第一話 黄金のさえずり
ぷつり、と指先で命の繊維がちぎれる音がした。指の腹に伝わる湿った震え。切断面から溢れ出した光の粒は、蜂蜜のようにとろりとした粘度を持って、私の爪を濡らしていく。
ああ、温かい。膝の上に乗せたこの子は、朝の光をたっぷりと吸って、重たげに首を垂れている。花弁は七層の薄いガラス細工。その奥で、小さな心臓がトクトクと脈打っているのが透けて見える。学園の中庭は、今朝も騒がしいほどに鮮やかだ。誰もいない石畳の上を、風の子供たちが金色の髪をなびかせて走り回り、古びた噴水の縁では、水滴たちがソプラノの音階で今日の空の色を議論し合っている。
「……ここがいいのね」
膝の上の花に囁きかけると、彼女は嬉しそうに茎をよじらせ、私のドレスの布地に根を降ろそうとする。くすぐったい。土の匂い、太陽の焦げる匂い。そして、世界が擦れ合う時に鳴る、甘い金属音。こんなにも世界は満ちている。隙間なんてどこにもない。すべての空間には「意味」がぎちぎちに詰まっていて、呼吸をするたびに、濃厚な物語が肺を焦がしていく。
その時、美しい旋律にノイズが走った。
ザリ、という乾いた音。回廊の影から、「灰色」が滲み出してきた。そこだけ世界の色が剥ぎ取られたような、のっぺりとした空白。輪郭がぼやけ、味がしない領域。それが人の形をして、こちらへ歩いてくる。
アウグスト先生だ。学園長先生は、今日も「薄い」。どうしてなのだろう。彼のローブは上等な絹で織られているはずなのに、私にはそれが、砂嵐の走る灰色の膜にしか見えない。彼の周囲だけ、風の子供たちが怯えて避けて通っている。音が吸い込まれ、光が死んでいる。
――可哀想に。また、何も食べていないのね。
食事のことではない。彼は「世界」を食べていないのだ。目の前にこんなにも鮮やかな色彩が溢れているのに、彼の瞳はそれを濾過し、ただの燃え殻のような風景としてしか摂取していない。だから、あんなに魂が痩せ細って、カサカサと乾いた音を立てている。
彼が立ち止まった。そのうつろな瞳孔が、私を――いいえ、私の膝の上を彷徨っている。
「……セリーナ?」
彼の声は、ひび割れた壺を叩いたような音がした。怯えている? なぜ。どうしてそんなに瞳を揺らしているの? 私は不思議に思いながら、精一杯の敬意を込めて、口角の筋肉を持ち上げた。彼らのマナーブックにある「微笑み」の形を作る。
「おはようございます、学園長先生」
私の声が空気に触れた瞬間、周囲の金色の粒子が一斉に共鳴し、シャララ、と鈴のような和音を奏でた。
――聞こえるでしょう? この美しい音が。
私は膝の上の花を指先で愛でながら、彼に同意を求めた。
「お花が、綺麗ですね。……今朝生まれたばかりみたい」
アウグスト先生の視線が、私の指先に吸い寄せられる。けれど、彼の瞳には焦点がない。彼は私の指が「何もない空間」を撫でていると思っている。彼の網膜には、この七色の花弁が映っていない。
――ああ、やはり見えていないのね。
こんなに強く脈打っているのに。こんなに熱いのに。先生の世界は、なんて寒くて、寂しい場所なのだろう。
ザァッ! 風の子供が、私の髪を悪戯に持ち上げた。髪の毛一本一本が、黄金の気流に乗って踊る。それは物理的な風圧ではなく、世界が私に「遊ぼう」と触れてくる親愛の情だ。けれど、アウグスト先生は一歩、後ずさった。彼の顔から血の気が引いていく。まるで、幽霊でも見たかのように。
「……風が、吹いているのか?」
彼の唇から漏れた問いかけに、私は小首を傾げた。
――何を言っているの? 風はずっと吹いているわ。
あなたの頬に張り付いているその「恐怖」という膜が、風の感触を遮断しているだけよ。
「ええ。とても、柔らかい風」
私は教えてあげることにした。飢えた迷子に、パンを差し出すように。私は立ち上がり、膝の上の花を両手で包み込むと、先生の方へと差し出した。
「ほら、先生も触れてみてください。……温かいですよ」
受け取って。この温もりがあれば、あなたのその灰色の輪郭も、少しは色を取り戻せるかもしれない。けれど、アウグスト先生は動かない。彼の灰色の瞳には、私の差し出した手のひらの上に「虚無」しか映っていない。そして、その虚無に対して、全身で拒絶反応を示している。
――通じない。
目の前にあるのに。どうして、そこにある「愛」よりも、自分の中にある「恐怖」の方を信じてしまうの?
私は少しだけ悲しくなった。でも、仕方がないわ。彼は「大人」という不治の病に罹っているから。見えないフリをすることが、彼らにとっての「正しさ」なのだとしたら、私はそれを乱してはいけないのかもしれない。
私はそっと手を開いた。光の花は粒子となって弾け、キラキラと輝きながら西の空へと昇っていく。その残光がアウグスト先生の頬をすり抜けたとき、彼はビクリと肩を震わせた。
――ほら、やっぱり感じているじゃない。
あなたの体は知っている。ただ、あなたの心が「そんなものは存在しない」と嘘をついているだけ。私はドレスの裾を翻し、彼に背を向けた。教室へ行かなくちゃ。あそこは息が詰まるけれど、私がそこに座っているだけで、ひび割れた空間を少しは繕ってあげられるかもしれないから。
「行ってきます、学園長先生」
私は歩き出す。私の足元では、石畳の継ぎ目から溢れ出した「言葉」たちが、くすぐったそうに笑い声を上げていた。




