新しい世界
わたしの家庭には、普通いるはずの──お母さんがいません。
「ちょっとは手伝いなさいよね!」
「いいじゃないか、休んだって!仕事がない大事な休みの日なんだぞ!なのに俺を疲れさせるなよ!」
今から四年前……わたしは当時小学五年生だった。
その日は日曜日だったから、友達の家で遊んできていた。
夕方になり、帰宅する時間になったため、家に帰ると。
このありさまだ。
近所迷惑になるぐらいの、両親の大声。
二人の鋭い目。
それで、お互いを睨みつけ合っている。
会話の内容からして、明らかに喧嘩していることが予想できる。
その光景が、わたしの遊んだ後の幸福感を、一気に、どんよりとした暗いムードにしていった。
「お父さん、お母さん……。喧嘩はやめて」
優しいお母さん。
お母さんがお父さんと喧嘩しているところを見ると、耐えきれなくて。
二人の間に入るようにして口を挟んだが。
「沙彩は黙ってなさい。これは親の問題だ」
喧嘩がおさまると思っていたが、そんな期待は呆気なくお父さんの言葉で消されていった。
「でも……」
「いいから、黙ってなさい」
「嫌だ、嫌だ!」
「沙彩。部屋に行ってなさい……」
今度はお母さんが入ってきて。
お父さんの言うことは聞かないことがあるが、お母さんの言うことは必ず聞いていた。
「……はい」
いかにも拗ねた言い方で、リビングを後にした。
しばらくすると、また親の大声が聞こえ始めた。
『親の問題だ』と言われて、部屋に戻るほど、わたしも素直ではない。
だって、やっぱり気になるじゃないか。
大人は……。大人は聞いていい話なの?
わたしはまだ子供だから、聞いてはいけない、って言うの?
……そんなこと無いんじゃないかな。
確かに、わたしは親と違って子供だ。
けど、これは家庭の問題だと思うんだ。
親の……親だけの問題じゃなくて。
リビングから別の部屋へと続くドアの少し開いた隙間から、息を潜めて見つめていた。
さっきよりも静まっていた。
「わたしたち……これからのためにも、沙彩のためにも、やっぱり別れた方がいいと思うの……」
お母さんはゆっくりと、俯きながら話していた。
わたしの頭の中には、ハテナマークがいっぱいあった。
『別れる』?
えっ……離婚?
『沙彩のため』?
どうして?
「お前が望むなら、俺はどっちでもいい」
お母さんは一息ついた。
「なら──別れさせてください」
その言葉と同時に、そっと一枚の紙を差し出す。
「あぁ」
お母さんはペンを取り出し、その紙に文字を書いていく。
そのペンを持つ手を止めないまま、お母さんは淡々と話し始めた。
「わたし……あなたのことが物凄く嫌いなの。沙彩の面倒だって、ちっとも見てくれない。だから、あなたには沙彩を任せることができない──」
わたしの息は、荒くなっていた。
目頭の辺りがジンとして、鼻がツンとしみてくる。
手で顔全体を押さえ、必死に、溢れ出てきそうな目の滴を堪えた。だけど体は言うことを聞かない。
堪えても堪えても、どんどん涙は溢れ出してくるばかりだった。
「ヒック……ヒック……」
声も、抑えきれない。
聞こえてしまっただろうか……。
「シッ。何か聞こえないか……?」
お父さんは多分、そう言った。
もう周りなんて、何が起こっているのか分からないのだ。
体から漏れる声は、二人の会話を聞こえなくしてしまう。
瞳から溢れ出す涙は、視界をぼやけさせて、何をしているのか分からなくしてしまう。
人影が近づいてくるのが分かった。
──ガラガラ──
お、お父さんだ……。
慌てて涙を手で拭いとる。
必死に頭を回転させ、ここにいる理由を考えていた。
「あっ、あの……怖い夢見ちゃったの!……だから、お父さんのところに行ったら安心するかなぁーって!」
「ほーお」
涙が少なくなってから分かったが、お父さんが手を腰に当て、いかにも迷惑そうな表情を浮かべていた。
「──ごめんなさいっ!見ちゃったの……ぐすん……。全部……。今のは……ぐすん……本当なの……?」
泣き止んだ、って思ったのに。
お母さんの、あの言葉を思い出してしまって。
お父さんに怒られるんじゃないか、って。
「……」
「ごめんなさい……」
お父さんに這いつくばるように、土下座した。
ひたすら頭を下げた。
「……見たんだな?」
「うん……」
「聞いたんだな?」
「……うん」
わたしの泣き声だけが、重苦しい空気に漂った。
「……沙彩、もういいわ」
お母さんが口を開いた。
わたしは立ち尽くしたまま、何も言えないでいた。
「──幸せになるのよ」
「……え?」
お母さんは玄関の方に歩いていく。
続いて後を追う。
「ねぇ、ねぇ……お母さんってばぁ……何処行くのぉ……」
まるで幼児がお母さんにすがりつくような感じだった。
初めて幼稚園に行くとき、お母さんと離れたくなくて、泣き叫ぶ子のように。
お母さんは何の反応も見せない。
何も言わないまま、靴を履き始める。
何度呼んでも、ただ歩いていく後ろ姿が見えるだけ。
玄関のドアに、手をかけた。
「いやぁ!行かないでぇ!お母さぁん!」
もはや『呼ぶ』と言うより、叫んでいる。
泣いていることなんて、忘れていた。
