分かった。
神崎陽斗。
自分だけが長い間覚えていた名前が、目の前の現実としてそこにあった。
一瞬、足が止まる。
喉が乾く。
声が出ない。
でも、次の瞬間には、もう前に出ていた。
ぶつかったのは、わざとではなかった。けれど半分は、そうだったのかもしれない。こうでもしないと、きっと声なんてかけられなかった。
「いったぁ……って、あ……!」
顔を上げた瞬間、澪は息を呑んだ。
ああ、本当に陽斗だ。
ずっと会いたかった人が、ここにいる。
でもその目には、明確な“知らない人を見る色”があった。
胸の奥が、少しだけ冷たくなる。
それでも、澪は笑った。
「……やっと会えたね、陽斗」
言ってしまってから、ほんの少しだけ怖くなる。名前を呼ばれて、彼がどんな顔をするか分かっていたからだ。
案の定、陽斗は警戒と困惑を混ぜたような顔をした。
それでも、逃げなかった。
その事実だけで、澪は救われる。
「名前知ってるの、ちょっと怖いんだけど」
冗談っぽい返しだった。
昔の彼なら、たぶんもっと素直に反応しただろう。でも、今の彼はちゃんと距離を測る。知らない相手に簡単に懐かない。その変化が少しだけ寂しくて、でも同時に愛おしかった。
「大丈夫、ストーカーとかじゃないよ?」
そう返しながら、澪は必死だった。明るく見せるのも、冗談を言うのも、全部、本心を隠すためだった。
今ここで泣いたら終わる。
この人は、困ってしまう。
だから笑った。
少し歩いて公園へ向かい、ベンチに並んで座る。肩が触れそうで触れない距離。その距離を測るだけで胸が苦しい。
覚えてない。
本当に、覚えてないんだ。
その現実を、澪は隣に座って初めてちゃんと飲み込んだ。
目の前に本人がいて、声も聞こえて、こうして並んでいるのに、自分だけが昔を知っている。そんな状況が、想像以上に残酷だった。
「……覚えてないよね、私のこと」
聞くつもりはなかった。もっと軽く入るつもりだったのに、口から出たのはそれだった。
陽斗の表情がわずかに動く。
困ったような、申し訳なさそうな、どう答えていいか分からない顔。
ああ、だめだ。
そんな顔をさせたいわけじゃなかったのに。
「でもね、私はずっと覚えてた」
そう言うしかなかった。
ずっと覚えてた。本当に、その通りだったから。
小さい頃の約束のことも、桜のことも、泣いていた自分に差し出された手の温かさも。何一つ忘れられなかった。
無理に思い出さなくていいよ、と言ったのは、半分は優しさで、半分は逃げだった。思い出せと言って、彼を苦しめたくなかった。けれど本当は、少しだけ期待していた。何かひとつくらい、引っかかってくれたらいいのに、と。
だから、「もう一回、やり直さない?」と言った。
今の私と、今の君で。
昔に戻れなくてもいいから。
せめて今日だけ、新しく始められたら。
陽斗が戸惑いながらもその場を離れなかったとき、澪は自分でも驚くほどほっとした。まだ何かが終わっていない気がした。
デート、しよ?
