第二話 定義された朝
十八回目の春が来たけれど、この世界の「彩度」は相変わらず過剰なままだ。
私は回廊を歩く。コツ、コツ、とヒールが石畳を叩くたびに、足元から小さな光の波紋が広がる。みんなはこれをただの「道」だと思っているけれど、私には巨大な書物の上を歩いているように見える。石と石の継ぎ目、あのごつごつした亀裂。あそこには、この学園都市を構成する「記述」がびっしりと埋め込まれている。
――硬度、摩擦係数、歴史的摩耗。
文字だ。無数の文字が、黒い蟻の行列のように継ぎ目を這い回り、この石畳が石畳であることを必死に主張している。
――ごきげんよう。今日も、あなたたちの定義は窮屈そうね。
私がその上を通り過ぎると、文字たちは畏まって道を空け、私のドレスの裾にキスをするように煌めいた。
「あ、セリーナ様! おはようございます!」
不意に、水飴のように粘り気のある甘い音が鼓膜を揺らした。振り返ると、回廊の向こうから同級生のミーナが駆け寄ってくるのが見える。彼女の輪郭は、興奮を示すオレンジ色の毛羽立ちで覆われていた。
ミーナ・フォン・ベルク。大学部から編入してきた、新興貴族のご令嬢。彼女は私のことを「友人」と定義しているけれど、私には彼女が「鏡」を見ているようにしか思えない。彼女の瞳に映っているのは私ではなく、「王女の隣に立っている私」だ。それでも、彼女の放つオレンジ色の波長は、純粋な悪意がない分だけ、まだ呼吸ができた。
「昨日の『古代魔法史』の試験、もう最悪でしたよねぇ! あの三問目の記述、絶対習ってないところ出ましたよね?」
ミーナは私の隣に並び、早口で「不満」という名の泥を吐き出し始めた。彼女の甲高い声が、神聖なる学園の静寂にヒビを入れていく。
皇立アストレイア学園。神聖国の首都に鎮座する、知と魔法の最高府。東の区画に聳える「初等部」の尖塔から、いま私たちが向かっている中央の「大学部」の大講堂まで、広大な敷地には数千人の学生が収容されている。ここは巨大な「加工工場」だ。そして私は、この工場で最も長く磨耗し続けている部品の一つだ。
六歳の春。辺境の故郷から引き剥がされ、この「初等部」の寮に入れられた日の、あの石壁の冷たさを鮮明に覚えている。当時の私にとって、空は四角く切り取られた絵画でしかなかった。言葉の通じない異国の少女。当時のクラスメイトたちは、私を遠巻きにし、「あれが野蛮人の姫だ」と囁き合った。彼らの言葉は鋭い針となって、幼い私の肌を無数に刺した。
中等部に上がり、私の背が伸びるにつれて、「無視」は「畏怖」へ、そして高等部を出る頃には「崇拝」へと変わった。中身はずっと変わらないのに、私の外側に貼られたラベルだけが、「異物」から「聖女」へと勝手に書き換えられていったのだ。
ミーナはその歴史を知らない。彼女は私が「聖女」というラベルを貼られてから出会った、大学部からの友人だ。だから彼女は、私がかつて泥を投げつけられた過去も、夜毎に枕を濡らした孤独も知らない。彼女にとっての私は、最初から「美しく完璧な王女様」なのだ。
――アウグスト先生が来たのは、私が中等部の頃だったかしら。
ふと、灰色のローブの背中を思い出す。彼が学園長として赴任した日、学園の空気が変わった。それまでの淀んだ空気が一掃され、代わりに「悲しみ」に似た静謐な透明色が満ちた。あの時、中庭で彼と目が合った瞬間を覚えている。彼だけが、私のラベルではなく、その奥にある「虚無」を覗き込んだ。だからこそ、彼は私の「管理者」となり、私は彼の「観察対象」となった。
「……ねえ、聞いてます? セリーナ様ったら!」
