妖精の掟
夜明けを迎えたプロスドキアの街。
路地裏に佇む花屋の入り口には、朝も早くから貼り紙が貼り出された。
『本日は臨時休業いたします』────
「アクロ、怒ってる?」
「……怒ってなどおりません」
「本当に? 本当の本当に?」
「……怒っておりません」
蔓が伸び放題になってしまっている一階からはひとまず目を逸らし、二階に戻ったアクロはフィリアへと向き合った。
人間の国プロスドキアで、身を隠しながら暮らすための『掟』を伝えるために。
「まず『掟』その一でございます、フィー様。背中の羽は仕舞いましょう」
「羽?」
フィリアは自分の背中にある羽に目をやった。
フィリアやアクロ……妖精の背中には薄く大きな羽がある。妖精達はその羽をはばたかせれば空も飛べるのだが、もちろん人間の背中には羽など無い。よく見れば、アクロも羽を平たくたたんで服の中へしまい込んでいるようだ。
「羽を見られてしまえば、一発で妖精であることも分かってしまいますから。どこで誰が見ているかも分かりません。羽を伸ばすのは、自室で寝る時だけにして下さいますか」
「わ、分かったわ」
「そちらのドレスも……この場所では不向きですね。私が後ほど衣類を調達して参ります」
羽を伸ばすために背中が大きく開いたシフォンのドレスは、たしかに花屋には不向きである。服などはアクロに任せることにして、フィリアは次の『掟』を待った。
「『掟』その一、ということは……『掟』はまだ他にもあるのね」
「はい。次は、その二でございます。プロスドキアでは、植物と話してはなりません」
「え……どうして?」
「……どうしてだと思われますか?」
気のせいだろうか。アクロのこめかみに、ぴくぴくと血管が浮き出ているように見える。
「フィー様。先程の惨事をお忘れですか」
「い、いえ、忘れたりなど……」
彼は笑っているはずなのに、笑顔が怖い。これは……もしかしなくとも、やっぱり怒っているのではないだろうか。
「植物が妖精を愛しておりますのは、フィー様もよくご存知でしょう」
「ええ、もちろん」
「しかしプロスドキアで生まれ育った植物達は、妖精を知らない。妖精からの愛に飢えております。そこへ私達妖精がやって来る──しかもフィー様は妖精の姫でございます。そんな方が彼らに話しかけると……どうなるかお分かりですか」
分かるも何も、先程フィリアは彼らに話しかけてしまった。その結果が、現在の一階の惨状である。
「……身に染みて分かったわ」
「でしょう。あのようなことが人前で起こっては、大きな混乱を呼びます。気をつけて下さいね」
アクロは、眉間を揉みながら大きなため息をついた。姫相手にとる態度ではない。悔しい。けど一階をあんな有様にしたのは自分だ。言い返せない。
「──最後は『掟』その三でございます。特に気をつけていただきたいことです」
「な、なにかしら」
植物へ話しかけること以上に気をつけることとは、一体何なのだろうか。アクロは復活してしまった怒りを再び押し込め、真剣な面持ちでフィリアへ語りかけた。
「人間の国プロスドキアでは、決して涙を流してはなりません」
「あ、『妖精の涙』……」
「そうです」
遥か昔。多くの妖精達が、欲深い人間にさらわれてしまった理由。それは妖精族が流す涙にあった。
妖精の頬を流れる涙が雫となってこぼれ落ちるとき、その雫は虹色に煌めく。それがいわゆる『妖精の涙』──
かつての人間達は、その美しい『妖精の涙』に心を奪われてしまったのだという。
「二年間プロスドキアで暮らした私の見解ですが……妖精の国で言い伝えられているより、現代の人間はずっと理性的で倫理観もしっかりしております」
「お母様も、そう仰っていたわ」
「ただ……やはり中には欲深い悪人もおりますでしょう。万が一を考えて、プロスドキアでは『妖精の涙』を流してはならぬのです」
アクロの沈痛な声色に、フィリアは深く頷いた。
「そうねアクロ。私、きっと『掟』を守るわ」
羽を出さない。
植物に話しかけない。
涙を流さない。
これが……人間の国プロスドキアで、妖精であるフィリアやアクロを守る『掟』。三つの掟を心に刻み込むように、フィリアは胸へと手をあてた。
「では。私はこれからフィー様の衣類などを調達して参りますので」
「ありがとう、アクロ」
「今日は休憩無しですよ。覚悟して下さいね」
「覚悟? なにを?」
フィリアがぽかんとしていると、再びアクロの眼鏡が鋭く光った。それを見て、はたと気付いた……この後待っているのは────
「一階の後始末ですよ! 片付くまで、終わりませんからね!」
ついにアクロはフィリアを叱りつけ、バンと激しくドアを閉めて出ていった。
フィリアは肩をすくめ、改めて深く反省をしたのだった。
小一時間ほど経ってから、アクロは両手に抱えきれないほどの荷物を持って帰宅した。すべてフィリアのために購入したものであるという。にしても、買い過ぎではないだろうか。ヤケクソであろうか。
その中から、フィリアは淡いグリーンのワンピースを身につけた。背中まで伸びた銀髪もひとつにまとめ、エプロンを巻くと……一見した限りでは妖精とは分からないほど『花屋の娘』へと変身した。
「よくお似合いです、フィー様」
「そう? ありがとう……やっぱり羽は窮屈だけど、仕方がないのよね」
アクロに倣い、フィリアも羽をたたんでワンピースの中へと隠してある。のびのびと羽を広げることが出来るのは自室のみだが、ここで暮らすためである。我慢する。
ようやく準備も万端となった二人は、今朝から目を逸らし続けた一階へと足を踏み入れた。
壁一面にびっしりと伸びる蔓、店内に生い茂る葉。恐る恐るアクロを見上げると、彼の瞳は絶望の色を浮かべている。
「さあ、やりますよ」
「……これ、二人がかりでも一日で終わるかしら」
「終わらせるのです。助っ人も呼んでおります」
彼は買出しに向かった先で、偶然会った知り合いに「片付けを手伝ってほしい」と声をかけたようだ。あの者に出会えて良かったと、アクロは大きく息をついた。
「二年前、私がプロスドキアに来たばかりの頃に知り合った者なのですが、何かと親切な男でして」
そうこう言っているうちに、入口のドアがノックされた。おそらく、アクロが呼んだ『助っ人』がやって来たのだろう。
「アクロ。来たよ……って、うわ」
ドアを開けて入ってきた青年は、店内を惨状を見るなり驚きの声を上げた。目を丸くして店内をぐるりと見回したあと、その碧い瞳が店の奥──フィリアをとらえる。
「君は──」
彼の金髪が、さらりと風になびいた。
それが射し込む光に反射して。フィリアの目は金髪の青年へと釘付けになった。
背が高くて、肩幅が広くて──瞳が強くて、目が離せない。
この日、フィリアは初めて『人間』と出会った。
それは輝くように眩しい人だった。