お母さんの姿は見えなくなった。
もうこの家の中にはいない。
お父さんとわたしだけが残された。
わたしは何時間も、泣き叫ぶことを止めなかった。
だが、いくら泣いたって、お母さんは戻って来ない。
この日、両親は離婚しました。
この日から、ずっとずっと、この出来事を根に持っている。
……というより、忘れることなんて一生できないと思う。
そのせいか、クラスメイトから、
「性格、暗くなったんじゃない?」
と言われるようになった。
だんだんと友達の数も減っていった。
笑いたいよ。その気持ちはいっぱいなんだけど。
──上手く笑うことなんて、できるわけないじゃん。
そんな生活が続き、ついにわたしは──ひとりぼっちになった。
いつもと違う景色。
いつもと違う人達。
いつもと違う空気。
車の窓から覗いた外の町は、いつもと違って新鮮だった。
車内は、生活用品などで暑苦しいが、そんなことを感じさせないほどだ。
車のスピードで、風ができる。
その風が、わたしの髪をなびかせた。
「おい、着いたぞ」
お父さんの言葉で、現実に戻る。
「はい」
今気付いたが、窓の外の景色は、止まっていた。
車の外に飛び出る。
今から住む場所は、至って普通のマンションだ。
三階まであり、少し壁が剥がれているところがある。
それでも綺麗に見えた。
綺麗に散っている桜の花びらのせい?
綺麗な声でさえずいている小鳥のせい?
理由はよく分からないけど。
「行くぞ。荷物運ぶの手伝え」
「分かった」
お父さんとは、お母さんが出ていったあの日から、ずっとこの調子だ。
別に話すことなんてない。
だから話さない。
他にも話さない理由はあるが……。
まずは自分の服が入っている、リュックを背負った。
家は二階になる。
そこへ行くときの階段が、ギシッ、ギシッと歩くたびに軋む。
だがそれは気にもくわなかった。
家の中は、2LDKぐらいだ。
今は家具が一切ないため、異様に広く見える。
「……よっこらせ」
リュックを降ろした。
リビングについている、ドアぐらいの大きな窓から、眩しい日射しが射し込んだ。
窓を開け、空気の交換をする。ついでにベランダに出た。
町の景色が一気に広がる。
家も所々あるが、ほぼ木などの植物で覆われている。
前住んでいた、同じ日本とはとても思えない。
「おい、そんなところで油売ってないで、ちゃんと働け」
まるっきり棒読みだ。
それが怖く聞こえる。
後ろを振り返ると、真顔で、せっせと手を動かしていた。
「はい」
わたしはお父さんに対して、大体口にする言葉が、『はい』や『うん』。
口答えをすると、人じゃないような暴れようになる。
例えるなら、ライオンか、彪か……。
歯向かった瞬間、お父さんの周りにあるものを次々に投げつけてくる。
「俺の言うことが聞けんのか!」
って。
きっと本人は、この世界は自分中心で動いている、って思ってるんだろうな。
これが本当の自己中だと思う。
その度に、ムカついて、ムカついて仕方がなくて。
つい、
「離婚したのはあなたのせいでしょ?なのに偉そうに言わないでよ」
と言ってしまいそうになる。
だけどそんなこと言ったら──もう、終わるな。
だからお父さんには不快感、怯え、憎しみ……。
色んなのが交ざり合って、『一緒にいたくない』と感じてしまう。
「おい!」
途端に体が痙攣した。
お父さんの拳はグー。
やられるな。って。
「ごめんなさい」
従わなければいけない。
その度に怯えなければいけない。
武士と奴隷ぐらいの位の差を感じる。
せっかくの引っ越しなのに──
「ふぅー……」
やっと一息つくことができた。
今は自分の部屋のベッドに寝転んでいた。
部屋の配置は、わたしの部屋とお父さんの部屋にもなるリビングの二部屋。
多分家にいるうちのほとんどが自分の部屋にいると思う。
天井をぼぉっと見上げる。
「おい、今日の分だ」
その声の主は……やはり、お父さんだ。
勝手にドアを開け、入ってきたのは、女として気にくわない。
何も言わずに、机に札を置いて出ていった。
もういつものことだから、この札は何なのか分かっていた。
だから面倒だし、ベッドから立ち上がったりはしない。
……どうせ、五万円札だろう。
高額だが、決して嬉しいものではない。むしろ、嫌だ。
何故なら──家事を全部しなければならないから。
『これだけのお金を渡すから、一ヶ月家事をやれ』ということだろう。
要するに、バイト代と同じようなものだ。
わたしはこのお金と引き替えに、家事を任せられた……いや、やらせられた。
その五万円は、一ヶ月に一回渡される。
この五万円の使い道は……大体が食料代で消える。
普通に野菜やお肉を買うまではいいが、ビールを毎日二缶は飲むから、余るはずのお金が余らない。
お母さんが居れば、辛くなかった。
お母さんが居れば、悲しくなかった。
お母さんが居れば──
jrrrrrrr……
早朝四時。昨日セットした時間通りに、目覚まし時計が鳴り響いた。
目は半開きのまま、手探りで音源を捜す。
睡眠時間、約五時間。
本当はもっと寝ていたいが、仕事がある。
台所に行き、棚の中から弁当箱を取り出した。
冷蔵庫を開ける。
……あ、しまった!
