06.返せなかった言葉
「新堂くん」
その声の主は、赤面していた女子だった。
小さな声だったが、確かに翔汰には聞こえた。
彼の名前を呼ぶその声は、まるで世界が静止したかのように感じられた。
『俺に声をかけてくるなんて、そんな事あり得ない。』
その答えにたどり着くまでに、翔汰の心の中でどれほどの時間が流れたのだろう。
実際にはほんの数秒の出来事だったが、まるで永遠に続くような感覚に包まれていた。
心臓が激しく鼓動し、全身が固まったように動けない。
周りの音が消えて、彼の耳にはその一言だけが響いていた。
『返事しなきゃ、返事しなきゃ終わってしまう。あれ、でも声が出ない。』
その瞬間、翔汰は思考が止まり、まるで体が反応するのを忘れてしまったかのようだった。
彼女の顔を正面から見ても、言葉が出てこなかった。
手を挙げて挨拶することすらできず、ただ目の前を通り過ぎる彼女に見とれてしまっていた。
その間にも、周りの女子たちは彼女の赤面を見て、何かをささやいている。
「間違えたんじゃないの?」
そんな声が耳に届くと、翔汰は現実に引き戻された。
確かに、名前を呼ばれて返事をしないのはあり得ないことだ。
それが普通の反応だろう。
しかし、翔汰はその「普通」をできなかった。
気が付いたときには、もう彼女はただの後ろ姿になり、周りの声も遠く感じられる。
「俺、何をしているんだろう。」
心の中で、自己嫌悪が湧き上がってくる。
自分が何かを失ってしまったのは分かっているのに、それをどう取り戻すこともできない。
あの瞬間、もし返事をしていたら、きっと何かが変わったはずだ。
あんな些細な一言が、世界を少しでも違うものに変えたかもしれない。
けれど、今さらそのことを悔いても、もう取り返しがつかない。
翔汰は足を進めるが、心はどこか遠くに浮遊しているような感覚にとらわれていた。
彼女が名前を呼んでくれた意味すら分からず、彼女の髪からの香りが彼を包み込み、目を閉じたくなるほど胸を締め付けていた。
あの香りが、まだ彼の心にこびりついて離れなかった。
その夜、いつものようにレンからのLimeが届かなかった。
あっても、おそらく翔汰は返事をすることができなかっただろう。
スマホの画面に映る暗い背景に、彼の気持ちはどこか遠く感じられた。
レンとのやり取りはいつも心地よかったけれど、今はそれすらも遠いものに思えた。
翔汰は、自分の部屋のベッドに横たわりながら、天井をぼんやりと見つめていた。
時計の針はすでに夜の11時を回っており、静かな夜に響くのは自分の浅い呼吸だけだった。
心の中ではあの出来事が何度も繰り返し流れ、頭の中の思考が止まらなかった。
『なんで、あの時返事できなかったんだろう。』
その言葉が心に何度も響く。
返事をすれば、きっと何かが変わったのだろう。
ほんの数秒、言葉を口にする勇気があれば、こんな事を考えずに済んだかもしれない。
あの瞬間にすればよかったことが、今、どうしても手に届かない。
心の奥に深く突き刺さった思いが、何度も何度も波のように押し寄せてくる。
翔汰は目を閉じ、ベッドに横たわったまま、何もできずにその思いに閉じ込められていた。
体は疲れているのに、心は何も休まらない。
頭の中ではその出来事がぐるぐると回り続け、翔汰は眠ることができなかった。




