第十九話 硝子の海
背中を預けた干し草の束が、規則的な振動を伝えてくる。私たちは今、荷馬車の荷台に揺られていた。
徒歩での峠越えを覚悟していた矢先のことだ。野菜を積んで坂を上ってきた農夫が、すれ違いざまにエリアスの軍服を見るや否や、何も言わずに馬を止め、荷台を指し示したのだ。恐怖による迎合とも、善意による施しとも違う。まるで「軍人というタグを認識したら輸送を提供する」という規則があらかじめ組み込まれているかのような、あまりに滑らかな連携だった。礼を言う間もなく、御者はただ前だけを見て手綱を振るっている。
ガタゴトと、車輪が石畳を噛む音が響く。峠を越え、視界が開けると、眼下には陽光を浴びた港町が広がっていた。煉瓦色の屋根が幾何学的な模様を描き、その向こうには水平線が横たわっている。
「気持ちがいい潮風……」
向かいの席で、リリアが小さく鼻を鳴らし、目を細めた。
「海が見られるなんて久しぶりですね、セリーナ様。これで少しは、旅の疲れも洗い流せるかもしれません」
彼女の言葉に、私は頷こうとして、微かな躊躇いを覚えた。海が見えている。風も吹き込んでいる。リリアの言う通り、それは爽やかな光景のはずだ。けれど、鼻腔を満たすのは、冷たく乾いた結晶の匂いだった。天日で干上がった塩の粒子と、磨き上げられた硬質な石灰。そして、どこか古い図書館の奥で眠る紙束のような、乾いた清潔さが肺を満たしていく。
「研磨されたガラスか、蒸留水の匂いですね」
私の呟きに、リリアは不思議そうに首を傾げたが、エリアスだけが視線を鋭くした。彼は荷台の縁に片足を乗せ、流れる景色を油断なく観察している。本来なら雑多な生活臭で満ちているはずの街道沿いは、不自然なほど整頓されていた。道端の草でさえ、職人が刈り揃えたかのように長さが均一だ。
ポルト・ミナ。帝国への海路を繋ぐ要衝。馬車は減速することなく、市門を通過した。衛兵が立っていたが、エリアスの襟章を一瞥しただけで、槍を引き、敬礼の動作をとった。その動きには一ミリの狂いもなく、まるで時計仕掛けの人形が定刻を告げるような正確さだった。
「検問すらなしか」
エリアスが低く漏らす。
「さすが特使殿」
リリアは感心したように声を弾ませたが、エリアスは何も答えず、ただ街並みを睨んでいた。
街に入っても、その「清潔な無臭」は続いた。石畳には、馬糞一つ落ちていない。路地の隅に吹き溜まるはずの埃や、建物の壁に浮く雨染みさえも見当たらない。数百年を経たはずの建築群は、昨夜完成したばかりのように輪郭が鋭く、影の落ち方さえも鋭利だった。広場の噴水には、老人たちが座っている。彼らが撒くパン屑に、鳩が一斉に群がる。しかし、羽音がしなかった。鳩たちは一斉に首を下げ、地面を突き、上げる。その一連の動きが、群れ全体で完全に同期している。個体ごとの揺らぎがない。
馬車が止まったのは、港に面した大きな宿の前だった。御者は無言で降り、私たちの荷物を下ろすと、金も受け取らずに去っていった。宿の扉が開く。主人が出てくる。恰幅の良い、笑顔の絶えない男だった。
「ようこそ。お待ちしておりました」
連絡などしていないはずだ。だが、男の対応には驚きも焦りもない。エリアスが懐から身分証を取り出そうとする手を、主人は柔らかな仕草で制した。
「確認は不要でございます。最上階の部屋と、明朝の船の手配を。風向きは良好、出航は午前六時ちょうどになります」
「……話が早くて助かる。食事を用意してくれ」
「ええ、ええ。食事と風呂の用意もしてございます」
主人の掌は温かく、柔らかかった。樽を運び、ロープを引く港町の男の手ではない。タコや細かな傷跡が一つもない、生まれたての赤子のような、無垢で滑らかな皮膚。リリアは「なんて親切な方たちなんでしょう」と微笑んでいるが、エリアスが私を見た瞳には「警戒しろ」という色が浮かんでいる。だが、この場において何一つ異変は見つからない。すべてが、あまりに完璧に進みすぎているのだから。
