第九話 銀の鷲と契約
その足音は、この学園には存在しないリズムを刻んでいた。硬く、規則正しく、そして恐ろしいほどに重い。それは、世界に秩序を強いる者の足音だ。
私は、宙に浮いたまま、器用に空中で胡座をかいていた。手には古い詩集。それを逆さまに持ち、行間を漂う「記述」のズレを目で追って時間を潰していたところだ。サイドテーブルの水は球体となって浮かび、読みかけの詩集は蝶のように羽ばたいている。
これは魔法ではない。世界を構成する「記述」が、私と、私が触れたものからだけ抜け落ちているのだ。「重力に従え」という命令文が、私の体から削除されている。だから、落ちない。座標が定まらない。部屋の他の家具や床には、相変わらず「重い」「硬い」という文字がびっしりと張り付いているというのに、私と私の周りだけが、世界から切り取られた空白のように浮いている。
ガチャリ。ノックもなしに、無遠慮に金属的な音がして、重厚な扉が開かれる。私は逆さまの詩集から目を離さず、やれやれと溜息をついた。
入ってきたのは、一人の男だった。漆黒の軍服に、同色の重厚な外套。肩には金糸で刺繍された「獣の紋」。襟元には、防御術式を示す微細な刻印がびっしりと走っている。そして胸元には、帝国の叡智と武力を象徴する「翼と書板」の銀章。
――レディの部屋にノックもなしに入ってくるなんて、帝国の紳士教育は、随分と合理的なのね。
神経質そうな細身の長身に、銀縁の眼鏡。感情を削ぎ落とした氷のような瞳は、彼が魔導士である以上に、冷徹な研究者であることを示している。彼は部屋の中央まで歩みを進め――そして、ピタリと止まった。
彼の視線が、不自然に浮遊する水玉を捉え、最後に、ベッドの上空で胡座をかき、逆さまの本を読んでいる私へと向けられた。
「…………」
目が合った瞬間、彼の方からバチッという不可視の火花が散った。
彼のような高位の魔導士には、世界が「術式」と「論理」で見えているはずだ。この部屋の気温、マナの濃度、重力のベクトル。彼の瞳には、すべての物質が「原因」と「結果」で結ばれた、美しい構造体として映っている。床には「支える」という理屈があり、アウグスト先生には「立つ」という理屈がある。
――けれど、私だけが違う。
彼の表情が凍りついた。計算が、できないのだ。彼がどれほど高度な魔導理論を駆使して解析しようとしても、私という存在だけが、どの方程式にも当てはまらない。魔法を使っている形跡もない。マナの反応もない。なのに、浮いている。彼の目には、私がまるで「世界に空いた穴」のように見えているはずだ。論理の通じない、不可解な空白。
「……座標定義が、成立しない……?」
魔導士は、うめくように呟いた。彼の体幹が揺らぐ。空間酔いだ。脳が信じている「世界の絶対法則」と、目の前の「現実」が乖離しすぎていて、三半規管が悲鳴を上げているのだ。論理を愛する彼にとって、それは生理的な嫌悪を催すほどの猛毒だ。
彼は反射的に、腰の剣の柄に手をかけた。敵意ではない。未知の「矛盾」に対する、管理者の防衛本能だ。
「よしなさい、エリアス殿」
背後から、アウグスト先生が静かに制した。
「剣など抜くな。……計算しようとするな。彼女は、君たちが信奉する『理論』の教科書には載っていない」
アウグスト先生の言葉に、エリアスと呼ばれた男の手が止まる。彼は深呼吸を一度し、強制的に思考を切り替えたようだ。目の前の現象を「術式」で解くことを諦め、ただの「現象」として受け入れる。そうやって脳の処理落ちを防いだのだ。さすがは帝国のエリート。見事な精神制御だわ。
「……失礼した。……貴殿の周りだけ、世界の理が滑っているな」
彼は脂汗を拭うこともせず、眼鏡の位置を直した。その瞳の奥には、消えない警戒心が焼き付いている。彼らはルールに縛られているからこそ強い。けれど、ルールのない存在の前では、その強さは脆さへと変わる。
私は空中で姿勢を変え、ふわりと床に降り立った。爪先が床に触れると、部屋に漂っていた水玉が、バシャリと本来の重力に従って落ちた。私が意識して、強制的に自分をこの場の記述に再接続したからだ。
――なんだ。初めからこうすればよかった。
「初めまして、特使殿」
私は微笑み、完璧なカーテシーを披露した。
「セリーナ・エル・ウィスです。……お見苦しいところをお見せしました。少し、足場が定まらなかったものですから」
私の言葉に、エリアスの眉がピクリと動く。彼は、私がただの不思議な少女ではなく、自分の置かれている「異常な状態」を正確に把握していることに気づいたようだ。彼は懐から、一通の分厚い封書を取り出した。封蝋には、皇帝の印章。
「帝国魔導士団特使、エリアス・ヴァルトです。帝国皇帝、レオニス・フォン・ヴォルルフ陛下より、親書を預かってきました」
硬質な声。彼は私を直視しないよう、視線をわずかにずらしている。私を見ると、またその奥にある「論理の破綻」に吸い込まれそうになるからだ。
「神聖国の留学生として、貴殿をローゼン帝国魔法学校へ招待したい。ただし、これは表向きの辞令です」
「裏向きは?」
私が問うと、彼は短く答えた。
「……剪定者だ」
剪定者。伸びすぎた枝を切り、庭を整える役目。なるほど。彼らにとってアンデッドとは、世界の美しさを損なう「無駄な枝葉」であり、それを物理的に切り落とすためのハサミが必要ということか。
「我々の国土の東方は、霧に覆われつつある。そこでは世界の秩序が歪み、自然の摂理が意味を成さない。……理が崩壊しているのだ」
エリアスは、悔しげに拳を握りしめた。秩序を愛する彼らにとって、理屈の通じないアンデッドの領域は、生理的な嫌悪の対象なのだろう。だからこそ、同じく「理の外」にいる私が必要になる。
「条件は、アウグスト閣下から聞いていますね?」
私がアウグスト先生を見ると、先生は静かに頷いた。
「ああ。彼女が帝国の危機を救った暁には、帝国は全力を挙げて、彼女を西の故郷へ送り届ける。……皇帝陛下直々の確約だ」
その言葉を聞いて、私は封筒を胸に抱いた。これが、切符だ。西へ帰るための、唯一のルート。
「わかりました」
私はエリアスに向かって、にっこりと笑いかけた。
「その契約、お受けします。……私という『ハサミ』を、せいぜい上手に使いこなしてくださいね?」
エリアスは何も答えなかった。ただ、深く一礼した。それは敬意ではない。予測不能な未知数に対する、畏怖と諦念に満ちた礼だった。
私は手元の封書に視線を落とす。赤い封蝋に押された、双頭の鷲。その獰猛な瞳が、私を見つめ返している。これが、私の新しい飼い主。あるいは、私がこれから食い荒らす新しい狩場。
重力が、ずしりと私の体を捕らえて離さない。私は封書を強く握りしめた。ミシリ、と紙が軋む乾いた音が、硝子の鳥籠に生じた最後の亀裂のように、静寂な部屋に響き渡った。




