第六話 暁の共鳴
大聖堂の扉は、巨人の瞼のように重かった。全身の体重をかけて押し開けると、蝶番が重々しい音を立てて悲鳴を上げ、数千年分の祈りが染み付いた冷え切った空気が、私の頬を打ち据える。
礼拝堂は、死んだ鯨の腹の中のように広大で、静まり返っていた。数百の長椅子が墓標のように整列し、その突き当たりにある祭壇の奥では、巨大なステンドグラスが夜の闇に溶け込み、黒い瞳のように沈黙している。
私はふらつく足で、バージンロードを歩いた。裸足の裏に、石の冷たさが吸い付く。ペタ、ペタという湿った足音だけが、この巨大な空洞に反響する。一歩進むたびに、私の心臓が早鐘を打つ。
――ここなら、届くかしら?
この場所は、学園都市の祈りが集まる「増幅器」だ。聖歌隊は、ここで神に祈りを捧げ、その声を天に届けているという。なら、私の声だって届くはずだ。神様なんかよりもっと確かな、西の空のパパとママへ。
私は最前列まで進み、膝をついた。見上げる祭壇。薄暗いガラスに描かれた歴代の聖人たちは、静かに私を見下ろしている。彼らは何も語らない。ただ、そこに在るだけだ。
――帰りたい。
胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。今すぐ、あの故郷の風に吹かれたい。城のテラスで、パパの大きな手に触れたい。ママの焼いたクッキーの匂いを嗅ぎたい。暖炉の爆ぜる音を聞きたい。それ以外のことは、もうどうでもいい。この学園がどうなろうと、東の穴が世界を食い尽くそうと、知ったことじゃない。私はただ、あの優しい場所に帰りたいだけ。
「……んー……んーー……」
私は、小さくハミングした。世界をどうこうしようだなんて、大それたことは考えていない。ただ、寂しさを紛らわせるために、自然と漏れた音だった。それは、ママがよく暖炉の前で歌ってくれた、ママが好きな歌謡曲。歌詞なんて、他愛もないものだ。でも、この旋律には「匂い」がある。薪が爆ぜる音。スープの湯気。パパの笑い声。私の大好きな記憶が、音符の一つ一つに染み込んでいる。
私は瞳を閉じた。暗闇の中で、その景色を思い描く。唇が、自然と歌詞を紡ぎ始めた。
「……西の風が、呼んでいるわ」
私の声が、静寂な礼拝堂に染み渡っていく。その瞬間。暗闇の中で私の頬を、ふわりと「何か」が撫でた。聖堂の中は完全な密室で、無風のはずなのに。それは、石の匂いのする冷たい隙間風ではない。草の匂いを含んだ、温かい西風。
――あら?
私は目を開けた。そして、息を呑んだ。
「……金色の、麦の海で」
私がそう歌った瞬間、足元の冷たい石床が、さざめいた。硬いはずの石畳が、黄金色の粒子となってサラサラと解け、そこから本物の「麦の穂」が芽吹き始めたのだ。一本、二本ではない。私の声が届く範囲、バージンロードの一帯が、瞬く間に黄金の麦畑へと書き換わっていく。サラサラ、サラサラ。穂が擦れ合う音がする。乾いた土の香ばしい匂いが立ち込める。それは幻覚ではない。確かにそこに質量を持った「麦」が存在している。
――ふふ。あなたたち、今までどこに隠れていたの?