通された部屋は、海に面していた。窓枠には錆ひとつなく、ガラスは存在しないかのように透き通っている。私は荷物を置き、窓辺に立った。
「……エリアス。海を見て」
彼が隣に並ぶ。夕闇が迫る中、眼下に広がる海面は、とろりと重く、粘度を持った水銀のようにうねっていた。波頭が白く砕けることはない。同じ形の波が生まれ、同じ速度で岸に押し寄せ、音もなく引いていく。一分前の波と、今の波が、完全に同じ形状をしている。
「揺らぎの式が、機能していない」
エリアスが学術的な独白を漏らした。
「……時間変化に伴う揺らぎがゼロだ。ここは時間が流れているんじゃない。閉じた空間の中で、同じ計算結果を再出力しているだけだ」
美しく、そして決定的に死んでいる海。その海原を、一羽のカモメが滑るように飛んでいく。羽ばたきもせず、風に乗るわけでもなく、見えないレールの上を移動するように、一直線に水平線の彼方へ。
その夜、私たちは早々に眠りについた。食事は美味だったが、味が均一だった。スープの一口目も、最後の一滴も、まったく同じ塩分濃度、同じ温度。そこには「冷めていく」という自然の摂理すら欠けていた。リリアは「こんなに美味しいスープは初めてです」と喜んでいたけれど、私にはその味が、どこか調合された薬のように感じられた。
翌朝。午前六時ちょうど。港の鐘が鳴ると同時に、私たちは桟橋に立った。船は、木造船とは思えないほど艶やかで、継ぎ目が見当たらない。船員たちが整列し、無言で敬礼する。彼らの瞳は澄んだ青色をしていたが、その奥には何も映っていなかった。ただ、役割というプログラムだけが走っている。
「出航」
船長らしき男が短く告げる。錨が上がる音すら、音楽的なリズムを刻んでいた。帆が風を孕む。風が変わったわけではないのに、帆が必要な分だけの風が、都合よく吹き始めたのだ。船は滑るように港を離れていく。揺れはない。まるで氷の上を滑走しているかのような、絶対的な安定感。
甲板で、私は遠ざかるポルト・ミナを見つめた。朝焼けの中、街の人々が港に立ち尽くしている。宿の主人も、魚屋も、あの御者も。彼らは一列に並び、去りゆく私たちに向かって手を振り続けている。同じ角度で、同じ速度で。右、左、右、左。その光景は、親愛の情を示す別れというよりは、デジャブを起こした映像のようだった。
「境界を越えるぞ」
エリアスの声が緊張を帯びる。船が、湾の出口にある二つの岩礁の間を抜けた、その瞬間だった。ドォン、と船底が何かに突き上げられたような衝撃が走った。世界が傾く。足元がぐらつき、私は手すりにしがみついた。バシャアッ!と激しい飛沫が上がり、冷たい海水が頬を叩く。鼻を突いたのは、強烈な腐臭と、濃厚な潮の香り。腐った海藻、魚の死骸、そして生き物たちが吐き出す生温かい息吹。
「……気持ち悪い」
リリアが口元を押さえてしゃがみ込む。船は大きく揺れ、波に揉まれている。不規則で、乱暴で、容赦のない「本物」の海だ。私は濡れた顔を拭い、振り返った。背後の霧の向こうに、ポルト・ミナが蜃気楼のように揺らめいている。そこだけが、切り取られた絵画のように静止していた。
「正常なカオスだ」
エリアスが『魔導六分儀』を調整しながら、獰猛な笑みを浮かべた。
「ようこそ、セリーナ様。ここから先は、予測不能の現実世界だ」
私は荒れ狂う波を見つめ、ドレスの裾を強く握りしめた。胃の腑がせり上がるような不快感。けれど、それは私たちが生きているという証でもあった。船は、皇帝の待つ都へ、不安定な軌跡を描きながら進み始めた。
— 第二章終 —




