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星が織りなす物語 Elysium  作者: 白絹 羨
第一章 硝子の鳥籠

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第八話 ざわめく鳥籠

 翌朝、学園都市は「羽音」で埋め尽くされていた。

 ブン、ブン、ブン。無数の蜜蜂が巣箱の中で騒いでいるような、低く、粘着質なノイズ。それは、生徒たちの噂話だ。


『昨夜の光、見た?』

『大聖堂の窓が全部吹き飛んだって』

『天使が降りたのよ』

『いいえ、あれは実験の失敗だわ。先生たちはそう言っていたけれど……』


 食堂で、回廊で、教室で。(すう)千人の生徒たちが吐き出す「憶測」が、空気中に澱みとなって滞留している。公式発表は「老朽化したステンドグラスの崩落」。学園側は、立ち入りを禁止し、急ピッチで修復工事の足場を組ませているらしい。けれど、誰もそんな「嘘」を信じていない。あんなにも鮮烈な、夜を真昼に変えるほどの光を見たのだから。彼らの本能は、そこに「人知を超えた何か」があったことを嗅ぎつけている。

 けれど、その騒めきは、ここには届かない。

 中央塔、最上階。「特別加療室」と呼ばれる、白い部屋。私は今、寮から隔離され、ここに収容されている。名目は「貧血による静養」。けれど実態は、制御不能な危険物の隔離だ。

 部屋は広く、清潔で、そして静かだった。窓の外には、眼下に広がる学園都市と、修復中の大聖堂の無惨な屋根が見える。

 ふわり。私は、ベッドの上で膝を抱えていた。正確には、ベッドのシーツから「五センチほど浮いた場所」で。

 重力がおかしい。昨夜、私が「距離なんていらない」「物理なんて邪魔だ」と叫んでしまったせいで、私の周囲だけ、世界のルールが適用されにくくなっているみたいだ。サイドテーブルに置かれたガラスの水差しの中で、水がビー玉のように丸まって浮遊している。読みかけの本も、栞を挟んだまま、蝶のようにパタパタと空中で羽ばたいている。


 ――ごめんなさいね。


 私は空中に浮く水玉を指先でつついた。世界が、私に遠慮している。また私が癇癪を起こして、表層(うすかわ)を剥がしてしまわないように、「セリーナ様、重力はこのくらいでよろしいでしょうか?」と顔色を窺っているようだ。便利だけれど、少し寂しい。これでは私が、世界から「腫れ物」扱いされているみたいじゃない。

 コン、コン。重厚な扉がノックされた。入室許可を出す前に、扉が開き、灰色のローブの男性が入ってくる。アウグスト先生だ。彼の顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。目の下には薄い隈。昨夜から一睡もせずに、事後処理――つまり私の尻拭い――に追われていたのだろう。


「体調はどうだ、セリーナ」


 彼は努めて教師らしく振る舞おうとしたが、部屋の中の光景を見て言葉を詰まらせた。宙に浮く水玉。重力を無視して揺れる私の髪。この部屋だけ、物理法則がバグっている。


「見ての通りです、先生」


 私は空中に浮いたまま、ふわりと微笑んだ。


「世界が、私を放してくれないみたいです。……あるいは、私が世界を拒絶しているのかしら」


「……『残響』だな」


 アウグスト先生はため息をつき、浮遊する本を避けて椅子に座った。


「君の昨夜の『歌』は、空間そのものに強い命令を残した。この部屋の定義が元に戻るまで、数日はかかるだろう」


 彼は、説教をしに来たわけではなかった。その瞳にあるのは、かつてのような「観察者」の冷徹さではなく、どこか諦めに似た「共犯者」の親密さだった。


「噂は広まる一方だ。シスターたちの口を封じるのにも限界がある」


「退学ですか?」


 私は訊ねた。学園の象徴を破壊したのだ。当然の処遇だろう。けれど、アウグスト先生は首を横に振った。


「いいや。……『栄転』だ」


 彼は懐から、一通の封書を取り出した。上質な羊皮紙。封蝋には、見慣れた学園の紋章ではなく、もっと攻撃的な、獰猛な意匠が押されている。――双頭の鷲。南の大国、帝国の紋章。


「明日、帝国から使者が来る。公式には『学術交流のための特別留学生』の迎えとして」


「……仕事が早いのですね」


「準備はしていた。……君をいつか、ここから逃がすために」


 先生の言葉に、私は少しだけ目を見張った。逃がす? 追い出すのではなく?


「この学園は、君には狭すぎる。それに、神聖国の教義(ドグマ)は、君のような『異物』を許容しない」


 彼は視線を窓の外へ――東の空へと向けた。


「昨夜、君が開けた『道』。……あれを見た時、私は確信したよ。あのアンデッドの群れを止められるのは、(ことわり)の外にいる君だけだと」


 彼の声は、懺悔のように響いた。一人の少女に、世界の命運を押し付けることへの罪悪感。でも、私はそんな殊勝なことは考えていなかった。

 私は、ふわりとベッドの上に着地した。久しぶりに感じる重力の感触。


「先生。帝国に行けば……西へ帰れるのですね?」


 私が確認したいのは、それだけだ。アウグスト先生は、私をじっと見つめ、そして深く頷いた。


「ああ。約束する。帝国を経由し、彼らの抱える『死の軍勢』の問題さえ片付けば……君を必ず、故郷へ送り届ける」


 それは契約だった。私は自由を、彼は世界の救済を。利害が一致した共犯関係。


「わかりました。……行きます」


 私は封書を受け取ろうと手を伸ばした。その時。バチッ、と静電気が(はじ)けた。封書に込められた「帝国の魔力」と、私の指先に纏わりつく「拒絶の魔力」が反発したのだ。水差しの中の水が、ざぶりと波打つ。

 アウグスト先生は苦笑した。


「……まずは、その『出過ぎた杭』のような魔力を収めることから始めないとな。明日の使者は、鼻が利く男だ。君がただの留学生じゃないとバレれば、面倒なことになる」


「善処します。……でも、約束はできません」


 私は浮き上がりそうになる体を、意識してベッドに押し付けた。面倒? 上等だわ。私を邪魔するものなら、帝国の使者だろうと、物理法則だろうと、まとめて書き換えてやるだけ。

 窓の外で、鳥が鳴いた。いつもと同じ、平和な朝のさえずり。けれど私には、それが鳥籠の扉が開く合図――あるいは、開戦のゴングのように聞こえた。

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