嵐の後
耳に届くのは、鳥のさえずり。
そして風にそよぐ小さな葉音。
「フィー様、フィー様」
名を呼ばれて、フィリアは薄く目を開けた。
花模様の彫りが入ったベッド。白い布張りのペンダントライト。それ以外、何も無いがらんとした部屋。ここはフィリアの部屋だった。
いつの間にかフィリアはベッドへ横になっていて、そのまま寝てしまったのだ。こんなに日が高くなるまで。
「……アクロ」
「おはようございますフィー様。もうお昼ですが」
彼は既にいつも通り、身だしなみをきっちりと整えていた。昼食の支度をしていたのだろうか、エプロンを身につけている。
「羽を伸ばさぬまま寝たものだから、窮屈でしたでしょう。今日はゆっくり、ここで羽を伸ばしますか?」
「いえ……あの、私はなぜここに?」
「リオンが、ここまで運びました」
「リオン様が!?」
昨晩。
アクロがふて寝していた所、ふいに扉がノックされた。ドアを開けてみれば、寝落ちしてしまったフィリアと、彼女を横抱きにしたリオンが立っていて。
そして彼は、驚くアクロにこう告げた。
『フィーの部屋に入るには、兄上の許可が必要かと思って』と。
「本当に……思い出すだけでも……あの男は憎たらしいっ……」
「え? また何かあったの?」
「いえ、何も。昨日の非礼はちゃんと詫びましたので、フィー様はご心配無く」
聞けば、アクロはちゃんとリオンに謝ったらしい。そういう所がアクロは大人だ。諍いを翌日に持ち越さない。同居するフィリアにとって、それはとてもありがたい。
「あの、アクロ。昨日はごめんなさいね」
「なぜフィー様が謝るのです」
「ええと……」
本当だ。なぜ、謝っているのだろう。
何を後ろめたく思っているのだろう……
アクロを諌めたこと?
それともリオンを庇ったこと?
アクロに、ヤキモチを妬かせたこと……?
「……私、アクロのことは大好きなのよ」
「そんなことは昔から分かっていますよ」
ありがとうございます、と微笑むと……アクロはフィリアの髪をサラリと撫でた。優しい、兄の顔をして。
「わ……これはひどいわね」
羽を伸ばすことは後回しにして、フィリアはとりあえず起き上がることにした。アクロが用意してくれた美味しい昼食を食べ、軽く身支度をして、いざ外へ出てみれば。
八百屋の看板は剥がれ落ち、飛ばされたごみが散乱し。暴風にもぎ取られた木の枝があちらこちらに散らばっていた。裏通りに住む皆は協力しながら、風で荒らされた通りの片付けに奮闘している。
「これでも、ずいぶん片付いたんだよ」
声の方を振り向くと、そこにはリオンが立っていた。
アクロの話によれば、嵐がやんだ後にリオンは一度帰宅したらしい。寝落ちしたフィリアを、部屋まで運んでから。
リオンの顔を見た途端、そのことを思い出してしまった。みるみるうちに顔に熱が集まる。なんという失態。なんて恥ずかしい……
「リオン様……昨日は、申し訳ありませんでした」
「昨日? 寝落ちしたこと?」
「あああ……」
実は、フィリアにはあまり昨晩の記憶が無い。
リオンから『フィリア』と本当の名で呼ばれてから、頭が真っ白になってしまって。嵐の轟音が、良い具合にフィリアの思考を遮って────
気がついたらベッドの上だった。
「お、おも……重かったのでは……? リオン様が運んで下さったとか」
「まさか。フィーは軽すぎるよ、もっと重くてもいいくらいだ」
リオンのことだから、正直に『重かった』などと言わないのは分かっていたけれど……それよりも。昨日『フィリア』と呼んだ彼は、今日になるとまた『フィー』と、呼び方を戻していた。
(あれは何だったのかしら。たまたま? ……そんな偶然で、名前を言い当てることなど出来るかしら)
フィリアがモヤモヤと考えあぐねている間にも、リオンは裏通りの片付けをてきぱきと進めている。
