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12話 あの少女

朝だった。


 眠ったのかどうかも、よく分からなかった。


 神崎陽斗は、浅い呼吸のまま目を開けた。カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。昨日の夜と何も変わらない部屋。なのに、自分だけがどこか別の場所に置いていかれたような感覚があった。


 体が重い。


 頭も重い。


 それでも、起きないわけにはいかなかった。


 ベッドの上でしばらく天井を見たあと、陽斗はゆっくりと体を起こした。喉が乾いている。口の中が気持ち悪い。何か食べる気にも、飲む気にもならない。


 視線が、机の上で止まる。


 昨日、自分で電源を切ったスマホがそこにある。


 黒い画面のまま、静かに置かれている。それだけなのに妙に存在感があった。見たくなくて切ったくせに、今は逆に、それを見ないと前に進めない気がする。


 陽斗はしばらく迷ってから、手を伸ばした。


 持ち上げる。


 少しだけ冷たい。


 電源ボタンを長押しする。


 画面がつくまでの数秒が、やけに長い。


 起動画面が出て、通知が一気に流れ込んでくる。メッセージ。着信。講義の連絡。澪の名前もある。見た瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。


 けれど今は、そこを開く気にはなれなかった。


 なんとなく、指が別の場所へ動く。


 写真アプリ。


 開いた瞬間、カメラロールの一番上に見慣れない画像が並んでいた。


「……は?」


 思わず、声が漏れる。


 少女だった。


 桜の木の下で笑っている横顔。少し拗ねたように唇を尖らせている顔。クレーンゲームの景品を両手で持って、どこか得意そうに笑っている顔。川沿いで風に髪を揺らしながら、こちらを見ずに空を見上げている横顔。


