第五話 銀の糸、黒い咀嚼音
午前二時。修道鐘の音が、重く、低く、夜の底を這うように響いた。祈りの刻ではない。完全なる静寂を守るべき「沈黙の刻」だ。
皇立アストレイア学園、女子寮「白百合の回廊」。ここは、神に仕える乙女たちが羽を休める場所であり、同時に厳格な戒律によって管理される「聖域」でもある。私の世界は、石造りの壁と、飾り気のない十字の窓枠によって切り取られている。
西棟の三階、三〇四号室。月光が、磨き上げられた石床を青白く照らし出し、部屋を冷徹なほど正確に二等分していた。右側には私のベッドと、祈祷台を兼ねた小さな机。左側にはルームメイトのそれが、鏡合わせのように配置されている。華美な装飾は一切ない。リネンは純白。家具は聖木である樫の無垢材。壁には「調和」を説く聖句のタペストリーが一枚だけ掛けられている。ここは「生活の場」ではない。「信仰の実践の場」だ。
左側のベッドから、穏やかな寝息が聞こえる。エレノア・フォン・クライスト。敬虔な伯爵家の令嬢であり、私のルームメイト。彼女は胸元で手を組み、まるで眠りながら祈りを捧げているかのような姿勢で安らいでいる。彼女の魂は、この国の教え――「調和こそが美徳」というプログラムに、完璧に適合している。だから、あんなにも無防備に、神の加護を信じて眠ることができるのだ。
――羨ましいわ、エレノア。
私は音を立てないように椅子に座り直し、机に向かう。廊下からは、見回りのシスターの衣擦れの音と、微かな詠唱が聞こえてくる。彼女たちは夜通し歩き回り、私たちの夢に「不協和音」が混じらないよう監視しているのだ。
思い出す。六歳の春、私が初めて投げ込まれた「初等部」の宿舎を。そこは、黒衣のシスターたちが支配する、静寂の庭だった。言葉の通じない異国の少女だった私は、「調和を乱す異物」だった。
「静かになさい。祈りなさい。神は全てを見ておられます」
シスターたちの教えは、鞭のように私の自由を削ぎ落としていった。泣くことは「感謝の欠如」。叫ぶことは「野蛮な情動」。私たちは「学位」をとるために育てられているが、その根底にあるのは「神聖なる歯車」としての教育だ。攻撃的な魔法は失われ、代わりに教え込まれるのは「儀式」と「制御」。突出した個はいらない。美しい全体の一部になりなさい。そうやって十二年間、私は自分の輪郭を削り、この「神聖な型」に押し込められ続けてきた。
――エレノアは、その型に収まることを誇りに思っている。
「ねえセリーナ様。昨日のミサ、学園長のお言葉は素晴らしかったですね」
「私たちは、この国の礎になるのです」
彼女が吐き出す言葉は、いつも砂糖菓子のように甘く、そして聖水のように清らかで――中身がない。私はそれに微笑みで答え、彼女が満足して眠りに落ちるのを待つ。
そうしてようやく訪れるのが、この午前二時の静寂だ。シスターの足音が遠ざかり、監視の目が一瞬だけ緩む、この数時間だけ。ここだけが、私が「聖女」の仮面を外し、ただの「迷子」に戻れる時間。
私は机の引き出しを、音もなく開けた。聖典の下に隠しているのは、束ねられた紙と、使い古されたインク壺。そして、一本の羽ペン。
カリ、カリ。私はペン先にインクを含ませ、紙の上に走らせる。硬い音が、清められた空気に小さな傷をつける。これは儀式だ。私が六歳でこの鳥籠に入れられてから、四千三百八十日間、一日たりとも欠かしたことのない、魂の休息。シスターに叱責された夜も、誰にも言葉が通じず震えた夜も、私は必ずペンを執った。祈り? 違う。私は神に祈っているのではない。遠い西の空にいる、パパとママに「接続」しているのだ。
『お父様、お母様。今日は風が少し冷たかったです』
インク壺から吸い上げた黒い液体が、紙の上で線になる。私には見える。湿ったインクが空気に触れて乾くその瞬間、文字が意味の質量を持ち、極細の「銀色の糸」へと変質していくのが。糸は紙面からふわりと浮き上がり、鉄格子の嵌まった窓をすり抜け、遥か西の空へと伸びていく。