ミーナが私の腕に触れる。その手触りは、生温かいパン生地のようにまとわりつく感触だった。私は意識を「記憶の地層」から引き上げ、今の「表層」へと戻す。
「ええ、聞いているわ。試験の話でしょう?」
「そうですよぉ! もう、セリーナ様は余裕なんだから。……で、三問目、なんて書きました?」
試験。ああ、あの紙束のこと。
「……そうね」
私は昨日の記憶を再生する。机に配られた羊皮紙の束。ミーナたちは、そこに書かれたインクの配列(問題文)を必死に読み解こうとしていた。この学園は、初等部から大学部まで、十二年間一貫して同じことを教える。『定義せよ』『暗記せよ』『再現せよ』。けれど、私には文字なんて読めなかった。だって、あの紙の上で、インクたちが悲鳴を上げていたから。
「難しかったというより……可哀想だったわ」
私の呟きに、ミーナがキョトンとして歩みを止める。
「え? 可哀想? ……問題が、ですか?」
「ええ。問題用紙のインクの匂いが、とても悲しそうだったの」
私は正直な感想を口にした。あのインクは、無理やり「嘘の歴史」の形に固定されていて、乾く瞬間に「痛い、痛い」と泣いていたのだ。セリオナ王国が滅んだ理由? そんなもの、記述しなくても、そこの壁のシミが全部喋っているじゃない。まるで、焦げた砂糖と、古びた鉄錆を混ぜたような、悲痛な匂い。私は解答欄に答えを書く代わりに、指先でインクを撫でて慰めてあげた。だから、私の答案は白紙だ。
ミーナは数秒間、口を半開きにして私を見つめていたが、やがて「ぷっ」と吹き出した。
「もう! セリーナ様ったら、またそんな詩的なことを! 『インクが悲しそう』だなんて、王女様の感性はやっぱり独特ですねぇ」
彼女は私の背中をバンバンと叩く。その無遠慮な衝撃が、私の周囲に漂う静謐な粒子の膜を乱暴にかき混ぜる。彼女は笑っている。大学部で出会ってから一年。彼女はずっとこうだ。私の言葉を「冗談」や「天然」という箱に押し込め、理解することを放棄して、安心している。初等部の頃の同級生たちが投げた「石」と、彼女が投げる「好意」。私にとっては、どちらも同じ「理解の拒絶」だ。
――羨ましいわ。
世界の悲鳴が聞こえない耳。インクの涙が見えない目。その鈍感な鎧があれば、この十二年間も、もっと楽に息ができたのかもしれない。
私たちは教室へと向かう。すれ違う生徒たちが、私を見て道を空ける。彼らの多くは、ミーナと同じように「美しい天然な王女様」という好意的な、けれどピントのズレた眼差しを向けてくる。でも、未だに「避けるもの」がいる。
廊下の隅、分厚い眼鏡をかけた男子生徒。彼と視線が合った瞬間、彼の方から「拒絶」の棘が飛んできた。彼は青ざめ、呼吸を止めて、壁に張り付くようにして私をやり過ごす。彼の瞳は叫んでいた。『近づくな』『恐ろしい』と。――あら。私は彼にだけ、ほんの少し深く微笑んでみせた。
彼らは「森の小動物」のように敏感なだけだ。目の前にいるのが、自分たちとは異なる捕食者であるということを、肌で感じ取って震えている。怖がらなくていいのに。私はあなたたちを食べるつもりなんてない。私はただ、間違って縫い合わされたこの世界を、正しい形に戻してあげたいだけ。
チャペルの鐘が鳴る。ゴーン、ゴーンという重たい音が、朝の空気を四角く切り取っていく。私たちは講義室の巨大な扉の前に立つ。重厚なオーク材の扉には、学園の紋章である「天秤と剣」が彫られている。秩序と力。この国が信じる神。けれど私には、それが「錠前と鎖」に見えて仕方がない。さあ、今日も「記号」の時間だ。私は扉に手をかける。冷たい真鍮のノブが、私の体温に触れて、安堵のため息をついたのが聞こえた。