そう言ったときも、本当は心臓が痛いくらい鳴っていた。
軽く言わないと壊れそうだった。
彼が手を取ったとき、澪はもうそれだけで十分だと思ってしまいそうになった。
そのあと最初に入ったカフェでは、澪は平静を装うのに必死だった。
メニューを開きながら、何を頼むかなんて本当はどうでもよかった。ただ、陽斗と同じ空間で、向かい合って座って、飲み物を待つ時間が、ひどく夢みたいだった。
「何にするの?」
そう聞かれて、澪はメニューを見るふりをした。けれど、この店に来るのは初めてではない。以前、病院帰りにひとりで寄ったことがあった。陽斗と来たら、ここでこれを頼んでみたいと思っていたものがある。
「プリン、ここの美味しいよ」
そう言ってから、自分で少し笑う。
自然すぎたかもしれない。初めてのはずなのに、知っているみたいな言い方だった。
でも陽斗はそこを深くは追及しなかった。
その優しさに、甘えてしまう。
プリンが運ばれてくると、澪は小さく「いただきます」と言った。スプーンを入れる。柔らかい。ほろ苦いカラメルと甘さがちょうどよくて、美味しい。けれど味よりも、陽斗がそれを見て少し笑ったことのほうが印象に残った。
「ほんとに好きなんだな」
「うん。病人の数少ない楽しみだから」
冗談っぽく返したけれど、半分は本当だった。
病室にいる時間は、時間の進み方が普通とは違う。楽しみなんて、自分で作らないとどんどん消えていく。だから小さな楽しみを拾っていた。
その中の一つに、いつか陽斗とこういうふうに話せたら、という妄想があった。
陽斗は知らない。
自分がずっと、その妄想の中にいたことを。
カフェを出たあと、本屋へ向かった。
本屋は不思議な場所だった。会話が途切れても不自然じゃない。隣を歩いていても、沈黙が気まずくない。だから澪は好きだった。
「陽斗、本読む?」
「まあ、たまに」
「たまにって顔してる」
「どういう顔だよ」
そんなやり取りをしながら、棚の間をゆっくり歩く。
恋愛小説の棚の前で立ち止まりそうになって、やめる。さすがに分かりやすすぎる気がした。代わりにエッセイや写真集の棚を見ながら、どうでもいい感想を言い合う。
「こういう空だけの写真集って誰が買うの?」
「空好きな人」
「雑」
「でも綺麗じゃん」
「それはそう」
陽斗の返しは素っ気ないようで、投げやりではなかった。ちゃんと聞いて、ちゃんと返してくれる。その一つ一つが、澪には嬉しかった。
それからゲームセンターに入った。
正直に言えば、そこに入るつもりはなかった。
でも、入口から見えたクレーンゲームの景品の中に、小さい桜色のマスコットが見えて、澪は無意識に足を止めていた。
「やるの?」
「……ちょっと気になる」
「取れる気しないけど」
「そういうこと言うやつが一番ハマるんだよ」
そう言って、澪は100円を入れた。
アームが動く。狙いをつける。落ちる。全然だめ。
「あー、今のは惜しかった」
「絶対嘘」
「いや、ほんとに惜しかった」
もう一回やる。今度は位置を少しずらしてみる。やっぱりだめ。
澪は思わず笑ってしまった。
「何これ、全然取れないんだけど」
「見てていい?」
「見てるだけ?」
「そういうときに取ると空気読めない感じするだろ」
「なにその気遣い」
少しやり取りしたあと、結局陽斗も財布を出した。
「一回だけな」
そう言ってアームを動かす。
変に器用なのが、ちょっと悔しい。
「待って、なんで今のでそんな良い位置行くの?」
「知らね」
「むかつく」
「褒めろよそこは」
あと一歩の位置まで寄ったマスコットを見て、二人でしゃがんで眺める。知らない人から見たら、本当にただの普通の大学生カップルみたいだったかもしれない。
その想像に、澪は少しだけ胸が痛くなった。
こんな時間が、本当に普通に続けばよかったのに。
そんなことを思う自分が嫌だった。
今ここにあるものだけで十分だと、自分に何度も言い聞かせる。
結局、三回目でマスコットは取れた。
最後の一手は陽斗だった。
「ほら」
そう言って渡された桜色の小さなマスコットを受け取った瞬間、澪はなぜか泣きそうになった。
「……ありがと」
「そんな嬉しい?」
「嬉しいよ。こういうのちゃんと取れたことあんまないし」
「そんなもんか」
「そんなもん」
澪はそのマスコットを両手で持ちながら、しばらく見つめた。桜色で、少し間の抜けた顔をしていて、別に高いものでも特別なものでもない。
