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星が織りなす物語 Elysium  作者: 白絹 羨
第二章 海を渡る風

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第十七話 摩耗する魂

 静寂が、痛かった。先ほどまで鼓膜を支配していた市場の喧騒――「新鮮な林檎だよ」という陽気な呼び込みや、焼きたてのパンの音――が幻聴のように耳の奥に残っている。けれど、目の前にある現実は、ただ冷たい風が吹き抜ける、苔むした廃墟だけ。

 瓦礫の山となった領主の館。その頂を見上げていた私は、ふと、視界が白く明滅するのを感じた。


「……セリーナ様?」


 隣でリリアが、不思議そうに私を呼んだ。彼女の声が、遠い。まるで深い水底から聞こえてくるようだ。指先の感覚がない。鞄のベルトを握っているはずなのに、自分の手がどこにあるのか分からない。


 ――ああ、やっぱり。


 私はぼんやりと思った。重すぎたのだ。たった一人の人間が、世界という巨大な書物のページを、無理やりめくるなんて。その負荷は、筋肉や魔力ではなく、私の「存在そのもの」にかかっていた。

 ドサリ。鞄が手から滑り落ちる音がした。


「セリーナ様ッ!」


 世界が傾く。石畳が私の顔に向かって迫ってくる――はずだったが、衝撃は訪れなかった。リリアが、倒れ込む私を寸前で受け止めてくれたからだ。


「おい、どうした! 意識はあるか⁉」


 エリアスが駆け寄ってくる。私は答えようとした。けれど、舌が動かない。喉が張り付いたように渇き、言葉の代わりに熱い吐息だけが漏れる。寒い。焼けるように熱いのに、骨の髄まで凍りついているような、矛盾した感覚。


「なんだこれは⁉︎」


 エリアスが私の額に触れ、弾かれたように手を引っ込めた。


「冷たい⁉ 高熱による発汗反応が出ているのに、体温は氷のように低い。……なんてことだ、生命活動の定義が揺らいでいるのか?」


「説明は後です! とにかく、どこか屋根のある場所へ!」


 リリアさんが私を軽々と抱き上げる。彼女の胸の温かさが、心地よかった。薄れゆく意識の中で、私は瓦礫の隙間に咲く一輪の花を見た気がした。色褪せた、灰色の花。今の私と同じ色だ――そう思った瞬間、私の意識は暗転した。

 夢を見た。幼い日の夢だ。学園の書庫。積み上げられた本の塔。アウグスト先生が、分厚い歴史書を開きながら、優しく微笑んでいる。


『セリーナ。世界は言葉でできているんだよ』


 先生の指が、古びた文字をなぞる。


『だから、誰かが正しく読んであげないと、言葉は迷子になってしまう。……君は、迷子の言葉を見つけるのが上手だね』


 褒められているはずなのに、私は泣きそうだった。見たくないものまで見えてしまうから。本のページの隙間に挟まった、押し花のような死骸たち。行間に隠された、誰かの悲鳴。


『辛いかい?』


『……うん』


『なら、書くといい。君自身の言葉で、新しい行を。それが君を守る砦になる』


 先生の手が、私の頭を撫でる。その温かさが、今の私を繋ぎ止める唯一の感覚――。


「……ん……」


 重たい瞼を持ち上げると、オレンジ色の光が揺れていた。焚き火だ。崩れかけた石壁に囲まれた空間で、私は毛布に包まれて横になっていた。天井は抜け落ち、星空が見えている。


「気がつかれましたか」


 すぐ側で、リリアが安堵の息を漏らした。彼女は、泥だらけの顔を隠そうともせずに私を覗き込んでいる。


「リリア、さん……。私、どれくらい……」


「丸一日ほどです。今は夜半過ぎかと」


 彼女は水袋の口を私の唇に当ててくれた。冷たい水が喉を潤すと、ようやく自分が生きている実感が戻ってくる。


「エリアスは……?」


「奥で、調査をしています。この廃墟は、かつての衛兵の詰め所だったようです」


 私は上体を起こそうとしたが、体に力が入らない。指先を見ると、手袋の隙間から覗く肌が、以前より少しだけ白く、陶器のように無機質に見えた。摩耗したのだ。魂の一部が削り取られ、世界の修正に使われてしまった。


