第二話
さて、メリアーナが今日に限って執務室内で麦わら帽子を目深に被ったままなのは、とある理由があってのこと。
現在部屋の中には書記と補佐役の部下たちが、資料を集めるため本棚の右に左に、隣部屋の資料室へと大忙しで動き回っている。
館中が忙しいのも、伯爵が年がら年中行う領地視察が原因なのは火を見るより明らかだ。
メリアーナも初めは執務などするつもりはなかったのだが、伯爵家に仕えるほとんどの書記や補佐役が伯爵と同行してしまい、館に残った数少ない正直者たちに泣きつかれたからである。
権力はなくても真っ当に生きている者が苦しんでいることに弱いメリアーナは、後々面倒なことになるのを覚悟の上で、相談役となる補佐役を実家のベルシュタイン侯爵家から呼び寄せたのだった。
何しろ今までの経験から、他領の補佐役を館に入れるなど、"お家乗っ取り"と言われかねない。
最初は夫人のサインでも処理出来る書類から始めていった。
メリアーナが携わったことで多少は書類の量も減ったが、大部分の書類は伯爵が持ち歩いている印章が必要だった。
印章とは伯爵の左小指に常にはめられていて、シグネチャーリングと呼ばれる指輪の形状をしたものだ。
一代限りのそのリングは、女性の爵位継承が認められないこの国において、男性当主のみが所有出来る指輪であり、当主が亡くなった際には書類偽造の観点から徹底的に破壊される。
館を長期間留守にするならせめて代理を立てればよいものを、裁量権のある伯爵家の書記頭や筆頭補佐役といった役職の者たちまでもがこぞって領地視察に同行する有り様なので、今では執務室には伯爵が持つ印章を押すだけの書類が山のように積まれている。
それを知っているのかいないのか、伯爵はこの執務室に来るのを大層嫌がり、更に書類が溜まる、という見事な悪循環に陥っていた。
(もうじき一年を経過し更に状況猶予一年を迎える書類が出てくる……誰も伯爵に忠言しないのかしら。まあ無理もないか。裁量権のある者は皆もう書類の決裁進行状況を把握していないし……)
今日は昨日までとは違う重い空気が漂っている。
それというのも───
「そこの重要な執務机に座る女性は、実家のベルシュタイン侯爵家から送り込まれた補佐役と共に、フラナド伯爵家乗っ取りを企んでいるに相違ありません!」
(あらあら。やっぱり"伯爵家乗っ取り"発言キター)
メリアーナがそう思っていると、フラナド伯爵と愛人、すっかり腰ぎんちゃくとなった伯爵家書記頭と筆頭補佐役、その部下たちが一斉に室内に入って来る。
伯爵とその愛人と愉快な腰ぎんちゃくさまご一行が屋敷に帰って来たのだった。
先ほど叫んだのは伯爵家に代々仕える書記頭である。領主が家臣に封土として貸し出した土地である荘園を管理している、爵位を持つ男でもある。
その直後、ガルディが部屋に入ってきて、ダン!ダン!ダン!と三段跳びでメリアーナの座る執務机まで到達すると、伯爵に向かって威嚇する。
──だから猛獣って言われちゃうのよね。
メリアーナはそう思ったが、伯爵も同じように感じ取ったらしい。目に見えてビビっている。
まあ、二メルトの長身で上から見下ろされたらそりゃ怖かろう。
だが、伯爵の腕に張り付いている愛人がキュっと腕を掴むと、どうやらお胸も更に張り付いてハッとなり、威厳を取り戻した様子。分かりやすいな~。
「お前とは離縁だ!役にも立たん女の分際で書類の決裁まで口出ししていたそうじゃないか。俺はこのジゼルと再婚しようと思っている。とっくの昔に我が領地も立て直したし、こうなったらお前のような芋女の顔など見たくもないからな」
愛人の腰を引き寄せながら、フラナド伯爵は自らの妻(あら、わたくし?)に冷たく言い放った。
数か月ぶりに領地視察から帰ってきたかと思えば、いきなりの離縁宣言。
部屋に元々いた皆が驚き、一斉に動きを止める。
(何言ってくれちゃってるの?このうず高く積みあがった書類が目に入らないの?)
全員一致の心の声である。
明らかに場違いな派手な服装の二人に、皆黙しつつ薄目になった。
無理もないだろう。伯爵は愛人と共に腰ぎんちゃくを大量に引き連れて、一年のほとんどを領地視察という名目で、館を留守にしていたのだから──
確かに領地視察は重要ではある。だがしかしこの三年の間に、ただの大規模な接待に成り下がってしまったものを領地視察だなどと言えるだろうか?
