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星が織りなす物語 Elysium  作者: 白絹 羨
第二章 海を渡る風

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第十二話 名もなき村の消失

 車輪が石を噛む音が、唐突に湿り気を帯びた。それまで乾いた街道を軽快に駆けていた馬車の振動が、ぬかるみに足を取られた獣のように重く、不快なものへと変わる。窓の外を流れる風景の色調が、鮮やかな新緑から、灰をまぶしたような彩度の低い世界へと一変していた。

 馬車の扉が開け放たれると同時に、生温かい風が私の頬を撫でた。それは春の訪れを告げる風ではない。何年も開け放たれることのなかった地下霊廟の空気が、不意に地上へ漏れ出したような、澱んだ死の匂いを含んでいた。


「ひぃっ、どうどう! 鎮まれ、鎮まってくれ!」


 御者の悲鳴が聞こえた。彼が恐怖に駆られているのではない。馬たちが、何かに怯えて竿立ちになり、制御を失って暴れているのだ。動物たちの本能は鋭敏だ。彼らには、私が感じているような「空間の断絶」や「因果のほつれ」などという高尚な理屈は理解できない。ただ、生物としての根源的な警鐘が頭蓋の中で鳴り響いているのだ。目の前に広がる空間が、決して踏み入ってはならない領域であると。そこに漂う気配が、生命を慈しむ自然の摂理から外れた「死の捕食者(ほしょくしゃ)」のものであると。

 いななき声と、蹄が虚空を蹴る音が響く中、隣に座っていたリリアが身を乗り出した。


「落ち着いてください! ……あそこ、人がいます!」


 リリアが叫んだ。彼女の青緑の瞳には、まだ希望の光が宿っていた。彼女は私の無言の制止も聞かず、軽やかに馬車から飛び降りる。その足取りはあまりに軽く、迷いがなく、そして絶望的に無知だった。聖騎士としての訓練を受けた彼女の目には、この崩れかけた村が「未知の災害に見舞われた悲劇の地」として映り、霧の向こうによろめく影が「助けを求める生存者」に見えているのだ。彼女の正義感は、目の前の光景を「救うべき対象」として自動的に変換してしまっている。


「待て、リリア殿! 行くな!」


 エリアスが慌てて後を追おうと身を乗り出す。だが、その足は敷物の上に縫い付けられたように動かない。恐怖で筋肉が強張っているのだ。彼は知っている。帝国の戦場で学んだ知識が、彼に告げているのだ。ここが地図の上で空白として扱われている場所の意味を。そして、この国境付近で囁かれる「死なない者たち」の噂が、単なる迷信ではないことを。彼は顔面を蒼白にし、握りしめた杖の宝石部分がカタカタと微かな音を立てて震えているのも気づかず、喉を引きつらせて叫んだ。


「あれは生存者じゃない! 戻れ、命令だ!」


「何を言っているんですか! 怪我をしているんですよ⁉」


 リリアは足を止めない。彼女の白いマントが、鉛色の空の下で唯一、清廉な光を放っている。彼女の中にある聖騎士としての高潔な魂、弱きを助け悪を挫くという純粋な誓いが、目の前の危機を見過ごすことを許さないのだ。彼女はブーツを泥に汚すことも厭わず、村の入り口付近に佇む「男」へと駆け寄っていく。

 私は馬車のステップにゆっくりと足をかけ、その光景を冷ややかに見下ろした。……滑稽な喜劇だわ。吐き気がするほどの「ズレ」が、視界を埋め尽くしている。

 私には見えている。リリアが駆け寄ろうとしている「それ」は、人間ではない。確かに肉体はある。日に焼けた肌も、ボロボロの衣服も、節くれだった手にした農具も、物理的な質量を持ってそこに存在している。だが、その中身は空っぽだ。世界を構成する物語の記述――万物を定義する不可視の文章が、あの男の輪郭部分で激しく文字化けを起こしている。

 魂という核を失った肉体が、行き場を失って大気中に浮遊していた魔力の残滓(ゴミ)を詰め込まれ、無理やり直立させられているだけの「泥人形」。内側から彼を動かしているのは、生命の鼓動ではない。過去の記憶の断片が、壊れたレコードのように反響しているだけの、虚ろな残響音だ。


「リリアさん、止ってください」


 私は静かに声を放った。叫ぶ必要はない。私の声は、喉から発せられる空気の振動ではない。世界という織物の糸を直接弾くように、物理的な音量以上に空間そのものを震わせて、彼女の耳元へ届く。