――繋がった。
指先に、微かな手応えを感じる。この糸の先には、故郷がある。神聖国の教義も、シスターの監視も届かない、私の本当の居場所。文字は、ただの記号じゃない。それは私の魂の一部を切り取って、崩れそうな世界を故郷へと縫い留めるための「錨」だ。
『中庭の花が咲きました。……でも、あの子たちは聖歌の練習の声がうるさいと、少し耳を塞いでいました』
毎日、毎日。私はこうして、一本ずつ銀の糸を紡いできた。四千三百八十本の糸。それが束になり、私という存在をこの世界に係留している。もし、この作業を一日でも怠れば、私はこの巨大な「修道院」の無機質な祈りに飲み込まれて、私ではない何かに作り変えられてしまう気がして。カリ、カリ、カ……。不意に、ペン先が止まった。インクが滲み、聖なる紙の上に、醜い黒い染みを作る。
――聞こえる。
東の方角。修道院の厚い壁の向こう。遥か彼方の地平線から。じゅるり。不快な水音が、私の脳髄を直接舐め上げた。昼間、図書塔で聞いた音よりも、ずっと近く、ずっと大きい。東の空に空いた「穴」。あの失敗した記述の吹き溜まり。神聖なる静寂の中で、巨大な見えない口が、世界を咀嚼している音だ。
じゅるり、グチャ、じゅるり。音がするたびに、世界の表層が食いちぎられる。森が消える。川が消える。そこで暮らす人々の「名前」が消化され、ただの排泄物のようなアンデッドへと変換されていく。
――食べている。
私の銀の糸を。私が十二年間、祈りの代わりに積み上げてきた、パパとママへの命綱を、あの穴が吸い込んでいる。
『怖い』
私は震える手で、そう書き足そうとした。でも、書けない。シスターたちは言う。「恐れは信仰の不足である」と。違う。恐ろしいのは、あなたたちが信じている「調和」が、あんな飢餓の前では何の役にも立たないという事実だ。
――遅い。
インクが乾くのを待つ時間すら、もどかしい。紙という物理媒体の摩擦係数が、私の思考を邪魔する。このままでは間に合わない。私がこうして手紙を書いている間に、その感情ごと、故郷が飲み込まれてしまう。四千本の糸なんて、あの飢餓の前では蜘蛛の巣よりも脆い。
――嫌。――行かないで。
パキィッ‼ 乾いた音が響いた。私の手の中で、愛用していた羽ペンが真っ二つに折れていた。筆圧に耐えきれず、軸が砕けたのだ。ささくれた軸先から、黒いインクが指を汚す。それはまるで、私の古い通信手段の「死」を告げる黒い血液のようだった。
私は立ち上がった。椅子がガタと音を立てる。ベッドの上のエレノアが、んぅ、と寝言を漏らして寝返りを打つ。彼女は起きない。この切迫した世界の危機すら、彼女の清らかな夢の中では「天使の羽音」程度にしか処理されない。
――ああ、駄目だわ。
私はインクに塗れた手を、ドレスになすりつけた。書いても、書いても、間に合わない。物理的なインクが乾く速度よりも、あの「穴」が世界を食べる速度の方が、絶望的に速い。私の四千本の銀の糸は、もう半分以上が食いちぎられてしまったかもしれない。
どうでもいい。世界がどうなろうと、この学園が飲み込まれようと、そんなことはどうでもいい。ただ、私の糸だけは。パパとママに繋がるこの細い道だけは、絶対に失いたくない。
――帰りたい。帰りたい。今すぐ、あそこへ帰りたい。
でも、この体はここにある。この重たい物理的な肉体は、石壁と戒律に縛り付けられている。なら、せめて。心だけでも。声だけでも。この意識を粒子に変えて、あそこへ飛ばすことができれば。
私は部屋を飛び出した。裸足のまま、冷たい石の回廊を駆ける。どこへ行けばいい? どこなら、一番空に近い? 足が勝手に、学園の中心へと向かう。大聖堂。あそこなら、音を遮るものがない。あそこの高い天井なら、私の小さな声を、少しは遠くまで響かせてくれるかもしれない。
待っていて、パパ、ママ。今、私をそちらへ帰すから。




