感覚の違い
そして───
アクロの花屋で居候を始めて、一週間。
火は点けられるようになったし、お茶を淹れることにも少し慣れた。パンを切るのはぼろぼろとして難しいけれど、火で炙って香ばしくすることも覚えた。
こうして花屋の店番も、少しずつ任され始めて。
すべて、アクロとリオンのおかげである。
「アクロ。私、少しはお役に立てているかしら」
「はい、勿論でございます。あとは皿さえ割らなければ」
「お皿ね……」
フィリアもわざと割っているわけではない。濡れた皿は想像以上につるつると滑って、皿を持つ手からつるりと逃げていくのだ。あっ、と思った時にはもう遅い……次の瞬間、パリンと割れる。
「フィーは手が小さいんだよ」
「そうでしょうか」
「だから皿を支えにくいんじゃない?」
ほら、俺の手とくらべても全然違う。と、リオンは大きな手のひらを広げて見せた。確かに彼の手は大きくて、皿などすっぽり覆えそうだ。
フィリアは、リオンの手に自身の手をそっと重ねてみた。本当だ、彼の手にくらべるとフィリアの手など子供同然だ。同い年だというのに、『人間と妖精』『男性と女性』でここまで違うものなのか。
リオンはフィリアと同じ十八歳であった。フィリアの『師匠』になってからというもの、こうやって毎日のように花屋へ顔を出してくれているが、普段は庭師のような仕事をしているらしい。アクロとの出会いも、花屋へ苗を仕入れに来たことが最初であったそうだ。
「フィー様」
「なにかしら」
アクロが腕を組んだまま眼鏡を光らせている。
「軽々しく男性に触れるものではありません」
「えっ?」
フィリアは、リオンの手にかさねた自身の手を見た。手から彼の顔へと視線を移すと、リオンは頬を赤くしてぼうっとしている。
「あ……嫌だったかしら、ごめんなさい」
「い、嫌なわけないよ。ただね、アクロがあんな感じ」
眼鏡の奥、鋭い瞳が二人の重ねた手を睨んでいる。なぜそんなにも睨むのだろう。そう思いながらも、アクロに睨まれるようなことをしているのかと思えば自然と重ねた手は離された。
「なぜ睨むの。アクロとだって、手を繋いだり一緒に寝たりするじゃない」
「リオンと私とでは全く意味が違います。わきまえて下さいますように」
「はい……」
確かに……兄のようなアクロと知り合ったばかりのリオンとでは、触れることの意味合いが違ってくるかもしれない。軽率であったかもしれない自分の行動に反省していると。
隣で話を聞いていたリオンが、驚愕の表情を浮かべて呟いた。
「……ふ、二人は、『一緒に寝たり』するの?」
「えっ、はい」
「フィー様と私は一緒に寝ているが」
花屋の二階には、ベッドがひとつしか無い。二年間、アクロ一人で暮らしていたのだから当然と言えば当然で。そこにフィリアが突然やって来て、仕方が無いので二人で寝ましょうという話になったのだ。
妖精の国ヒューレーでは、家族は一部屋に集まって眠ることが多い。ゆえに兄同然のアクロと一緒に寝るというのは自然な流れであるのだが。
リオンはというと、信じられないものを見るような顔で二人を凝視しているではないか。
「なんでそんな、一緒に寝るなんて」
「だってリオン様、ベッドはひとつしか無いんですよ」
「でも部屋はもうひとつあるんでしょ?」
「フィー様は妹のようなものだ、同室でも問題ない」
「問題大ありだよ……!」
どうやらプロスドキアの感覚では、フィリアとアクロが同じベットで寝るのは相当おかしいことのようだった。
リオンはもっと色々と物申したいようであるが、あいにく時間が差し迫っているようで。
「ああ、もう時間が……二人とも。それ、俺は納得出来ないから!」
彼は捨て台詞を残し、早足で去っていった。
後に残されたフィリアはなぜリオンが怒っているのか理解出来ず。アクロは腕を組んだまま、ただただリオンの後ろ姿を見送ったのだった。
「彼にも困ったものですね」
「え? リオン様のこと?」
「そうです」
リオンを見送ったあと、二人は何事も無かったように仕事へと戻った。時折来客の対応をしながら、フィリアは見よう見まねで花の世話をする。彼女が世話をした花達は皆うれしそうに微笑んでいるようで、こちらまで幸せな気持ちになる。
「なぜリオン様は怒っていたのかしら」
「彼はおそらく……いえ、何でもありません」
アクロには分かったらしい。
リオンが怒っていた理由が。
「フィー様。男に気を持たせるようなことをしてはなりませんよ」
「気を持たせるようなこと? 私、何かした?」
「しました」
もしかして、さきほどリオンの手に触れてしまったことを言っているのだろうか。その他にも何かしでかしたのだろうか。
フィリアは記憶を巡らせて、他にも自分のやらかしたことを精一杯思い出そうとした。しかし何ら特別なことをしたとは思えないし、リオンだって至って普通に接してくれていたはず。
「覚えは無いのだけれど……気をつけることにするわ」
「そうして下さい。良いですか、フィー様にはプロスドキアの王子との縁談があるのです。それをお忘れなく」
「……分かっているわ」
そうなのだ。自分は妖精の国ヒューレーの王女。わざわざアクロの花屋で居候を始めたのは、プロスドキアとの縁談に前向きになるため。
町娘のようなワンピースに身を包み、花屋の者として路地裏に溶け込んで。アクロに釘を刺されるまで、少し忘れかけていたかもしれない。この先に、プロスドキア王子との結婚が待ち構えていることを────
その日の夕刻。
フィリアは、アクロと共に表通りの家具屋へ向かった。
「あの者……リオンが納得出来なくても、別に良いではありませんか」
「そうは言っても、ここはプロスドキアなのだから。ここで暮らす限りはプロスドキアの感覚に合わせないと……」
フィリア達妖精族の感覚は、相当ズレているようだったから。大体のことは許す心の広いリオンが、『問題大あり』と漏らすほど。
ではきっとプロスドキアの王子にとっても、フィリアとアクロが一緒に寝ているという事実は『問題大あり』なのだろう。それならば、きちんと止めなくては。
数日後。花屋の二階には、可愛らしい彫りの入ったベッドが運び込まれた。
こうしてフィリアとアクロは、別部屋で寝る事になったのだった。