第四話 東の空の亀裂
放課後の図書塔は、死んだ時間の墓場だ。螺旋階段を登りきった最上階。
ここは学園で最も高く、最も静かな場所。書架には、何千、何万という「かつて生きていた声」が、革表紙の中に干からびて閉じ込められている。みんなはこれを「知識」と呼ぶけれど、私には「缶詰」に見える。著者がその瞬間に切り取った思考の死骸。インクが紙に染み込んだ刹那、世界はもう次の秒針を刻んでいるというのに。過去を剥製にして並べただけの場所に、今更なんの価値があるというのだろう。
蓋を開けなければ腐らないけれど、二度と呼吸もしない言葉たち。でも、教室のあの突き刺さるような視線に晒されているよりは、ここのインクの死臭の方がずっと心地よかった。
私は窓辺に歩み寄る。巨大なアーチ状の窓ガラス。先ほどの授業で私が割ってしまったものとは違い、ここのガラスは厚く、古い魔術で何重にも強化されている。私は額を冷たいガラスに押し当て、外界を覗き込んだ。
眼下には、精緻な箱庭のような学園都市。その向こうには、どこまでも広がる神聖国の平原。そして、遥か彼方――東の空。
そこには、いつもの「穴」があった。
生まれた時から、ずっとそこにある。私にとって、それは空の青さや、太陽の眩しさと同じくらい、当たり前の風景だった。東の空には黒い穴が空いている。それは「夜が明ける」のと同じくらい、疑いようのない世界の理だと信じていた。幼い頃、母様に尋ねたことがある。
「ねえ、あそこの黒いところ、今日は少し大きいね」
母様はキョトンとして、私の指差す方角を見つめ、そして優しく微笑んだ。
「そうね、今日は雨雲が多いわね」
その時、私は初めて知ったのだ。ああ、見えていないのだ、と。大人たちには、あのドロドロとした黒いタールのような「未定義」が、ただの「雨雲」という安全なテクスチャに変換されて見えているのだと。
それから私は、穴の話をしなくなった。だって、説明しても無駄だもの。私だけが知っている。世界のテクスチャが、あそこだけごっそりと剥がれ落ち、「記述」が消失していることを。本来なら「青」や「白」、あるいは「風」という定義があるはずの座標に、色が死に、音が届かず、光が吸い込まれて帰ってこない「虚無」が渦巻いていることを。まるで、誰かが巨大な消しゴムで、世界の端から乱暴にゴシゴシと擦り消したような跡。
私はそれを、秘密の友人のように眺めて育った。周りの人が「綺麗な空だね」と笑うたびに、私は心の中で『嘘つき』と呟きながら、自分だけに見えるその傷跡に優越感を抱いていた。
けれど。学園に来て、ここの膨大な「缶詰」たちを読んで、私はようやく理解してしまった。あれがただの「穴」ではないことを。古い伝承にある、愚かな魔女たちの実験。「言葉を積み重ねれば、魂が生まれる」と信じた、禁忌の儀式。幼い頃はわからなかった。でも、今ならわかる。風に乗って漂ってくるこの匂い。焦げ付いたインクと、甘ったるい欲望の味。これは「失敗」の味だ。
「…………」
私の喉が、無意識にひゅっ、と鳴った。
――広がっている。
見慣れたはずのその穴が、記憶にあるサイズよりも明らかに肥大化している。かつて魔女たちが産み落としたのは、魂ではなかった。あれは――「言葉の残骸」だ。中身のない言葉たちが、自分たちに欠けている「意味」を求めて、必死に世界を貪り食っている。
じゅるり、じゅるり。そんな幻聴が脳髄を直接舐める。あの黒い穴の縁で、無数の見えない口が、この世界を構成する「真実」を咀嚼している音だ。森が食べられ、風が食べられ、そこで暮らしていた人々の名前が食べられ、「嘘」に書き換えられていく。痛い。痛い。遠い場所の出来事なのに、私の皮膚がその「改竄」を感じ取って、粟立っていた。
コツ、コツ、コツ。背後から、規則正しい靴音が近づいてくる。このリズム。この、湿度を含んだ灰色の気配。私は振り返らなかった。ガラスに映る影だけで、それが誰かわかるから。
「……授業を抜け出して、こんな所にいたのか」
アウグスト先生の声。そこには叱責の色はなく、ただ静かな警戒心だけが滲んでいる。彼は私の隣に並び、同じ窓から東の空を見上げた。
彼の横顔を、ガラス越しに盗み見る。銀色の髪が、薄暗い塔の中で冷ややかに光っている。その鋭い灰色の瞳は、地平線の彼方を睨みつけていた。彼には「見えていない」はずだ。彼が見ているのは、ただの曇り空。気象学的に説明のつく、低気圧の塊。だというのに、彼の魂は震えていた。彼の周囲を取り巻くオーラが、細かく波打ち、警報を鳴らしている。
――ああ、この人は「知っている」のね。
見えなくても、知っている。かつて彼が戦った記憶――東の地獄が、あの雲の向こうにあることを。そして、あれが単なる怪物ではなく、私たちが学んできた「魔法の失敗の成れの果て」であることを、彼は肌で理解しているのだ。アウグスト先生が、ゆっくりと口を開いた。
「君には……何が見えている?」
その問いは、教師が生徒にするものではなかった。迷える巡礼者が、預言者に縋るような響き。彼は恐怖しているのだ。自分の目に見えない何かが、確実にそこに迫っていることに。そして、隣にいる少女が、その「何か」と繋がっていることに。
私はガラスから額を離し、彼の方を向いた。嘘をついてはいけない。この人は、私の「管理者」であり、この世界で数少ない、私の言葉を聞こうとする人だから。
私はガラスの向こうの、黒い虚無を指差した。
「空が、泣いています」
私の言葉に、アウグスト先生の眉がピクリと動く。
「泣いている……? 悲しんでいるということか?」
「いいえ」
私は首を振った。あれは感情ではない。もっと生理的な、もっと原始的な欠落の悲鳴だ。あの黒い穴からは、悲しみなんて高尚なものは聞こえてこない。聞こえてくるのは、ただ一つのノイズだけ。偽物が、本物になりたくて上げる、羨望の叫び声。
私は、感じ取ったままの「音」を翻訳して、彼に伝えた。
「……お腹が空いたって」
アウグスト先生が、息を呑んだ。その顔から血の気が引いていくのが、ありありと見えた。
お腹が空いた。そう、あれは「飢え」だ。自分という存在を定義できない空っぽの魂たちが、他者の「生」を奪うことで自分の空白を埋めようとする、永遠の飢餓。じゅるり。また、空が一口、青色を飲み込んだ。
「……学園長先生。あのままだと、全部なくなっちゃいますよ」
私は淡々と告げた。この美しい学園も、ルイーズ先生の紅茶も、あなたのその銀色の髪も。あの大口が開けば、一瞬で「無意味な文字列」に消化されてしまう。
アウグスト先生は、私を見ていない。彼は東の空を凝視したまま、手すりを握りしめていた。その拳が白くなるほどに強く。彼には見えない。けれど、私の言葉を通して、彼は今、その「飢え」の正体を――かつての戦友たちが遺した負の遺産を、幻視したのだ。
沈黙が降りる。書架の「缶詰」たちが、カタカタと怯えるように震える音がした。




