第七話 賢者の戦慄
風が、私の髪を遊ばせている。それは冷たい石壁に遮られた淀んだ空気ではない。夜明け前の、湿り気を帯びた本物の風。頭上を見上げれば、ぽっかりと空いた円形の穴から、紫紺の空が覗いている。星が瞬いている。天井に描かれた偽物のフレスコ画よりも、ずっと美しい。
私は、焼け焦げた祭壇の前に立ち尽くしていた。足元には、私の歌が焼き付けた痕跡が、複雑な幾何学模様を描いて黒く残っている。熱い。指先も、喉も、まだあの光の余韻を帯びて熱を放っている。
バァン‼ 背後で、重厚な扉が悲鳴を上げて弾け飛んだ。乱れた足音。荒い息遣い。それも二つ。振り返らなくてもわかる。その「灰色」の波長は、アウグスト先生。そしてもう一つ、鋭利で硬質の気配は――。
「セリーナ‼」
アウグスト先生の声が、広い堂内に反響する。いつもの冷静な、氷のような響きはない。焦燥と、恐怖と、そして安堵がないまぜになった、人間臭い叫び声。私はゆっくりと振り返った。
「ごきげんよう、学園長先生。……それに、ルイーズ先生も」
アウグスト先生の背後から、ルイーズ先生が姿を現す。私は少しだけ目を丸くした。いつもの完璧な宮廷魔術師の姿はそこになかった。足元は裸足のままスリッパを突っ掛け、上質なシルクの寝間着の上に、大急ぎで厚手のローブを羽織っている。しなやかな長い髪は結い上げられておらず、背中に無造作に流れていた。
――あら。寝間着の趣味、意外と可愛らしいのね。
薄い桃色の刺繍。教室で見せる「鉄の女」の仮面の下にある、彼女の素顔。それをこんな形で見ることになるなんて。彼女は片手に杖を握りしめていたが、祭壇の惨状を見た瞬間、その切っ先が力なく下がった。
「……嘘でしょう」
ルイーズ先生の唇から、乾いた音が漏れる。彼女の灰色の瞳が、私の足元の焦げ跡を這い、そして頭上の「穴」へと吸い込まれる。
「結界が……反応すらしなかった。外部からの攻撃じゃない。内部からの……いえ、『座標そのものの消失』?」
彼女は戦慄していた。魔術の専門家だからこそ、目の前の現象が「ありえない」ことだと理解できてしまう。神聖国の象徴であり、数千年の歴史を持つ国宝のステンドグラスが、影も形もなく消滅している。ただ、最初から「そこは外と繋がっていた」かのように、滑らかな断面を晒している。
アウグスト先生は、バージンロードの半ばまで歩み寄り、立ち止まった。その顔色は蒼白だ。怒られるかしら? いいえ、違う。彼の瞳にあるのは怒りではない。それは、未知の猛獣の檻に、武器を持たずに踏み込んでしまった飼育員の目だ。
「君が、やったのか」
問いかけではなく、確認だった。私はドレスの裾をつまみ、優雅にカーテシーをした。
「いいえ、先生。私はただ、窓を開けただけです」
私は頭上の星空を指差した。
「ここからだと、空気が澱んでいて、西の空が見えませんでしたから」
「……窓を開けた、だと?」
アウグスト先生の声が上ずる。彼は足元の焦げ跡に視線を落とした。そこには、魔法陣のような秩序だった線はない。私の感情が暴走して焼き付けた、混沌とした、しかし絶対的な「意思」の痕跡。
「これは魔法ではない……。術式が、存在していない」
彼が独り言のように呟く。冷や汗が、彼の整った顎を伝って落ちるのが見えた。
「君は、概念そのものを干渉したのか? 『壁がある』という事実を、『道がある』という定義に書き換えて……」
あら。さすがは「賢者」と呼ばれるだけあるわ。ミーナたちなら「すごい魔法ですね!」で終わるところを、彼は正確に、私の行いの「異常性」を理解しようとしている。そう。私は書き換えた。だって、邪魔だったから。パパとママの声を聞くのに、物理法則なんていう無粋なルールは必要なかったから。
