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星が織りなす物語 Elysium  作者: 白絹 羨
第二章 海を渡る風

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第十五話 反復する市場

 泥にまみれたブーツが、重たい音を立てて街道を踏みしめた。私たちは、逃げた。あの笑顔の死者たちが支配する廃村(はいそん)から、息が切れ、肺が焼けつくまで走り続けた先に――それはあった。

 街道の脇、泥濘(ぬかるみ)に突っ込むようにして横転した馬車の残骸。車輪は無惨に砕け、軸が折れている。繋がれていたはずの馬たちの姿はなく、ただ引きちぎられた手綱だけが、雨に濡れた蛇のように地面に転がっていた。御者の姿も、どこにもなかった。周囲には争った形跡も、血痕すらない。ただ、彼という人間が「最初からいなかった」かのように、唐突に消失している不気味さだけが漂っていた。


「セリーナ様、こちらへ」


 リリアが私を安全な路肩に座らせると、警戒を解かずに馬車の荷台へと近づいた。扉はひしゃげ、積まれていた備蓄品が散乱している。水袋、保存食の木箱、エリアスの書物が詰まった革袋。それらが泥の中に半ば埋もれていた。


「酷い有様だな。だが、嘆いている暇はない」


 エリアスが杖を突きながら、散乱した物資を見下ろした。


「ここから先、次の街までは徒歩だ。……生き残るために、馬車の備蓄から必要なものだけ選別するぞ」


 彼の言葉は現実的で、冷徹だった。けれど、それが今の私たちには救いだった。感傷に浸っていれば、あの「笑顔の行進」が追いついてくるかもしれないのだから。私たちは泥を払いながら、物資をかき集めた。水、干し肉、そしてエリアスの研究道具。

 私は自分の鞄を抱きしめた。中には、母様のハンカチと、数着の着替え。そして何より大切な、日記(にっき)帳とインク、ペンが入っている。これだけは、絶対に手放せない。たとえ泥の中を這うことになっても、私の「心臓」だけは守り抜く。


「……よかったです。行けますか? セリーナ様」


 リリアが、馬車から回収した重い水袋や食料を、自身の背嚢(はいのう)に括り付けながら言った。彼女自身、剣だけでも重いはずなのに、微塵も辛そうな顔を見せない。私は彼女の手を握り返し、小さく頷いた。


「ええ。行きましょう」


 私たちは、主を失った馬車の残骸を背に、再び歩き出した。屋根と壁に守られた旅は、ここで終わったのだ。これより先は、雨風と「世界の悪意」に、生身で晒されることになる。


「……見えてきたぞ。あれは、国境の街『ベルン』だ」


 しばらく歩くと、エリアスの声が上がった。朝霧の向こうに、石造りの城壁と、立ち並ぶ尖塔の影が浮かび上がっていた。帝国の入り口。そこには正規軍が駐留しているはずだ。あのような理不尽な怪物が闊歩できる場所ではない。


「やっと……休めますね」


 安堵のため息が漏れる。街の門は、開かれていた。検問のために身構えていたリリアが、拍子抜けしたように眉をひそめる。衛兵は立っていた。槍を持ち、直立不動で。けれど、泥だらけで疲労困憊の私たちを見ても、咎めるどころか、視線すら合わせようとしなかった。エリアスが眉根を寄せる。


「私が数日前、ここを馬車で通った時も……まあいい、今はとにかく中へ」


 限界を迎えていた私たちは、違和感を飲み込んで石畳のメインストリートに足を踏み入れる。そこは、驚くほど活気に満ちていた。


「いらっしゃい! 新鮮な林檎だよ!」

「布地はいらんかね! 東方からの最高級品だ!」

「安いよ、安いよ!」


 朝の市場(マーケット)が開かれているのだろう。色とりどりの天幕が並び、商人たちが声を張り上げ、客たちが品定めをしている。廃村(はいそん)での悪夢が嘘のような、平和で、ありふれた日常の光景。パンの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。私は、足の痛みを忘れるほどの安堵を覚えた。


