第十六話 論理の綻び
低い唸りのような詠唱は、唐突に途切れた。大時計の針が、正午の刻みからカチリと一つ進む。その微かな金属音を合図に、街を覆っていた重苦しい狂気は、霧が晴れるように鳴りを潜めた。
「いらっしゃい! 新鮮な林檎だよ! 太陽みたいに赤いだろう!」
「あら、素敵な色ね。これ、おいくら?」
「銀貨三枚だよ、奥さん」
再演だ。人々は、何事もなかったかのように、先ほどと全く同じ笑顔で、全く同じ会話を始めた。彼らの記憶には、あの一斉に行われた「祈り」の記憶など存在しないのだろう。レコードの針が元に戻され、また同じ曲の冒頭が再生されているだけなのだ。
「なんだこれは……。吐き気がするな」
エリアスが口元を拳で覆い、忌々しげに呟いた。
「この街全体が、一つの巨大な術式の中にいるようだ。だが、魔力の流れは正常だ。時間の連続性が、物理的な干渉なしに遮断されている感じがする」
「行きましょう」
私は、震える足を叱咤して立ち上がった。背負った鞄の中にあるペンの感触を確かめる。それが私を正気に繋ぎ止める唯一の錨だった。
「どこへ行くのです、セリーナ様? 街の外へ?」
リリアさんが私を支えようと手を伸ばす。
「えぇ。……あの館へ」
私は、街の人々が一斉に顔を向けた方角――領主の館を指差した。
「街の外へ向かっても、きっと無駄ね。ここは物語が完結していない。結末が切り取られているから、外への扉なんてどこにもないの。……このふざけた脚本を書いている『作者』のところへ行くしかないわ」
私の言葉に、エリアスとリリアさんは顔を見合わせ、そして覚悟を決めたように頷いた。
「行ってみましょう。……私が道を切り開きます」
リリアが剣の柄に手をかけ、先頭に立つ。私たちは、賑やかで空虚な市場を抜け、丘へと続く石畳の坂道を目指した。
だが――歩いても、歩いても、景色が変わらなかった。石畳を踏む足音は響いている。筋肉は疲労し、確かに前へ進んでいる実感がある。なのに、いつまでも、同じ林檎売りの屋台の前を歩いている。
「いらっしゃい! 新鮮な林檎だよ!」
商人の陽気な声が、呪詛のように鼓膜を叩く。
「馬鹿な……。確かに我々は館へ進んでいるはずだ!」
エリアスが焦燥を露わにして叫ぶ。彼は懐から方位磁石を取り出した。針は、正常に北を指している。魔導探知機を取り出しても、空間の歪みなど微塵も検知されない。
「計器は正常だ。世界は健全そのものだ。魔力的な結界も、空間の湾曲もない。……なのに、なぜ『距離』という概念だけが死んでいる⁉」
論理が通じるからこそ、エリアスは混乱していた。1+1が2である世界で、答えだけが永遠に出ないような矛盾。
「魔法じゃないわ、エリアス」
私は、ぐるぐると回る風景を見つめながら言った。
「ページが、めくれないの……」
「……何?」
「読み進めようとしても、次のページがずれていて、指をひっかけてめくれないの。だから、視線が強制的に一行目に戻されてしまう」
私には見えていた。通りの突き当たり、坂道の入り口にある空間が、不自然に「滲んで」いるのが。そこにあるのは壁ではない。本来あるべきページの縁。世界は正常に描かれている。ただ、紙同士が湿気で張り付いたように、時間が進むことを拒絶しているのだ。
「……セリーナ、君にはその縁の位置が分かるのか?」
エリアスが、すがるような目で私を見た。彼の論理では、この理不尽な迷宮を解けないと悟ったのだ。
「ええ。……でも、私の力だけじゃ、めくれない。あれはとても分厚くて、硬いから」
「なら、不可能ではないということだな」
エリアスが杖を構え、瞳に鋭い理知の光を宿した。
「君が『継ぎ目』の場所を指し示してくれ。私がそこに魔力を打ち込み、論理的な『穴』を穿つ。……リリア殿!」
「はッ!」
リリアさんが即座に剣を抜く。
「穴が開いた瞬間、私がそこを物理的に突破し、お二人の道を作ります」
三人の視線が交錯する。言葉はいらなかった。私たちは、泥と絶望の中を共に駆け抜けた共犯者だ。
「……いくわよ」
私は深呼吸をし、神経を研ぎ澄ませた。市場の喧騒、繰り返される台詞のノイズを意識から排除する。世界を「文字」として認識する。
――見えた。石畳の継ぎ目、建物の影、それらが不自然に重なり合っている一点。そこだけ、インクが濃く滲んでいる場所。
「あそこ! あの街灯の影の下!」
私が指差した瞬間、エリアスが叫んだ。
「座標固定! |我々の位置を示せ!」
彼の杖から放たれた青白い光が、街灯の影の下の空間に渦を巻く。バヂィッ!空間が悲鳴を上げた。見えない糊が剥がれるような、粘着質な音が響き渡る。空中に、亀裂が走った。風景という名の薄紙が破れ、その向こう側に「続きのページ」が垣間見える。
「今です!」
リリアさんが疾走した。銀の軌跡となって、彼女はその亀裂へと突っ込む。
「ハァッ!」
気合一閃。彼女の剣が、何もない空間に突き刺さる。鋼が悲鳴を上げた。剣身が、ありえない角度でぐにゃりと曲がる。金属が負けたのではない。世界の「復元力」という弾性が、剣を押し返そうとしているのだ。だが、リリアは引かない。バチンッ!限界までたわんだ空間が、剣の反発力によって弾き飛ばされる。ゴムのように伸びきった「時間」が断ち切られ、物理的に引き伸ばされた裂け目が口を開けた。
ビリビリビリッ!世界が裂ける音がして、私たちの視界が一気に開けた。
――そこは、灰色の世界だった。
林檎売りの屋台も、笑う人々も、鮮やかな色彩も、すべては「表紙」でしかなかったのだ。裂け目の向こう側にあったのは、何年も手入れされず、苔と蔦に覆われた廃墟のような街並み。そして、道端に転がる無数の「何か」――風化してボロボロになった衣服の山。
「これが、今か」
リリアが剣を下ろし、呆然と呟く。賑やかな市場の声は、もう聞こえない。あるのは、風が廃墟を吹き抜ける寒々しい音だけ。あの人々は、とっくの昔に終わっていたのだ。彼らの物語は、とうに終わりを迎えていた。それを、誰かが無理やり引き伸ばし、永遠に繰り返させていただけ。
「……ごめんなさい」
私は、足元に転がる朽ちた靴に向かって、小さく祈った。そして顔を上げる。目の前には、霧の中にぽっかりと開けた空――領主の館があった場所は、崩れ落ち瓦礫と化していた。
「あそこにいたのね……。悪趣味な脚本家が」
私は鞄のベルトを握りしめた。過去形だった。前のページまでは、確かにあそこに「いた」はずだ。けれど、ページをめくった今、次の章にはもう、主の出番は記されていない。ここにあるのは、主を失った物語の残骸だけ。怒りが、恐怖を上書きしていく。死者の眠りを妨げ、生者の尊厳を弄ぶ。そんなふざけた物語は、私が終わらせる。
「……なんという、理不尽だ」
エリアスが杖を下ろし、力なく呟いた。怒りをぶつける相手すらいない。ただ、風が瓦礫を撫でる音だけが、空っぽの劇場に響き渡っていた。
「行きましょう」
私の言葉に、二人の騎士が静かに頷いた。