「君は……自分が何をしたか、わかっているのか?」
アウグスト先生が、私の方へ一歩踏み出した。その手が、震えている。私を捕まえようとしているのか、それとも抱きしめようとしているのか。
「距離を消滅させ、物質を還元し、空間を接続した。……これは、神聖術の始祖たちが生涯をかけても到達できなかった、神の領域だぞ」
神。また、その退屈な言葉。
「そんな大層なことではありません」
私は、つまらなそうに答えた。
「ただ、お父様とお母様に『帰りたい』と言いたかっただけです。……手紙だと、間に合いそうになかったので」
私の言葉に、ルイーズ先生が息を呑んだ。彼女はアウグスト先生の背中に隠れるようにして、私を見つめている。その瞳には、恐怖と、そして同情のような色が揺れていた。
「キャアアアアアアアッ‼」
その時。遠くの回廊から、裂くような悲鳴が響いた。シスターたちだ。光と爆音に気づいた見回りの修道女たちが、ようやくここまで辿り着いたのだ。バタバタと駆ける足音。ざわめき。「何事ですか!」「あかりを!」という叫び声が、波のように押し寄せてくる。
アウグスト先生の肩が、ビクリと跳ねた。彼は振り返り、迫りくる「日常の音」を睨みつけた。そして、再び私に向き直る。その瞳の奥で、高速で思考が回転しているのが見えた。学園長としての責任。神聖国の守護者としての立場。そして、かつて世界を救った英雄としての直感。それらが激しく火花を散らし、一つの結論へと収束していく。
――ああ、決めたのね。
私にはわかった。彼のオーラの色が変わったからだ。迷いの灰色から、決断の銀色へ。
彼は、私をこの鳥籠から追い出すつもりだ。ここには置いておけない。シスターたちに見つかれば、私は「奇跡の聖女」として一生この聖堂に祀り上げられるか、あるいは「悪魔憑き」として地下牢に幽閉されるかだ。どちらにせよ、私の自由は死ぬ。
「……セリーナ」
彼が、静かに私の名前を呼んだ。教師の声ではない。もっと重く、対等な「共犯者」の声。
「君のその声は……ここでは、響きすぎる」
「ええ、知っています」
私は素直に頷いた。教室の窓を割り、聖堂の壁を溶かした。ここは狭すぎる。私の歌を響かせるには、あまりにも窮屈で、脆い。
「なら、行きたい場所があるか?」
彼は試すように問うた。ルイーズ先生も、黙って私の答えを待っている。彼女の手が、アウグスト先生のローブの袖を強く握りしめていた。私は微笑んだ。答えなんて、最初から決まっている。
「西へ。……故郷へ帰る道があるなら、地獄だって通り抜けてみせます」
アウグスト先生は、深く息を吐き出し、そして微かに口元を緩めた。それは、諦めと、微かな希望が混じった、複雑な笑みだった。
「わかった。……用意しよう。君にふさわしい、もっと広い舞台を」
回廊の向こうから、松明の明かりが近づいてくる。シスターたちの金切り声が、すぐそこまで迫っていた。アウグスト先生は踵を返し、ルイーズ先生の肩を抱き寄せると、私に背を向けて守るように立ちはだかった。
「……ルイーズ。隠蔽工作を頼めるか?」
「ええ。……『老朽化による崩落』で通すわ。無理があるけれど、彼女を怪物にはさせない」
二人の背中が、重なる。大人たちの秘密の会話。夜明けの光が、頭上の穴から差し込んでくる。私は、溶けたガラスが宝石のように散らばる床を踏みしめ、その光を浴びた。鳥籠の鍵が、今、外された音がした。




