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星が織りなす物語 Elysium  作者: 白絹 羨
第一章 硝子の鳥籠

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第三話 死語の羅列

 講義室の空気は、古びた羊皮紙と、乾いたラベンダーの香りで満たされていた。すり鉢状に並んだ座席には、数十人の学生が詰めかけ、眼下にある教壇の一点を見つめている。

 そこには、一人の女性が立っていた。ルイーズ・フォン・アークレイン教授。長身で絹のように滑らかな髪に、射抜くような灰色の瞳。彼女の輪郭は、アウグスト先生とは違う意味で鋭い。アウグスト先生が「薄い」なら、彼女は「硬い」。

 彼女が動くたび、教室中の空気がさざめく。男子生徒たちの頬は上気し、女子生徒たちはため息混じりの羨望を漏らす。彼らは、あわよくばその灰色の瞳に自分が映ることを夢見ているのだ。帝国の名門、美しき天才宮廷魔術師(まじゅつし)。その「記号」に群がる羽虫たち。


 ――残念ね、みなさん。


 私は心の中で冷ややかに笑う。彼女の瞳は、あなたたちなんて見ていない。彼女がこの学園に縛られている理由は、ただ一つ――私だ。彼女の周囲には、研ぎ澄まされた刃物のような結界が張り巡らされているけれど、その切っ先は常に、この教室の異物である私へと向けられている。

 そう、彼女にとっての世界は「私」か「それ以外」か。私は彼女の最優先事項であり、たった一人の囚人なのだ。その事実は、不思議と私の孤独を慰めてくれる。

 教壇のテーブルには、湯気を立てるティーカップが優雅に置かれていた。


 ――ベルガモットと、微かな火薬の匂い。


 彼女の紅茶からは、遠い戦場の記憶が香る。彼女もまた、私の「管理者」の一人だ。講義中だというのに紅茶を離さないその姿は、一見優雅に見えるけれど、私にはわかる。あれは彼女にとっての「水平器」なのだ。傾きかけた世界の均衡を、あの液面で測っている。

 ふと、彼女のドレスの裾から、微かに「甘い薔薇色」の糸が伸びているのが見えた。その糸は、どこか遠く――おそらく学園長室にいるアウグスト先生の魂へと繋がっている。二人は隠しているつもりなのだろう。学園長と教授。あるいは、厳格な父と、それを支える母。公的な仮面の下で、お互いの体温だけを頼りに支え合っている、大人の不器用な秘密。私には丸見えだ。その糸は、ひどく細くて、今にも切れそうで、見ていて痛々しい。


 ――大人って、どうしてこうも隠したがるのかしら。


 愛しているなら、愛していると叫べばいいのに。そうすれば、その「薔薇色」はもっと鮮やかな赤になって、二人を守る強固な結界になるはずなのに。彼らは言葉を使いすぎるせいで、一番大切なことを口にする機能を失ってしまっているみたいだ。


「――では、第五列。そこの君」


 ルイーズ先生の冷涼な声が響く。彼女は私が見ている「糸」には気づかないふりをして、教師の仮面を被り直す。指名された男子生徒が、名前を呼ばれた感激に顔を紅潮させながら、慌てて立ち上がった。


「『第一種・熱源生成』の実演を。……教科書通りにね」


「は、はい! ……我が意に従え、赤き蛇よ! 空間を焦がし、顕現せよ! イグニス!」


 生徒が声を張り上げる。空気が震え、彼の手のひらに小さな火の玉がぽっと浮かんだ。周囲からは「おお」と感嘆の声が漏れる。けれど、私は思わず目を伏せた。


 ――汚い音。


 彼が唱えた呪文は、継ぎ接ぎだらけだった。「燃えろ」と命令しながら、彼の心は「失敗したらどうしよう」と怯えている。その矛盾した信号を、無理やりマニュアル通りの言葉で縛り付け、空間から熱をカツアゲしているに過ぎない。生まれた火の玉も、哀れだった。あれは「(ほのう)」ではない。赤く発光するだけの、熱量を持たない画像のようだ。死んだ言葉で編まれた、死んだ火。