「え……?」


 リリアが、男まであと数メートルという場所で足を止めた。私の声に含まれる絶対的な「冷たさ」。それは命令というよりも、氷の刃を背筋に突き立てられたような、本能的な悪寒として彼女に伝わったのだろう。彼女は戸惑うように振り返り、私と、目の前の男を交互に見た。


「近寄っては駄目。あれは、あなたが助けられるものではないわ」


「で、でも、セリーナ様! 彼を見てください、あんなに震えて……」


 リリアが指差す先。中年の男が、農具を杖代わりにして立っていた。うつむき、肩を小刻みに震わせている。リリアの目には、それが「恐怖や寒さに耐えかねて震える被害者」に見えている。守るべき弱者として映っている。けれど、私の視界には「ノイズ」として映っていた。

 男の身体の周囲で、灰色の粒子がバチバチと火花を散らしている。あれは震えているのではない。肉体を動かすための命令系統が混乱を起こし、「次の動作」を決定できずに、同じ座標で処理がループしているだけだ。『歩く』のか『止まる』のか、『怒る』のか『嘆く』のか。魂のない器は、自分で行き先を決めることができない。だから、相反する命令の狭間で、永遠に痙攣し続けている。


「……あ、あ、ああ」


 男が顔を上げた。焦点の合わない、白濁した瞳。半開きの口からは、涎とも泥ともつかない液体が糸を引いている。リリアが息を呑む。その異様な形相に一瞬たじろぎながらも、彼女は懸命に優しさを振り絞って声をかけた。聖騎士としての慈愛が、恐怖を押し殺そうとしている。


「大丈夫ですか? 私たちは、あなたを助けに……」


「……きょうは、いい、てんき、だねぇ」


 男の口から漏れたのは、あまりに場違いな、そしてひどく平坦な声だった。そこに感情の色はない。誰かに話しかけるための「意志」が乗っていない。まるで、何年も前の晴れた日に録音された音声を、状況も考えずに再生したような、不気味なほどの明るさと、抑揚のない響き。リリアが困惑に眉を寄せる。


「え……?」


「むぎ、むぎは、いい。……きょうは、いい、てんき」


 男は同じ言葉を繰り返す。壊れた玩具のように首をガクガクと不自然な角度で揺らしながら。首の骨が軋む音が、湿った空気の中に乾いた音を立てて響く。その瞬間、リリアの表情が「同情」から「戦慄」へと変わった。彼女も気づいたのだ。目の前の存在が、人間としての対話を求めていないことに。言葉が通じる相手ではないことに。それは、人間の形をした「何か別の現象」なのだと。


「リリア殿!」


 エリアスが叫び、ようやく金縛りを解いて杖を突き出した。その警告と同時に、男の顔に張り付いていた「笑顔」が、物理的に崩壊した。比喩ではない。頬の筋肉が、内側からの圧力に耐えきれずに裂け、引きつり、限界を超えて歪んだのだ。裂けた口の端から、ドス黒い腐敗液がボタボタと垂れ落ち、地面の草を枯らしていく。


「てんき、てんき、てんき、むぎ、くわせろ、くわせろォォォ!」


 言葉が意味を失い、ただの衝動的なノイズへと変わる。「空腹」という概念と、「挨拶」という記憶が混濁し、混沌とした叫びとなって噴き出した。男は人間には不可能な速度で農具を振り上げた。筋肉の限界を無視した動き。関節がバキリと逆方向に曲がる嫌な音が響き、肩の骨が皮膚を突き破って白く露出する。それでも男は止まらない。痛みを感じる脳が存在しないからだ。


「きゃっ⁉」


 リリアが反射的に剣を抜く。流れるような抜刀。日々の鍛錬が彼女の体を動かした。だが、遅い。常人の反応速度を超えた一撃。錆びついた農具の刃が、死の軌道を描いて、彼女の華奢な首元へと迫る――。


「――愚かね」


 私は溜息を一つつき、馬車から地面へと降り立った。石畳に靴音を響かせる必要はない。ただ、私が「そこ」に立つだけでいい。

 その一歩が、歪んだ空間に波紋を広げる。水面に落ちた雫が波紋を描くように、私の足元から広がった不可視の「修正」が世界を駆け抜けた。それは魔法ではない。在るべき姿を定義し直す、強制的な上書き。

 男の動作が、ぴたりと止まった。空中で凍りついたかのように、振り上げられた農具も、飛び散る腐敗液も、その全てが静止画となって固定される。男の瞳の奥で明滅していた狂乱の光が、私の意志によって強制的に遮断されたのだ。

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