第十話 皇帝の親書
旅立ちの朝は、驚くほど静かだった。空は高く澄み渡り、嵐のような騒ぎが嘘のように、小鳥たちが平和な歌を歌っている。
私は特別加療室で、最後の荷造りを終えていた。といっても、私の荷物は少ない。着替えが数着と、洗面道具。母様が刺繍してくれたハンカチ。この十二年間、部屋に溢れていたドレスや宝石、教科書たちは、すべて置いていく。あれは「籠の中のセリーナ」を飾るための舞台装置だったから。
けれど、これだけは置いていけない。私は、鞄の一番底に、それを丁寧に詰め込んだ。分厚い便箋。インク壺を三本。そして、どんなに強く握っても、折れない頑丈なペン。
これは私の「心臓」だ。帝国に行こうと、地獄に行こうと、私の日課は変わらない。毎晩、必ず机に向かい、西の空へ向かって言葉を紡ぐ。その行為だけが、私をこの世界に繋ぎ止める錨なのだから。
荷造りを終え、私は手元に残った最後の一枚――帝国の封書を開いた。上質な紙に、鋭く、力強い筆跡で書かれた皇帝の言葉。
『西の聖女へ』
冒頭から、挨拶もなしに本題だ。
『我が国は死にかけている。東は、我が国を食い荒らし、死者の国へ変えつつある。剣も魔法も、死者には無意味だ。我々に必要なのは、勇者でも、賢者でもない。既存の理を超える、制御不能な「災害」だ』
私は文字を目で追う。インクの匂いから、この手紙を書いた男の「飢え」が伝わってくる。彼は皇帝でありながら、誰よりもこの世界の閉塞感に絶望し、そして誰よりも破壊を望んでいる。
『来い、鳥籠の姫君。君のそのデタラメな奇跡で、私の死にゆく国を蹂躙してくれ』
「……ふふ」
私は思わず笑ってしまった。救ってくれ、ではない。蹂躙してくれ、だなんて。
「素敵なプロポーズだわ」
やっと、私と同じ言葉を話す人がいた。この皇帝レオニス・フォン・ヴォルルフという人は、私が「聖女」なんかじゃないことをよく理解している。彼は私に「毒」であることを求めているのだ。
私は手紙を丁寧に折りたたみ、懐にしまった。行きましょう。私の新しい「鳥籠」へ。
中央塔を出て、正門へと向かう。レンガ造りの並木道。見慣れた校舎。すれ違う生徒たちは、遠巻きに私を見て、ひそひそと噂話をしている。けれど、もう誰も私に話しかけようとはしない。私はもうクラスメイトではなく、触れてはいけない「聖遺物」になってしまったから。
人混みの中に、見慣れた色彩があった。ミーナ・フォン・ベルク。彼女の周りには、「心配」という薄紅色の綿菓子のようなモヤが漂っている。そして、エレノア・フォン・クライスト。彼女の胸元からは、「無事を祈る」という白銀の光が、真っ直ぐに私に向かって伸びていた。
言葉は交わさない。けれど、彼女たちの想いは、確かに私に届いている。私は小さく手を振り返した。ありがとう。あなたたちの「普通」が、私には少し眩しかったわ。
正門の前には、一台の漆黒の馬車が停っていた。帝国の紋章が入った、装甲車のように頑丈な馬車だ。その傍らに、三人の人物が待っている。
一人は、エリアス・ヴァルト特使。彼は今日も神経質そうに眼鏡の位置を直し、懐中時計を確認している。私を見ると、一瞬だけ顔を顰め、すぐに無表情に戻った。
そして、アウグスト先生と、ルイーズ先生。
「忘れ物はないか?」
アウグスト先生が歩み寄ってくる。その顔は穏やかだった。あの時の焦燥は消え、今は「教え子を送り出す教師」の顔をしている。
「はい。……先生こそ、始末書は書き終わりましたか?」
私が軽口を叩くと、彼は苦笑した。
「山積みだ。君が壊したステンドグラスの請求書だけで、目眩がするよ」
「出世払いでお願いします」
私たちは小さく笑い合った。湿っぽい別れの言葉はいらない。私たちは「契約」で結ばれた共犯者なのだから。
ルイーズ先生が、無言で私に近づき、私のローブの襟を整えた。彼女は何も言わない。けれど、その指先が微かに震えているのを、私は感じ取った。彼女は、私のポケットに何かを滑り込ませた。小さな、干菓子の小袋。
「……向こうのお菓子は、油っぽくて口に合わないかもしれないわ。糖分補給になさい」
「ありがとうございます、ルイーズ先生」
彼女なりの、不器用な優しさ。
「さて」
アウグスト先生が、馬車の横に立つもう一人の人物――白銀の外套を纏った女性騎士を手で示した。
「紹介しよう。今日から君の『影』となる人だ」
その女性は、凛とした動作で私に向き直り、風音を立てて敬礼した。輝く金色の髪を後ろで束ね、意志の強そうな碧眼が私を真っ直ぐに見据えている。神聖国の聖騎士団の制服だが、その着こなしには、実戦を知る者特有の「崩し」がある。
「神聖国聖騎士団所属、リリア・アーディンです」
リリア。その名前には聞き覚えがあった。かつてアウグスト先生やルイーズ先生と共に、戦ったという英雄の一人。
「アウグスト学園長より、貴女様の護衛を拝命いたしました。帝国の地にて、貴女様が『道』を踏み外さぬよう、そして外敵からその身を守るよう、この剣を捧げます」
彼女の声は、鈴を転がすように美しいが、芯が太い。彼女は私を「守る」と言ったが、その瞳は語っていた。『もし聖女が世界に牙を剥くなら、私がこの剣で聖女を止める』と。
――監視者。
それも、アウグスト先生以上に腕の立つ、生粋の戦士。帝国の「論理」を体現するエリアスと、神聖国の「信仰」を体現するリリア。水と油のような二人に挟まれての旅路。退屈しそうにないわ。
「よろしくね、リリアさん」
私は微笑んで手を差し出した。彼女は一瞬躊躇ったが、すぐに豆だらけの手で、私の手を握り返した。温かい。そして、強い手だ。彼女の皮膚の下には、「忠義」や「献身」といった硬い記述が、筋肉の繊維のようにびっしりと書き込まれているのが見えた。
「さあ、時間だ」
エリアスが、懐中時計を閉じて告げた。馬車の扉が開かれる。その中は、学園の外の世界へと繋がる闇だ。
私はステップに足をかけ、最後に一度だけ振り返った。朝日に輝く硝子の塔。十二年間、私を閉じ込め、そして育ててくれた鳥籠。嫌いだった。息苦しかった。でも、ここから見える空の青さだけは、本物。
「行ってきます」
私は誰に言うともなく呟き、馬車へと乗り込んだ。リリアが続き、最後にエリアスが乗り込む。重厚な扉が閉められ、外界の音が遮断された。
御者の鞭が鳴る。馬車が動き出した。車輪が石畳を噛むゴトゴトという振動が、私の背骨に伝わってくる。鞄の底で、インク壺がカチリと音を立てた。その音が、私に告げている。どこへ行こうとも、私はパパとママの娘であり続けるのだと。
ごきげんよう、静謐な檻。ごきげんよう、混沌たる世界。
私は窓のカーテンを少しだけ開け、流れていく景色を見つめた。東の空には、まだあの黒い「穴」が口を開けて待っている。待っていなさい。今、あなたを塞ぐための「毒」が、そちらへ向かうから。
— 第一章終 —