そのうち、リオンを見つけた子供達が彼の周りへ駆け寄った。お隣りの仲良しな双子、ラナとミアだ。口達者な彼女達はまだ六歳。絵本から出てきた王子様のようなリオンは、お年頃のラナとミアにとって憧れの存在だ。彼女達から矢継ぎ早に話しかけられ、リオンの手も止まってしまった。
「こら。リオン君は今忙しいのよ。無駄口叩いてないで、あんた達も片付けを手伝って」
「えー」
「はーい」
ペルラに叱られたラナは頬を膨らませ、ミアは渋々と返事をした。リオンに構ってもらうことを諦めた彼女達は彼から離れ、バタバタと走ってゆく。
と思ったら、今度はアクロが捕まった。目の前に立ちはだかるラナとミアから、質問攻めに遭っている。
(ふふ、かわいい)
アクロも、小さなレディ達のことを邪険には扱えないらしい。ラナとミアからのおませな質問に、うろたえている様子がおかしかった。
「アクロを見てるの?」
いつの間にか隣にはリオンが立っていた。彼も同じく、アクロを微笑ましそうに眺めている。
「ええ。アクロも、ラナとミアには弱いのです」
「そのようだね」
彼女達に「眼鏡をかして」と奪い取られ、視界がおぼつかなくなったアクロ。一生懸命目を細めているのだが、とてつもなく人相が悪い。
懐かしい。フィリアも幼い頃、姉と二人でアクロの眼鏡を借りたりしたものだ。その度、アクロがああいう人相の悪い顔をして……理不尽にも「怖い」と泣いたりした。
「フィーも兄妹とは仲良いの?」
「はい。ちょうど、懐かしく思っていました」
四人姉妹の末っ子であるフィリアには、姉が三人。
ヒューレー次期女王になる長女、竜族の国へ嫁いだ次女、獣人族の国へ嫁いだ三女。
中でも、二つ年上の三女とは特別に仲が良かった。一番年が近かったこともあるかもしれない。
「私も、姉とああやってアクロの眼鏡を奪ったり……イタズラをしたものです」
「フィーが?」
そう。三女と二人で、それはもう……イタズラの限りを尽くした。
わざと隠れてアクロを困らせたり、木に登ってアクロを困らせたり、彼の髪をいじってアクロを困らせたり……主に、アクロを困らせていた。
「本っ当に……アクロには頭が上がらないのです……私と姉は」
「可愛かっただろうね」
「えっ? な、なにがです?」
「俺も見たかったな、当時のフィー達を」
イタズラばかりしていたフィー達を「見たかった」なんて言うリオンは、とんでもなく変わり者なのではないだろうか。
なんて思いながらも、自分の黒歴史を暴露してしまったことに今更気がついて。なぜかリオンには何でもペラペラと話してしまう。
「お姉さんは、今どこに?」
「もう二年前に嫁いでしまって、それ以来会えていないのです」
「寂しいね。遠くへ嫁いだの?」
「ええ、とても遠くに」
彼女は二年前、獣人族の国へ嫁いだ。獣人族の国はどこまでも続く荒野にあって、フィリアにはどのように行けば辿り着くのかも分からない。
風の便りでは、獣人族の王太子と夫婦仲も良いという。姉の幸せが一番ではあるが……時々思い出しては、会いたいと密かに願う。
「また会えたらいいね」
「はい、いつになるか分かりませんが」
「フィーの結婚式なら駆けつけてくれるんじゃない」
「結婚式?」
ドキリとした。
フィリアの結婚式。
それは近い未来、このプロスドキアで────
「あれ、なに」
「なにか、くる」
ラナとミアが、通りの奥に何かを見つけた。
砂煙を巻き上げながら走るそれは、勢いよく近付いてくる。
「馬だわ」
「あばれ馬よ!」
近付いて来るものが馬だと分かると、リオンはラナとミアを急いで避難させた。片付け途中だった近所の者達も、中断して脇へと逃げる。
迫り来る馬上には人影。裏通りとはいえこんな街中で馬を駆けるとは、なんて非常識なのだろう。
どんな非常識な人物が乗っているのか……
よくよく目を凝らしてみると。
小柄な女性。銀髪のショートヘア。
背中の羽は仕舞ってあるようだが、あれは────
「……エリミア姉様!?」
「フィー!」
それはフィーの三番目の姉。
奔放な姫……エリミアだった。