 知らないはずなのに。


 全部、知らないはずなのに。


 心臓が、異常なくらい強く鳴り始める。


 指が震える。


 一枚、開く。


 ゲームセンターだった。


 桜色の小さなマスコットを持って、少女が笑っている。少し照れたような、でも本当に嬉しそうな笑顔。その画面の隅に、ほんの少しだけ自分の指が映り込んでいる。


 自分が撮った写真だと分かる。


 次の写真も。


 その次も。


 全部、自分が撮ったものだ。


「なんで……」


 声がかすれる。


 写真をスクロールするたび、少女が増えていく。


 カフェでスプーンを持つ手元。


 本屋の棚の前で本の背表紙を眺める姿。


 ゲームセンターで機械を睨みつけるように見上げている表情。


 外へ出たあと、光の中で目を細めている顔。


 どの写真にも、自分の視線の温度が乗っていた。


 好きじゃなければ、こんなふうに撮らない。


 大事じゃなければ、こんなふうに残さない。


 それが分かってしまう。


 分かってしまうから、苦しい。


 スマホを握る手に力が入る。


 画面の中の少女は、何枚見ても同じだった。


 夢の中で何度も見た顔。


 桜の下で笑っていたあの少女。


 名前が出てこない。


 でも、もうすぐそこまで来ている感覚がある。


 胸の奥で、何かがずっと扉を叩いている。


 次の写真を開いた瞬間だった。


 信号待ちの交差点。


 少し遠くから撮られた、後ろ姿。


 白い服。


 風に揺れる髪。


 その写真を見た瞬間、頭の奥で何かが音を立てて崩れた。


 視界が揺れる。


 呼吸が、止まる。


 フラッシュバックみたいに、光景が流れ込んでくる。


 桜。


 春の風。


 小さな手。


 泣いていた横顔。


 初めて、自分から好きになった女の子。


 何もかもが眩しくて、何もかもが特別だった、あの頃。


 そして。


 道路。


 ブレーキ音。


 誰かの叫び声。


 白い服が、視界の中で崩れる。


 血の色。


 桜の花びらと、あまりにも似ていた赤。


「……っ」


 スマホが手から滑り落ちて、ベッドの上に転がる。


 陽斗は両手で頭を押さえた。


 痛い。


 頭の中が、引き裂かれるみたいに痛い。


 でも、それ以上に苦しいのは、全部が繋がってしまったことだった。


「あ……」


 声にならない。


 息がうまく吸えない。


 夢の少女。


 何度も会ったあの桜の下の少女。


 名前を教えなかった、あの人。


 あれは、夢なんかじゃなかった。


 ちゃんと、いた。


 ちゃんと、存在していた。


 そして、自分の目の前で事故に遭った。


 あの日。


 あの春の日。


 自分が何よりも大切にしていた女の子は、自分の目の前で消えた。


「……初恋、だったんだ」


 ようやく出た言葉は、ひどく他人事みたいだった。


 でも違う。


 これは、ずっと自分の中にあったものだ。


 好きだった。


 最初に、どうしようもなく好きになった人だった。


 名前を呼ばれるだけで嬉しくて、隣にいられるだけで十分で、いつかちゃんと伝えたいと思っていた、たった一人の女の子。


 その記憶を、自分は失くしていた。


 失くしたまま、また似た春の中で、別の澪と笑っていた。


 頭が真っ白になる。


 いや、違う。


 真っ白なんじゃない。


 色んな記憶が一気に流れ込んできて、もう何も整理できなくなっているだけだ。


 桜の下で笑う少女。


 ゲームセンターでクレーンゲームに本気になる姿。


 ほんの少しだけ背伸びをして、「大好き」と囁いた声。


 交差点の向こうで振り返った横顔。


 次の瞬間に飛び込んできた車の音。


 自分の叫び声。


 膝から崩れ落ちる感覚。


 全部。


 全部、戻ってくる。


「なんで……今さら」


 掠れた声で呟く。


 誰にも聞こえない部屋の中で、それだけが落ちる。


 今さら思い出して、何になる。


 助けられなかった。


 守れなかった。


 ずっと忘れていた。


 それなのに、こんなに鮮明に戻ってくるなんて、残酷すぎる。


 涙が、こぼれた。


 今度は止まらなかった。


 昨夜みたいに途中で引っかかることもなく、ただ静かに、でも止めようがないくらいに流れてくる。


 陽斗は顔を覆った。


 肩が震える。


 呼吸が乱れる。


 音を立てて泣くわけじゃない。


 でも、確かに壊れていた。


 あの少女は、自分の初恋だった。


 夢の中でだけ会えていた少女じゃない。


 都合のいい幻なんかじゃない。


 ちゃんと生きていて、ちゃんと好きだった。


 そして、自分の目の前で事故に遭った。


 その現実ごと、自分は忘れていた。


 忘れて、生きていた。


 それが何よりきつかった。


「……ごめん」


 何に対する謝罪か、自分でも分からない。


 忘れていたことか。


 思い出すのが遅すぎたことか。


 それとも、まだ生きている澪にすら真っ直ぐ向き合えずにいることか。


 ただ、謝るしかできなかった。


 視線の先で、スマホの画面がまだついている。


 そこにはまた、少女の笑顔が映っていた。


 ゲームセンターの景品を大事そうに抱えながら、少しだけ眉を下げて笑っている。きっとあのときの自分は、そんな顔が愛おしくて仕方なかったのだろう。だから撮った。何枚も何枚も。失くしたくなくて、残したくて。


 なのに、失くした。


 記憶ごと。


 春の光が、少しずつ強くなる。


 朝なのに、全然明るく感じない。


 戻った記憶は救いじゃなかった。


 ただ、痛みの輪郭をはっきりさせただけだった。


 それでも、もう分かってしまった。


 夢の少女は、夢じゃない。


 あの少女は、自分が初めて恋をした人だった。


 そして、その恋は、自分の目の前で終わった。


 終わったはずなのに、今また動き出してしまっている。


 陽斗は震える手でスマホを取り上げる。


 写真の中の少女を、もう一度見た。


 泣きそうなくせに、ちゃんと笑っている。


 その表情が、どうしようもなく好きだった。


「……会いたい」


 思わず漏れた声は、あまりにも遅すぎる願いだった。


 会えるはずがない。


 分かっている。


 それでも、口に出さずにはいられなかった。


 スマホを胸元に引き寄せる。


 目を閉じる。


 浮かぶのは、桜と、笑顔と、最後のブレーキ音だった。


 春はまだ終わっていない。


 でも、あの春だけは、今もずっと自分の中で終われずにいた。


 ようやく、その理由が分かった。


 忘れていたんじゃない。


 忘れたふりをして、閉じ込めていただけだった。


 あまりにも痛くて、あまりにも大切すぎたから。


 だから、心の奥にしまっていた。


 桜と一緒に。


 初恋と一緒に。


 全部。


 全部、そこに残っていた。


 ただ、開けられなかっただけだった。


 今、その蓋が開いた。


 もう、戻れない。


 昨日までの自分には。


 陽斗はゆっくりと息を吐いた。


 苦しい。


 痛い。


 それでも、目を逸らせない。


 写真の中の少女は、何も言わない。


 ただ笑っている。


 まるで、今さら気づいたの、とでも言うように。


 その沈黙が、余計に胸に刺さった。


 陽斗はしばらく動けなかった。


 時間だけが過ぎる。


 けれどその朝、自分の中で何かが決定的に変わったことだけは、はっきり分かっていた。


 これはもう、ただの失恋でも、ただの裏切りでもない。


 ずっと失くしていた春が、全部戻ってきてしまった朝だった。

記憶戻ったのにもう会えないなんてやだよね、、

俺だったら同じとこ行く

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