「ああ……人がいる。生きている人間がいる」


 リリアが、心底ほっとしたように息を吐いた。


「まずは宿を取りましょう。そして、泥を落として温かい食事を。……エリアス殿、支払いは頼めますか?」


「ああ、任せてくれ。まずはあの果物屋で聞いてみるとしよう」


 エリアスが近くの林檎売りの屋台へと歩み寄る。恰幅の良い中年の商人が、赤い林檎を磨きながら笑顔で客を呼び込んでいた。


「ご主人、少し聞きたいのだが」


「いらっしゃい! 新鮮な林檎だよ! 太陽みたいに赤いだろう!」


 商人は元気よく答えた。エリアスは苦笑しながら、杖を突き直す。


「いや、林檎もいただくが、我々は旅の者でね。宿を探しているんだ」


「いらっしゃい! 新鮮な林檎だよ! 太陽みたいに赤いだろう!」


 商人は、まったく同じ笑顔で、まったく同じ言葉を返した。イントネーション、声の高さ、息継ぎのタイミング。すべてが、先ほどと寸分違わず同じだった。


「……ご主人?」


 エリアスの背中が、わずかに強張る。私は、胸の奥がざわつくのを感じた。視界の端で、何かが「ちらついた」気がしたのだ。

 ゴトリ。商人の手から、磨いていた林檎が滑り落ちた。林檎は木箱の角に当たり、地面に転がる。


「おっと、いけない」


 商人は苦笑いをして、腰をかがめ、林檎を拾い上げた。そして袖口でそれを拭き、再び顔を上げる。


「いらっしゃい! 新鮮な林檎だよ! 太陽みたいに赤いだろう!」


 私は、息を呑んだ。今の動き。林檎が落ちる軌道。拾う際の手つき。袖で拭く回数。そして、発せられる言葉の抑揚。


「……おかしい」


 リリアも気づいたようだ。彼女の手が、無意識に剣の柄にかかる。私は、恐る恐る周囲を見渡した。向かいの布屋。客の婦人が、青い布を手に取り、広げて見ている。


「あら、素敵な色ね。これ、おいくら?」

「銀貨三枚だよ、奥さん」

「あら、素敵な色ね。これ、おいくら?」

「銀貨三枚だよ、奥さん」


 会話が、噛み合っていないのではない。同じページを、何度も何度もめくり直しているかのように、彼らは同じ時間を繰り返している。


「……エリアス、離れて」


 私は震える声で言った。ここは、安全な場所なんかじゃない。あの廃村(はいそん)よりも、もっと(たち)が悪い。あそこは「死者が生者を演じている」場所だった。けれどここは、「生者が物語に閉じ込められている」場所だ。

 私の目には見えていた。空中に漂う、目に見えないインクの糸。それが、街の人々の手足に絡みつき、彼らの唇を操り、思考を停止させているのが。彼らは、巨大な戯曲の登場人物にさせられている。与えられた台詞は、たったの数行。それを永遠に繰り返すだけの、背景としての人生。


「おい、どうなっているんだ……。誰も、私の声を聞いていないのか?」


 エリアスが周りの客たちに声をかけるが、誰も彼を見ない。彼らは互いに決まった台詞を投げかけ合い、決まったタイミングで笑い、決まったタイミングで歩き出す。私たちが存在しているという「事実」が、この街の脚本には書かれていないのだ。だから、認識されない。


「セリーナ様、これは……」


「……誰かが、物語を書き換えている」


 私は、自分の体を抱きしめた。冷たい汗が背中を伝う。ただの死霊術じゃない。もっと上位の、世界そのものを編集する権限を持った何者かが、この街の「明日」を切り取り、今日という一ページを無限に貼り付けている。


「この人たちは、自分たちが檻の中にいることさえ気づかずに、今日という一日を、死ぬまで演じさせられているのよ」


 その時だった。街の広場にある大時計が、ゴーン、ゴーンと鐘を鳴らした。正午を告げる鐘だ。瞬間、街中の動きがピタリと止まった。林檎屋も、布屋も、歩いていた老人も、遊んでいた子供も。全員が、糸が切れた操り人形のように脱力(だつりょく)し、(くび)をがくりと()れる。

 静寂。風の音さえ消えた、真空のような沈黙。そして、鐘の音が止むと同時に、彼らはバッと顔を上げた。全員が、先ほどまでの笑顔を消し去り、無表情で、一斉に東の方角――街の出口ではなく、領主の(やかた)がある丘の上を向いた。


「……あがめよ」


 誰かが呟いた。それは、さざ波のように広がった。


「あがめよ、あがめよ、あがめよ」

「我らの平穏を。我らの変わらぬ日々を」

「あがめよ、あがめよ」


 数百、数千の声が重なり、低い唸りとなって街を揺らす。先ほどまでの明るい市場の活気は、薄皮一枚の下に隠されていた狂気へと反転した。ここは、人の住む街ではない。狂った脚本家が支配する、巨大な劇場だったのだ。

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