心が踊る街
「フィーちゃん、ちょっとこれ見てくれる?」
路面の鉢植えに水をあげていると、ふいに声をかけられた。
声の主は、隣の八百屋を切り盛りするおかみさん・ペトラだ。彼女はもうすぐ子供が生まれるらしい。いつもお腹を宝物のように擦りながら、ゆっくりと歩いてやって来る。
「ペトラさん、こんにちは」
「こんにちはフィーちゃん、この木なんだけどさ」
そう言って、ペトラは八百屋の脇に立つ木を指さした。一階の屋根に届くほどの、元気な木だ。ペトラが大事に手入れをしているのがよく分かる。
「怖いのよぉ」
「怖い?」
「最近、風も無い日に葉が揺れるの」
フィリアは木を見上げた。何の変哲もない木だ。今は揺れることも無く、静かにフィリア達を見下ろしている。
(『最近』……もしかして、私に反応しているのかしら)
植物にも個性がある。プロスドキアの植物は総じて皆やさしいが、その中でも臆病なもの、頑固なもの、素直なもの。様々な性格を持っている。
この木は、きっと好奇心旺盛なのだろう。妖精の姫であるフィリアに、話しかけているのだ。こちらへ来て、一緒に話そうと。
フィリアは、そっと木肌に触れてみた。
途端にその葉はざわざわと揺れ始める。
嬉しい、嬉しいと、その気持ちを伝えるように。
「ほら揺れた! 何かしら」
怖がるペトラへ、どう説明すればいいかフィリアは悩んだ。
(この木は怖がらせたいわけじゃない、私と会いたいだけなのです。無邪気に喜んでいるだけなのです──)
でも、そんなこと言えない。言えるはずがない。余計怖がらせてしまうだけではないか。フィリアが言い淀んでいると。
「フィーがそばにいるからじゃないかな」
「リオン様」
「嬉しいって言っているみたいだ」
いつの間にか、そばにリオンが立っていた。彼もこの無邪気な木を見上げて、木の葉のざわめきに目を細めている。
「わ、分かるのですか、リオン様」
「いや、そんな感じだなって思っただけ」
ドキリとした。
なんという勘の良さなのだろう。大当たりである。
「そっかあ、この木はフィーちゃんが好きなのかもしれないわねえ。そう思うと子供みたいで可愛いわ」
ペトラも、お腹を擦りながら木を見上げた。
三人に囲まれて、無邪気な木は嬉しそうにその葉を揺らし続けた。
「そういえば。フィー、ベッドを買ったんだって?」
「はい。なぜそれを?」
「アクロが言ってた」
リオンが、晴々とした顔でフィーを振り返った。
ベッドが届いたのは昨日だ。やけに情報が早いと思ったら、先ほどアクロから聞いたらしい。
「アクロに、とっても素敵なベッドを買ってもらって……私一人で寝るには勿体ないくらいの」
「だめ。それはフィーのものだよ。絶対、一人で寝て」
「そ、そうですね……?」
実際、アクロの部屋に置いてあるベッドよりも立派で、大きくて。一応、彼に「交換する?」と聞いてみたが『こんな可愛らしいベッドで寝られますか』と全力で拒否された。フィリアのベッドには花の彫りが入っていて、とても可愛いのだ。もちろん、フィリアが選んだ。
「家具屋へ行ったの?」
「はい、アクロと一緒に」
「フィーが表に出掛けたのは初めてだね」
あの日の夕暮れ、フィリアは初めて表の通りへと出た。
プロスドキアへやって来てからずっと、路地裏の花屋でひっそりと篭っていたフィリア。リオンとの出会いや花屋に来た客と接することで、彼女の心からはいつの間にか『人間』への恐怖心というものも少しずつ消えていった。
だから表通りに出たあの日、実は心が躍ったのだ。その光景に。
裏通りとは比べ物にならないほどの人通りの多さに圧倒されて。髪の色、背の高さ、肌の色……人々の容姿は様々で、皆好きずきに種々雑多な服を身にまとっていた。
