第十一話 観測の限界
ガタゴトと、車輪が乾いた土を噛む音が続いている。神聖国の国境を越え、緩衝地帯に入ってから、もう半日が過ぎていた。
漆黒の馬車の中は、重苦しい沈黙と、奇妙な機械音に支配されている。チチチ、カチ、チチ……。向かいの席に座るエリアス・ヴァルト特使が、先ほどからずっと、手元の奇妙な器具をいじり回している音だ。真鍮と水晶でできた、複雑な多面体。彼はそれを窓の外に向けたり、時には私の方へ向けたりしながら、眉間に深い皺を刻んでいる。
「……数値は、正常だ」
エリアスは自分に言い聞かせるように呟いた。
「大気中のマナ濃度、エーテル流動係数、そして空間の構造強度。すべて帝国魔導士団が定めた『安定領域』の数値内にある。……異常はない」
彼は眼鏡の位置を直し、手帳に羽根ペンで素早く何かを書き付ける。その必死な様子が、私には滑稽なパントマイムに見えた。
「ねえ、特使殿」
私は頬杖をついたまま、窓の外の荒野を眺めて言った。
「そのオモチャで、何を測っていらっしゃるの?」
エリアスの手が止まる。彼は不愉快そうに顔を上げた。
「オモチャではない。これは『魔導六分儀』。空間の歪みを数値化し、不可視の魔術的脅威を予見する、帝国科学の結晶だ。……これで、『どのように』マナが流れているかを監視している」
「How、ね」
私は鼻で笑った。それが、彼らの限界だ。
「あなたたちは、風が吹けば『気圧差はどうなっているか』を計算する。リンゴが落ちれば『重力加速度はいくつか』を計測する。……現象の『振る舞い』しか見ていない」
私が視線で窓の外を示すと、エリアスは怪訝な顔で外を見た。そこにあるのは、枯れた草原と、灰色の空だけ。彼には何も見えていない。
――見えないでしょうね。あなたたちの目は、表面の「皮」しか見ていないもの。
「私は違うわ。私が視ているのは『Why』よ」
「……哲学の話か? 今は倫理を議論している時間はない」
「いいえ、構造の話よ」
私は窓ガラスに指先を当て、その向こうの景色をなぞった。
「なぜ、風は吹くことを『許可』されているのか。なぜ、リンゴは地面に落ちるという『定義』を与えられているのか。……物理法則なんて、その『意味の連鎖』の末端に現れる、ただの結果に過ぎないわ」
私の目には見えている。窓の外、流れていく風景の輪郭が、微かにブレているのが。岩が岩として固まりきれず、枯れ木がその存在の定義を維持できずに、陽炎のように揺らめいている。「枯れ木であれ」という上位の命令が欠落しているせいで、「硬く乾いている」という物理現象が維持できなくなっているのだ。世界を固定している「空間」の力が弱まり、その内側にある「何か」が、ドロドロと染み出している。
「……それで、その結晶様は、今、外で起きている『悲鳴』を感知できているのかしら」
「悲鳴だと? ……計器に反応はない。君の妄言か、あるいは過剰な恐怖心が見せる幻覚だろう」
エリアスは冷淡に切り捨て、再び魔導六分儀に目を落とした。その頑迷さが、哀れを通り越して愛おしくすらある。
「……観測できないから『ない』ことにする。それが帝国の科学なの?」
私は窓ガラスに映る自分の顔を見つめながら、ふと口をついて出た言葉を紡いだ。
「科学っていうのは、観測の限界にぶつかったとき、そこで諦めるものじゃないわ。その手前に静かに伏在する『見えない階層』の存在を疑うことから、始まるんじゃないの?」
私の言葉に、エリアスの手が止まった。彼は顔をしかめ、心底理解できないという顔で私を見た。
「……何を言っている。詩的表現で現実を語るな」
「詩じゃないわ。事実よ。層は外側へは広がらない。観測は内側へ深まるだけ」
私は自分の胸元に手を当て、皮膚の下、筋肉の下、さらにもっと奥底にある「震え」を感じ取った。
「あなたたちの理論は、世界の表層を撫で回しているだけ。……私が感じているのは、そのずっと奥。空間の縁に触れたときに残る、微かな『揺らぎ』の残響」
エリアスは鼻で笑った。否定したのだ。非論理的だ、オカルトだと一蹴したのだ。彼にとって、測定できないものは存在しないも同然。
「揺らぎの残響、か。……聖女様は随分とロマンチストらしい。だが、我々は事実と数値を扱う。君の『感覚』などという不確かなものを議論のテーブルに乗せるつもりはない」
彼は乱暴に魔導六分儀を鞄にしまい込んだ。認めたくないのだ。自分が生涯をかけて積み上げてきた積み木が、私の視点から見れば、ただの平面図に過ぎないということを。
「……あなたの子孫が、数千年かけて研究を続けても」
私は彼を見下ろすように、冷ややかに微笑んだ。
「私の見ているこの景色には、到達しないでしょうね」
その言葉は、刃物のように鋭く、狭い馬車の中に響いた。エリアスは不快げに舌打ちし、窓の外へと顔を背けた。沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙を破ったのは、隣に座っていたリリアの鋭い反応だった。
「――ッ、衝撃、来ます!」
彼女が叫んで私の体を抑え込むのと、御者の悲鳴が上がったのは同時だった。馬のいななき。急激なブレーキ音。ガクンッ! 馬車が激しく揺れ、車輪が悲鳴を上げて停止する。
「ぐぅッ……なんだ、敵襲か⁉」
体勢を崩したエリアスが、慌てて杖を構える。リリアはすでに剣の柄に手をかけ、油断なく周囲を警戒している。私はリリアの腕の中で、悠然と、傾いた座席に身を預けたまま窓の外を見た。
そこには、地図には載っていない村があった。いいえ、「あったはずの村」と言うべきか。家々は輪郭を失い、ドロリと溶けかけの蝋細工のように歪んでいる。そして、その中心に漂う、灰色の霧。
エリアスの機械が「正常」と判定した場所。けれど私には、そこが世界という布地に空いた、醜悪な「虫食い穴」であることがはっきりと見えていた。
「さあ、お仕事の時間よ、特使殿」
私は引きつった顔のエリアスに、甘く囁いた。
「あなたのその『正常な数値』で、あれが説明できるものなら、説明してみなさいな」