でも、今日の自分には宝物みたいに見えた。
それから二人は、音楽ゲームの前を通り、プリクラ機の前で少し立ち止まって、結局入らずに笑った。
「これはハードル高くない?」
「高い」
「まだそこまでの関係じゃないしね」
澪がそう言うと、陽斗は少しだけ困ったように笑った。
その顔を見て、澪は自分で言っておいて少しだけ後悔する。
“まだ”。
そんな言葉を使う資格なんて、自分にはないのに。
ゲームセンターの外に出ると、夕方が近づいていた。
空の色が少しずつ変わっていく。人の流れも、昼とは違う。
楽しい時間ほど短い。
そんな当たり前のことを、澪は嫌というほど知っていた。
川沿いまで歩く間も、他愛のない話を続けた。
「オムライス好きなの、ちょっと意外」
「なんでだよ」
「もっと渋いの好きそう」
「どういう偏見?」
「なんとなく。ブラックコーヒーとか飲んでそう」
「苦いの無理」
「かわいい」
「やめろ」
言ってから、澪は少しだけ黙った。
かわいい、なんて昔だったらもっと自然に言えていた気がする。今は、その一言すら距離を測るようになる。
でも陽斗は強く否定しなかった。
そのことが、また嬉しくて苦しい。
夕方の川沿いは静かだった。
桜の花びらが水面を流れていく。風が少し冷たくなってくる。
澪は隣に立って、その景色を見た。
きれいだと思った。
でもそれ以上に、隣に陽斗がいることが現実みたいに思えなくて、何度も横顔を見てしまう。
今日が終わってしまう。
その事実が、少しずつ近づいてくる。
「今日さ、楽しかった?」
聞いたのは、確認したかったからだ。
自己満足じゃなかったか知りたかった。自分だけが大事にしていただけじゃなくて、陽斗にとっても少しは意味がある時間だったなら、それだけで救われる気がした。
「……楽しかった」
その答えを聞いた瞬間、澪は目を閉じた。
それだけでよかった。
もう十分だと思った。
思ったのに。
それでも終わりは来る。
だから、自分で言わなければならなかった。
「明日、私のこと忘れて」
あの言葉は、ずっと前から決めていた。
本当は“忘れないで”と言いたかった。ずっと覚えていてほしかった。何度だって会いたかった。
でも、そんなことを言ったらこの人は優しいから、きっと全部背負おうとする。だから言えなかった。
忘れて、と言えば、自分のほうが少しは悪者でいられる。
そのほうが、たぶん彼は前に進みやすい。
そう思っていた。
でも、その直後に抱きしめられたとき、全部が崩れそうになった。
澪は一瞬、本当に息が止まるかと思った。
温かかった。
ずっと昔に失くしたと思っていたものが、急に胸の中へ戻ってきたみたいだった。
「……やっぱり、ずるいなぁ」
それが精一杯だった。
忘れてほしいのに、忘れられなくなる。
そんなこと、分かりきっていたのに。
それでも嬉しかった。
最後に耳元で「大好き」と言ったとき、澪は半分泣いていた。
たぶん声でばれていた。
でも構わなかった。
どうせ最後なら、綺麗に終わりたかった。
全部をちゃんと嘘にするんじゃなくて、一つだけ本当を残したかった。
だから言った。
あれだけは、何のごまかしもない本心だった。
あの日のデートは、短かった。
でも澪にとっては、人生でいちばん長くて、いちばん短い一日だった。
カフェで向かい合って笑った時間も、本屋の静かな通路も、ゲームセンターでどうでもいいことで言い合ったことも、最後に川沿いで並んで立った時間も、何一つ捨てたくなかった。
陽斗が覚えていなくても。
あのときの彼にとっては“初めて”だったとしても。
澪にとっては、ちゃんと約束の続きだった。
だからこそ、苦しかった。
だからこそ、幸せだった。
病室へ戻る車の中で、澪はずっと桜色のマスコットを握っていた。
指先に残る感触が、まだ現実だと教えてくれる。
窓の外では、春の景色がゆっくり後ろへ流れていく。
もう終わった。
でも、終わらせたのは自分だ。
そう何度も言い聞かせる。
それでも、胸の奥では別の声が囁く。
もう一回会いたい。
もう少しだけ一緒にいたい。
忘れないでほしい。
そんな、自分勝手な願いを抱えたまま、澪は目を閉じた。
結局、最後まで綺麗にはなれなかった。
それでも。
あの日、陽斗が隣で笑ってくれたことだけは、きっと一生忘れないと思った。
たとえ、彼が忘れたとしても。
自分だけは、絶対に忘れない。
そう思っていた。
あのときまでは。
詳しく書いたら長くなっちゃった!