パン屋に差し掛かり漂ってきたのは、香ばしい焼きたての香り。夕食用に、パンを買い求める親子連れ。コーヒーワゴンの前を通れば、挽きたての豆の香り。仕事終わりの男性は、脇のベンチでコーヒーを飲んで息をつく。
それぞれ店の前を通り過ぎるたび、違った匂いが鼻をかすめる。
色々なものが混ざりあってざわめく。これがプロスドキアの街なのだと。
「とても……とても楽しかったです。またアクロに連れて行ってもらおうと思っていて」
「なら今度は俺と行こう。色々案内できるよ」
「あ、でも」
先日、アクロから『気を持たせぬように』と、釘を刺されたばかりだ。リオンといえど男性と二人で出掛けるのは、良くないのではないだろうか。
なんと言っていいか分からず、フィリアは馬鹿正直に伝えた。
「あんまり男性に気を持たせるようなことはやめろと、アクロが」
「そんなのいまさらだよ」
「そ、そうなのかしら」
リオンからは、いまさら、と言われてしまった。
彼とは出会ってまだ十日ほどしか経っていないはずなのに、アクロの言う通り『気を持たせるようなこと』をしまっていたということだろうか。それとも、こんな些細な会話で考えすぎだろうか……
「では、アクロと三人でもよろしければ」
「いいよ。楽しみだな」
三人でと提案したところ、リオンは快く頷いた。
拍子抜けした。やはりフィリアの考えすぎだったのかもしれない。フィリアが気を持たせるようなことをしたからといって、リオンがそれを気にするとは限らないのに。
横目でちらりとアクロを見てみると、意図せず巻き込まれてしまった彼は小さくため息をついている。
「もうすぐ建国祭があるからね。この時期、表通りは普段より少し賑やかなんだよ」
「建国祭ですか?」
そういえば、表通りにはそこかしこに国旗が掲げられていて。並びを彩る店頭には、記念メニューや記念商品のチラシも沢山貼られてあった。
「当日はパレードがあって、店も沢山出るんだ」
「わあ……」
建国祭。お祭り。
もちろん、妖精の国ヒューレーにも祭りはあった。しかし、フィリアは祭りを楽しんだことが無い。いつも城の上から、賑わう街並みを見下ろしていただけ。城下に流れる軽快な音楽を、皆の楽しげな笑い声を、ただ聞いていただけ。
「建国祭の日、俺は仕事で行けないけど……またアクロと行くといいよ。きっと楽しい」
リオンは明るく微笑んだ。
楽しみでうずうずしているフィリアの心など、見透かしているかのように────
「楽しみね、アクロ」
「何がです」
「建国祭よ。私、お祭りは初めてかもしれないわ」
リオンが店を去った後、フィリアはアクロへ走り寄った。建国祭はまだ少し先だが、それでも心が浮き立つ。
「アクロは行ったことないの?」
「ありませんね。興味も無かったので」
フィリアはお祭りと聞いただけでこんなにも落ち着かないというのに、アクロはというと本当に興味無さげな様子で花の手入れをしている。
「冷めてるのね」
「祭より仕事を優先したまでです」
そういえば昔からそうだった。祭りの日も、甲斐甲斐しくフィリアの世話をやいていたな……それがアクロの仕事であったから。
今はフィリアの世話に加え、花屋の仕事も生きがいのようになっている様子である。
「今年は一緒に行きましょうね。お願いよ」
「リオン……あの者は行けないのですか」
「その日は仕事だと言っていたわ」
「……仕方がないですね」
彼を頷かせることに成功したフィリアは嬉しくなって。思わずアクロに抱きついた。
「ありがとう、アクロ!」
フィリアが満面の笑みを向けると、彼はぷいと顔を逸らす。
冷めていて、怒りっぽくて……
でもフィリアには結局甘い。
気を持たせるようなことをしてはなりませんと、そう言っているのに。
アクロはぽつりと呟いた。