私は驚かなかった。むしろ、安堵した。そうよね。冷たい石畳なんて嘘で、本当はこの温かい麦畑がここにあったのよね。私の歌が、隠されていた「本当のこと」をめくってあげただけ。楽しくなってきた。もっと。もっと、私の好きな世界を呼び起こしたい。
「……青い小鳥が、夜明けを告げる」
空中の塵が光り輝き、凝縮する。ピピ、チチチ……。光の粒子が翼を持ち、数羽の青い小鳥となって、私の周りを旋回し始めた。彼らは私の歌に合わせてさえずり、冷たい空気を春の陽気に変えていく。私の歌が、真実になる。私が「小鳥がいる」と言えば、世界は「はい、そうです」と従う。だって、その方がずっと素敵だから。
「……さあ、お家に、帰ろう」
私がそう歌った時、奇跡は極点に達した。
祭壇の奥、闇に沈んでいたステンドグラスが、内側から溶解した。「家に帰る」ためには、この壁は邪魔だからだ。聖人たちの絵が、飴細工のように溶け落ちていく。破壊ではない。世界が、私の歌う「故郷」の景色へと、優しく塗り替えられていく現象。赤、青、黄金。色とりどりのガラスが混ざり合い、美しい螺旋を描いて上昇する。
それはもう、窓ではなかった。この世界の表層が剥がれ落ち、その裏側にある「本当の光源」が剥き出しになった、次元の裂け目。
ぽっかりと開いた穴の向こうに、道が見えた。光で舗装された、西へと続く道。
アーー。アァーーー……。私は最後のフレーズを、空へ向かって解き放つ。その瞬間、私は自分の意識が、周囲の麦や小鳥たちと一緒に、光の粒子へと分解されるのを感じた。重力も、肉体も、全部ここに置いていく。私は「歌」そのものになって、風よりも速く、夜空を駆ける。
見える。眼下を流れる神聖国の平原。国境の山脈。深い森。すべてが一瞬で後方へと飛び去っていく。そして――見えた。懐かしい、崖の上に立つ石造りの城。
私は光の束となって、城壁を越え、両親の寝室のテラスへと降り立つ。窓ガラス越しに見える部屋は暗い。今は深夜だもの。パパもママも、ベッドで眠っている。
トントン。私は光の指先で、窓ガラスを叩いた。物理的な音ではない。心の扉を叩くような、優しいノック。ベッドの上のパパが、ん、と唸って身じろぎした。ママが、ふと目を覚まし、不思議そうにテラスの方を見る。
『……あなた? 今、窓の外で音が……』
『ん……風だろう……』
パパが眠そうに体を起こす。私はもう一度、窓を叩いた。今度は少し強く。そして、窓ガラスを透過して、光を部屋の中へと溢れさせた。二人が息を呑む気配がした。暗かった寝室が、淡い黄金色に染まる。それは照明のような光ではなく、朝焼けのような、温かくて懐かしい光。
二人はベッドから起き上がり、呆然と私を見つめている。パパの髭が少し伸びているわ。ママ、少し痩せたかしら。愛おしい。触れたい。
――ほら、届いた。
私は光の中で微笑んだ。やっぱり、距離なんて関係なかった。歌えば、いつだって世界は私のものになる。
私は光の手を伸ばし、二人の頬をそっと撫でた。触れた。温かい。涙が出そうなほど、懐かしい肌の感触。パパが目を見開き、ママがボロボロと涙を零すのが見えた。彼らにも、聞こえたのだ。光の中に混じった、娘の歌声が。
『ただいま、パパ、ママ』
そう伝えた瞬間、私の意識はゆっくりと、引潮のように引き戻された。
トン。膝が床につく感触で、我に返る。目の前の光景に、私は瞬きをした。麦畑は消えていた。小鳥たちも、光の残滓となって霧散していく。けれど、夢ではなかった。私のドレスの裾には、数粒の「麦の殻」が絡みついていたし、窓枠の縁には、溶けたガラスが宝石のように固まり、微かな光の余韻を放っていた。
静かだ。ステンドグラスのなくなった大きな穴から、夜明け前の紫紺の空が見えている。星が瞬いている。あれは、本物の星だ。天井に描かれた偽物の絵なんかじゃない。
私は自分の指先を見つめた。パパとママの体温が、まだ残っている気がする。
「……ふふ」
自然と、笑みが零れた。帰れた。一瞬だけれど、確かに私はあそこにいた。それだけで十分だった。国宝のステンドグラスをなくしてしまったけれど、まあいいわ。元の方が間違っていたんだもの。あんな偽物の絵よりも、あの穴から見える本物の星空の方が、ずっと綺麗だわ。




