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星が織りなす物語 Elysium  作者: 白絹 羨
第二章 海を渡る風

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第十三話 最初の剪定

 (とき)が、凍りついていた。錆びついた農具の刃は、リリアの白く細い首筋に触れる寸前(すんぜん)で、不可視の壁に阻まれたかのようにピタリと静止している。風の音も、馬のいななきも消え失せた真空のような静寂。その中で、リリアの銀色の瞳だけが驚愕に見開かれ、目の前で停止した「死」を映し出していた。


 ――さすがだわ。


 私は、恐怖で強張りそうになる心を、必死に冷徹な観察眼で抑え込む。静止したこの一瞬の光景だけで、リリアがどれほどの技量で応戦したかが分かった。彼女の剣はすでに抜き放たれ、切っ先は男の脇腹を深々と貫いている。常人ならば即死、あるいは衝撃で吹き飛んでいるはずの必殺の一撃。彼女は、かつてルイーズ先生と共に、死の女王と対峙した英雄の一人だと聞いている。その実力に偽りはなかった。

 けれど、相手が悪すぎた。剣が肉を裂く感触はあったはずだ。だが、この男には「斬られたから死ぬ」という因果(ルール)が記述されていない。物理的な正解をどれほど叩き込んでも、問題文そのものが間違っている相手には意味がないのだ。


「う、あ、ああ……」


 凍てついた男の喉から、蝶番が軋むような不快な音が漏れ始めた。私の「停止命令」に、男の中に渦巻く記述の綻びが抵抗している。世界から見放された魔力の残滓が、行き場を求めて暴走し、停止したはずの農具が微かに、けれど確実に震え出した。刃先が、リリアの皮膚をじりじりと圧迫していく。


「だめ……ッ!」


 私の口から、悲鳴に近い声が漏れた。怖い。このまま私の集中力が切れれば、リリアは殺される。あの理不尽な「書き損じ」に飲み込まれてしまう。彼女を守らなければ。アウグスト先生たちが命を賭して守ったこの世界を、彼女のような高潔な魂を、こんな無意味なエラーで失わせてなるものか。心臓が早鐘を打つ。冷静な「修正」などという余裕は、私にはまだなかった。胸の奥底にある熱い塊が、制御不能な奔流となって喉元までせり上がってくる。


「消えてぇッ!」


 それは、優雅な呪文でも、威厳ある命令でもない。ただの、怯えた少女の叫びだった。けれど、その声が空気に触れた瞬間、視界が白く(はじ)けた。

 鼓膜を劈くような高周波が、脳内を駆け巡る。私に見えていた風景――男の体にへばりついていた無数の文字、歪んだ空間の記述、それら全てが、インク壺をひっくり返したように黒く塗りつぶされていく。


 ――修正、強制執行。


 私の「拒絶」が、世界に直接干渉する。『リリアを傷つけるな』『死者は土に還れ』その願いが、絶対的な「定義」となって、男の存在そのものを上書きした。空間が断裂するような乾いた音が響き、男を繋ぎ止めていた「偽りの命脈」が断たれた。リリアを押し潰そうとしていた怪力が、糸が切れた操り人形のように消失する。


「え……?」


 リリアが体勢を崩し、たたらを踏んだ。彼女の目の前で、男の体が音もなく崩れていく。斬られたからではない。まるで、何百年もの時間を一瞬で経過させたように、急速に風化し、乾燥し、灰色の塵となって大気に溶けていく。硬質な音を立てて農具が石畳に落ちた。後には、ボロボロの衣服と、一握りの灰だけが残された。静寂が戻る。先ほどまでの禍々しい気配――空間の歪みや、肌を刺すようなノイズは、綺麗に消滅していた。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 私はその場に膝をついた。視界が明滅し、天地が回る。指先の感覚がない。世界を「書き換える」反動が、私の未熟な肉体を内側からきしませている。胃の奥から熱いものがこみ上げ、私は口元を手で覆った。


「セリーナ様⁉」


 リリアが慌てて剣を納め、私に駆け寄ってくる。彼女の手が私の肩を支えた。革の冷たい感触と、そこから伝わる確かな体温に、私は安堵で涙が出そうになった。


「……よかった。リリアさん、怪我は……」


「何をおっしゃいますか! ご自分の心配をしてください、顔色が真っ青です!」


 彼女は私を抱きかかえるようにして支えてくれた。その瞳には、私の「不可解な力」への疑念よりも、守るべき主君を危険に晒してしまったという悔恨と、純粋な心配の色が浮かんでいた。ああ、この人は強い。そして優しい。わけのわからない現象を目の当たりにしても、まずは目の前の「私」の無事を案じてくれている。


「……信じられん」


 背後で、エリアスの震える声がした。彼は杖を構えたまま、灰になった男の残骸を呆然と見つめている。


「死者が……消えた? 君は今、何をした? あれは神聖術でも上級魔法でもない。物理法則を無視して、結果だけを『確定』させたというのか……?」


 彼の学究的な視線が、恐怖を帯びて私に向けられる。私は答えられなかった。私自身、何をしたのか正確には言葉にできないのだから。ただ、リリアを守りたくて、必死に叫んだだけ。


「……分析は後です、エリアス殿」


 リリアが私を庇うように立ち上がり、エリアスを厳しい目で見据えた。


「今はセリーナ様を休ませることが先決です。……この場所は、空気が悪すぎます」


 彼女の凛とした声に、エリアスはハッとして口を閉ざした。私はリリアの腕の中で、薄れゆく意識を必死に繋ぎ止めながら、足元の灰を見つめた。


 ――ごめんなさい。


 誰にともなく、心の中で謝った。私は彼を「救った」のではない。「消去」したのだ。その事実が、冷たい鉛のように胸の奥に沈殿していた。

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