「合格点ね。魔力効率は悪いけれど、形にはなっているわ」


 ルイーズ先生はティーカップを口に運びながら、淡々と評価を下す。彼女の灰色の瞳が、ゆっくりと巡回し――そして、私で止まった。

 ピクリ、と私の肌が粟立つ。他の生徒を見る時の「流すような目」ではない。物理的な質量を伴った、監視者の目。彼女の背後には、巨大な帝国の紋章の気配が微かに透けて見える。アークレイン家。帝国の守護者(しゅごしゃ)。彼女は知っているのだ。私が何者で、ここがどういう場所(おり)なのかを。


「次は、セリーナ・エル・ウィス」


 名前を呼ばれた瞬間、教室中の空気が変わった。好奇心、嫉妬、そして本能的な忌避感。それらが混じり合った粘着質な視線が、一斉に私に突き刺さる。私はスカートの裾を正して立ち上がった。


「はい」


「君の『炎』を見せてちょうだい。……君なりの定義で構わないわ」


 試されている。彼女は教科書通りの詠唱を求めていない。私がこの世界をどう「認識」しているのか、そのサンプルを採取しようとしている。

 私は右手を前に出した。炎。それを定義するのは簡単だ。言葉なんていらない。数式もいらない。ただ、ここの空間密度を上げて、分子たちを少しだけ「興奮」させてあげればいい。彼らが踊り出し、ぶつかり合い、歓喜の声を上げる瞬間。それが熱であり、光だ。

 私は口を開いた。「イグニス」と言おうとした。けれど、私の喉にある器官は、その「嘘」を拒絶した。だって、炎は「イグニス」なんて名前じゃない。炎の本当の名前は、もっと激しくて、もっと純粋な振動だもの。


 ――キィィィィィィン……。


 私の唇から漏れたのは、言葉ではなかった。それは、人間の可聴域を遥かに超えた、純粋な「信号音(トーン)」だった。空気が凍りついたのではない。空気が「整列」したのだ。私の意思に従って、講義室中の酸素と窒素が、軍隊のように直立不動の姿勢をとった。


 パキィッ‼ 乾いた破裂音が響き渡る。炎は出なかった。その代わり、講義室の南側に並んでいた巨大な窓ガラスが、端から順に、見えない刃物で切られたようにヒビ割れていった。熱ですらない。ただの「命令」の余波だけで、物質的な強度が耐えきれずに崩壊したのだ。

 静寂。先ほどまでざわめいていた生徒たちは、石像のように固まっている。教師であるルイーズ先生だけが、眉一つ動かさず、ひび割れた窓と、私の手のひらを交互に見つめていた。彼女の手の中の紅茶が、水面を激しく波立たせている。


「……ごめんなさい」


 私はそっと手を下ろした。また、やってしまった。この世界の「器」は、私の「中身」を入れるには、あまりに脆すぎる。


「私の言葉は……ここの空気には、少し鋭すぎるみたいです」


 それは比喩ではなかった。私の声は、物理的に空間を切り裂いてしまう刃なのだ。ルイーズ先生は、ふぅ、と紅茶の湯気を吹き払うと、静かに言った。


「……そうね。君には、既存の言語(マニュアル)は窮屈でしょう」


 彼女の灰色の瞳が、微かに細められる。そこには、教師としての(あき)れと、監視者としての警戒――そして、ほんのわずかな「哀れみ」の色が混じっていた。


「座りなさい、セリーナ。……今日は風通しが良くなってしまったけれど、授業は続けるわよ」


 彼女は指先一つ動かさず、ただの言葉で場の空気を制圧した。私は席に着く。隣の席の学生が、椅子を少しだけ私から遠ざける音が、キイ、と床を擦った。窓の外から吹き込む風が、ひび割れたガラスを揺らして、チリン、と涼やかな音を立てた。その音だけが、私にとっての「正解」のように聞こえた。

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