「お前も、実家から連れてきた奴らも、この執務室で何をやってるんだ。うちの書記頭がお前らのことを教えてくれたぞ!我が物顔で執務室を占拠して、うちの者の仕事の手柄まで我が物にしてるって言うじゃないか!伯爵家を乗っ取ろうとするつもりだろ!その執務机は代々当主が使っている物だ。芋女のお前なんかが使っていい物じゃない。どけよ!」
どうやら乗っ取り云々は書記頭の入れ知恵のようだ。双方の話を聞かないで一方的に断罪しないで欲しいが、もうすっかりこちらを敵認定しているようで手遅れなのは間違いない。
暴力を振るいそうな勢いで近づいてくる伯爵の剣幕に半ば呆れながら、メリアーナは立ち上がって執務机から離れた。
視線で人を殺しそうな勢いのギルバートがメリアーナの目の前に立とうとするが、それを制して顔を両扉のほうに向けると、こちらの意図を察知して静かに部屋を出て行く。
護衛騎士のガルディは、そういう細かい目線だけの指示には疎いので居るに任せる。ひっそり退室させないと警戒されてしまうからタイミングを計らないといけない。
ちゃんと理性はあるので剣を抜いてはいないのが幸いだ。
ただ、もう表情がね……いつでもうっかり斬り殺しかねない。剣を抜いていないからグーパンでも殺れる。いや、殺っちゃだめ。絶対。
血は見たくないのだけれど。
……どっちの血かって……?そりゃ──
ガルディなら一呼吸の間に、乱入してきたご一行様の息の根を止めるだろう。皆いわば文官でひょろだもの。伯爵の護衛数人もこの三年間の領地視察で体型変化が著しい。問題点は全員抹殺するなら人数がそこそこいるので、入り口の扉と窓を逃げられないように封鎖しないといけないところだろうか。
……いけないわ。つい物騒な思考になってしまった。
わたくしも剣の腕前はそこそこだと思っている。何せ戦神と呼ばれている男の娘ですからね。幼い頃から兄と一緒に剣の稽古は欠かさなかった。ただ今は丸腰ですけれど。ちなみにグーパンで殴り殺すのはわたくしには無理。金的蹴りなら兄に徹底的に仕込まれてはいる。あと少しで兄をいろいろ(物理的に)不能にしてしまうところだった。ベルシュタイン侯爵家の深刻な後継者問題を生んでしまう寸前だったのが今となっては懐かしい。
もうここの椅子に座れないのは残念だった。
執務室の調度品だけは、金目の物から除外されていて、数少ない伯爵家で売られなかった物たちだ。単に古すぎて売れなかっただけかもしれない。
メリアーナはこの部屋の椅子と執務机がとても使いやすく気に入っていて、売られていなくて良かったと思っていたのだが。
(昔にはこういう品を誂えることの出来る有能な当主もいたんでしょうね……)
ここでそっとガルディだけに見えるよう指でサインを送る。
伯爵と愛人が執務机に移動しているので周囲の視線がそちらに向いている今しかない。
予め決めておいた行動決行のサイン。
伝え終えると、わたくしに全員の視線が向くようにわざと神経質そうな声を上げる。
「乗っ取りも何も、決裁を行う印章は伯爵様が指に嵌めておられるではないですか。わたくし共は印章を押せばすぐに決裁出来るよう整えているだけですわ」
思惑通り、視線は一斉にわたくしに向いた。
(ガルディ、今よ今)
ちゃんと理性のあるガルディは(大事なことなので二回言ったわ)察して気配を消しながら退室していった。
これで侮られる用意は整ったわ。二メルト近くあるガルディがいたままでは、怖がられてしまってこの先うまくいかないだろうから──
伯爵は空いた椅子にどかっと腰を下ろすと、ふんぞり返った。
「ああ言えばこう言う。こざかしいことこの上ないな。うちの者たちで十分間に合う。書記頭もそう言っているのに、余計なことをするな!お前は館のことだけ取り仕切っていれば良かったんだ!」
そうは言っても、何人もの書記役やら補佐役の面々は、伯爵の領地視察に徴収役と一緒に同行していて、しかも三年の間に同行する人数は増える一方。
そんな同行していた面々が役職を振りかざし、元々部屋にいた者たちに対して居丈高にふるまい、書記も侯爵領からやって来た補佐役も命令されて机から離れた途端、部屋の隅に追いやられている。
そのことがメリアーナにとって最も我慢がならない。
大事な同志を屈辱的な目に合わせているこの腰ぎんちゃく共め。
と、ここで丁寧に積まれていた書類の束が書記頭の手によってばさりと崩れ、用紙がバラバラ宙に舞い、メリアーナの何かがプチっと切れた。
よくもわたくしたちの書類積み上げスキルを台無しに……!
──もういいだろう。我慢は終わりだ。
メリアーナが意外に物騒です。
次回 第三話
大量の芋虫を見つけてしまった気分のメリアーナと、無自覚人たらし、と赤面しかかるギルバートに伯爵の魔の手が忍び寄る
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