第十四話 空白への殺到
静寂は、インクの雫が乾くほどの時間しか持たなかった。灰色の塵となって崩れ落ちた男の残骸。それを風がさらうよりも早く、私の耳――いいえ、魂の薄皮一枚隔てた奥底が、不快な振動を捉えた。
カリ……カリカリ……。
それは、無数の硬いペン先が、古びた紙を乱暴に引っ掻くような音。あるいは、何千ものページが風に煽られ、めくれ上がるような音。
「……何の音だ?」
エリアスが顔を上げ、周囲を見回す。彼の耳にも、物理的な「音」として届き始めたのだ。その異音は、廃村のあらゆる隙間から響いていた。朽ちた家々の窓、枯れた井戸の底、崩れかけた教会の扉の向こう側から。
「リリアさん、すぐに馬車へ!」
私は叫んだ。喉が焼けるように熱い。修正を加えた場所――私が男を消滅させて作った「空白」に向かって、周囲の歪みが雪崩れ込もうとしている。世界にあいた「穴」を埋めるために、この場所に漂っていた「語られなかった物語の残骸」が一斉に動き出したのだ。
ギィィィ……。錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、村中の扉という扉が一斉に開いた。
「いらっしゃい」
「今日はいい天気だ」
「パンが焼けたよ」
「いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい」
現れたのは、村人たちだった。老人、女、子供。かつてこの村で慎ましく暮らしていたであろう数十もの影が、全員同じ笑顔、同じ歩幅で、私たちに向かって歩いてくる。彼らは生きているのではない。誰かが捨てられた言葉の切れ端を拾い集め、泥のような未練で固め、強引に「人の形」へと押し込めた――見るも無惨な、物語の廃棄物。
「なんだ、あれは……! 御者! 馬車を出せ! 我々を乗せてからだ!」
エリアスが叫び、御者台へ駆け寄ろうとする。だが、遅かった。
――ヒヒィィン!
馬たちが、狂ったようにいななき、竿立ちになった。彼らは感じ取ったのだ。目の前に迫る群衆が、生物としての生死の理から外れた「捕食者」であることを。動物の本能は、人間の理屈よりも早く、絶対的な死の気配を嗅ぎ取っていた。
「ひっ、ひぃぃッ! 来るな、来るなぁぁ!」
御者が半狂乱の悲鳴を上げた。彼は私たちを待たなかった。恐怖が彼の職務への忠誠心を、いともたやすく粉砕したのだ。彼は鞭を振るった。私たちを守るためではない。自分だけがこの地獄から逃げ出すために。
「待て! おい!」
エリアスの制止も虚しく、馬車は急発進した。車輪が泥を跳ね上げ、私たちの目の前を猛スピードで通り過ぎていく。
「あ……」
遠ざかる馬車の背中。それは、ここにある唯一の「安全圏」が失われた瞬間だった。取り残されたのは、私と、リリアさんと、エリアスの三人だけ。そして周囲を埋め尽くすのは、数十の「笑顔の死体」。
「いらっしゃい」
「今日はいい天気だ」
「いらっしゃい、いらっしゃい」
彼らが迫る。怒りも殺意もない。ただ、壊れた人形のように同じ言葉を繰り返し、私たちを彼らの「終わらない劇」に取り込もうと手を伸ばしてくる。
「走ります! エリアス殿、セリーナ様!」
リリアの判断は早かった。彼女は私を横抱きに抱え上げると、馬車が走り去った方向ではなく、村の路地裏へと身を翻した。広い通りは既に塞がれている。逃げ道は、蜘蛛の巣のように入り組んだ路地しかない。
「くそっ、非論理的だ! なぜ奴らは増え続ける⁉」
エリアスが杖を振り上げ、詠唱する。
「炎壁」
轟音と共に紅蓮の壁が出現し、迫り来る群衆を阻む。肉が焼ける嫌な臭いが立ち込める。だが、彼らは止まらない。炎に焼かれ、皮膚が古い紙のように焦げ落ちながらも、「いらっしゃい」と笑顔で炎の中を突き進んでくる。彼らには痛覚がない。物語の中の登場人物が、ページが燃やされても叫び声を上げないのと同じように。
「こっちだ!」
リリアが先導し、狭い路地を駆ける。左右の家々の窓からも、顔色の悪い村人たちが身を乗り出し、枯れ枝のような手を伸ばしてくる。まるで、人気のあるパレードのようだった。歓迎されている。永遠に幕が下りない、下手くそな脚本の地獄への招待状を持って。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
リリアさんの腕の中で揺られながら、私は視界が明滅するのを感じた。彼らは私を求めている。私が「修正者」だから。彼らを繋ぎ止めている「結び目」はあまりに醜く、不安定だ。だからこそ、私という「正しく編む指」を取り込み、自分たちの存在を永遠のものにしようとしている。
――来ないで。
私は走りながら、後ろを振り返りそうになる首を振った。今、振り返って彼らを見れば、私はまた彼らの「記述」を読み取ってしまう。そうすれば、私は耐えきれずにまた力を使ってしまうだろう。今度使えば、私の魂の糸が切れてしまう。
「前だけを見てください、セリーナ様! 必ず守り抜きます!」
リリアが叫び、道を塞ぐ男を脚で弾き飛ばした。彼女の白かったマントが、泥と返り血で無惨に汚れていく。私たちは無様に、泥にまみれながら、名もなき村を駆け抜けた。背後からは、まだ数十人の「いらっしゃい」という声が、耳障りな不協和音となって追いかけてきていた。