「無理はいけません」


 リリアが私の肩を支える。その時、彼女の視線が、私の髪のあたりで一瞬だけ止まり、痛ましげに揺れた。


「……髪が?」


 私は震える手で、自分の髪に触れた。一房、サラリと落ちてきた髪の毛。  それは、私の本来の黄金色ではなく――雪のように真っ白に脱色していた。インクが切れかけたペンで書いた文字が掠れるように、私もまた、色を失っていく。それは必然の代償だ。

 その時、奥の闇からエリアスが戻ってきた。彼の手には、ボロボロに風化した一冊の日誌が握られている。


「……目が覚めたか」


 エリアスの声は、幽霊でも見たかのように掠れていた。彼は私の白い髪を見ても何も言わず、焚き火のそばに座り込むと、震える手で日誌を開いた。


「これを……見てくれ。衛兵隊の日誌だ」


 差し出されたページは、湿気とカビで変色し、触れれば崩れそうだった。


「最後の日付だ。……今から十年前になっている」


「十年前……?」


 私は息を呑んだ。


「この街は、十年も前に滅んでいたということ?」


「それが、ありえないんだ」


 エリアスが叫ぶように言った。


「私は、つい先日ここを通ったんだ! その時は、街は機能していた。宿に泊まり、市場で水と食料を補充した。衛兵と言葉も交わした! なのに、ここにある日誌は十年前に途絶え、建物は何年も風雨に晒された痕跡がある……。私の記憶は、幻覚だったとでも言うのか⁉」


 学者のプライドが、現実の矛盾に悲鳴を上げている。私は、首を横に振った。


「いいえ、幻覚じゃないわ。……貴方が見たのは、きっと『模倣された現実』よ」


「模倣?」


「この街を覆っていた物語は、あまりに精巧すぎたの。現実を完璧にトレースして、何千回、何万回と繰り返されていた。だから、普通の人間には見分けがつかない」


 旅人は訪れ、宿に泊まり、去っていく。その間、彼らは「客」をもてなすという役を与えられ、舞台の上で演じさせられていたのだ。客が街を出れば、その役は終わり、何事もなかったかのようにすぎる。だから誰も気づかない。この街が、とっくの昔に死んでいることに。


「じゃあ、なぜ今回は……なぜ我々は気づけたんだ?」


 エリアスが私を見つめる。私は、自分の白くなった髪を指先で弄んだ。


「……私が、揺らいでいるからよ」


「揺らいでいる?」


「私自身が、この世界にとって確かな存在じゃないから。不安定で、インクが滲んだような存在だから……。だから、完璧なはずの模倣と『共鳴』してしまったの」


 健康な人は、微細なノイズに気づかない。けれど、妊娠中や、熱に浮かされた病人は、壁のシミが人の顔に見えることがある。私の魂の脆さが、この街の「嘘」を暴いてしまったのだ。


「……なんてことだ」


 エリアスは顔を覆った。彼は知ってしまったのだ。先月、笑顔で言葉を交わした宿の主人が、市場の商人が、実は十年も前に死んでいた亡霊だったということを。そして、日誌には日付以外の記述は何もなかった。ただ、そこで唐突に、街の歴史が途絶えているだけ。


「だが、信じられん……」


 エリアスが日誌を閉じ、焚き火の炎を見つめながら呟いた。


「アンデッドに、こんな芸当ができるとは思えない。過去の情報を完全に再現し、物理法則ごと空間を定義し直すなど……これは魔法の領域を超えている。まるで神の御業だ」


「……いいえ、できます」


 静かな、けれど確信に満ちた声が響いた。リリアだった。彼女は炎を見つめたまま、独り言のように続けた。


「彼らなら、できるわ」


「彼ら? リリア殿、君は何を知っているんだ?」


 エリアスが問いただす。リリアはゆっくりと顔を上げ、私たちを見た。その瞳には、かつての戦場の記憶――決して語られることのなかった深淵の色が浮かんでいた。


「私は以前……セリオナ王国の王に会ったことがあるの」


 その名前が出た瞬間。私は見逃さなかった。エリアスの眉が、ピクリと不自然に跳ね上がったのを。それは恐怖への反応か。それとも、知ってはならない名を聞いた驚愕か。

 夜明け前の冷たい風が、廃墟を吹き抜ける。エリアスの反応を問い詰める間もなく、白い髪の私は、ただ黙って揺れる焚き火を見つめ続けた。

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