顔から血の気が引いていくのがわかった。
冷蔵庫の中……食品ゼロ。
昨日、食品を買い忘れていたことに、今気付く。
机の上から、お金を適当に掴み取る。
わたしは、玄関に一番近かったビーチサンダルを履き、パジャマ姿のままで家を駆け出した。
今の時間は人気が少ないから、この格好でも気にすることがなかったのが救いだ。
よく考えてみたら──コンビニって、どこにあるのだろう……。
だが、弁当を作らなければ……怒られる。
近所を死に物狂いでまわり、どうにかコンビニの場所が分かる人を捜した。
「はぁ……ッ……。誰もいないっ……!」
地面に這いつくばった。
「いるよ」
…………?
気付いたら、上の方から男の人の声が。
大体わたしと同じぐらいの年だと伺えた。
髪の毛がハリネズミのように立っていて、目がくりくりとしている。
慌てて立ち上がる。
「あっ、あっ……」
人にいざ、話し掛ける、というときはいつもこうなってしまう。
「何か困ったことがあるんだろ?」
顔に似合わない、低くてハスキーな声だ。
背がわたしより、20センチ以上高いと思う。顔を見て話すとなると、首が疲れてくる。
「こっ、この辺りでっ……コンビニっ、とかッて……あっりますか……?」
「おぉ。あるぞ。ついてこい」
そう言って、彼は馴れ馴れしくわたしの手を取り引っ張っていった。
自分でもわかった。
今、わたしの顔は赤くなっている……。
だって、体温が急に高くなった感じがして、熱いんだ。
だって、たとえ他人同時でも、『手を繋ぐ』という行為は初めてだから。
「着いたぞー」
ほんの少し照れている間に、いつの間にかコンビニに着いていた。
──ピロピロン──
「いらっしゃいませー」
わたしはお弁当コーナーへ直行した。
この町のコンビニに来るのは初めてだが、引っ越してくる前のコンビニの商品の配置は覚えていたから。
今いるコンビニは、偶々同じコンビニだった。
コンビニ弁当でいいか、と思い弁当選びに熱中していた。その時、彼は後ろから声をかけてきた。
「お前、名前は?」
「えっ……とぉ、小野田沙彩です」
「そ。俺は堺一真。よろしくな」
「あ、はいっ。よろしくお願いしますっ」
初対面のわたしにも関わらず、ペラペラと話し掛けれる彼は本当に凄い。
わたしは凄く仲良くなった子としかちゃんと話せないから……。
見習わなきゃ。
「ここら辺の地域に鈍感とか?すんげぇ迷ってたし」
「あ、昨日豊田郡マンションに引っ越してきたばかりなので……」
「まじか!俺ん家、そこの向かいなんだけど!」
「そうなんですか!」
顔を見て話してないせいか、彼と話しているのに慣れてきたみたい。
なんだか、彼て話していると……落ち着くっていうか、気を使わなくていい、っていうか……。
話しやすい。
「選び終わったんで、レジ行ってきますね」
「いってらっしゃい!」
レジに行くときも、お金を払うときも、後ろから彼の視線が感じられた。
わたしの顔には、自然と笑みがこぼれた。
「ありがとうございました」
家の前。
わたしは頭を下げた。
「うん。気をつけて!」
「そちらこそ……!」
短い出会いが終わっていった。
だんだん離れていく彼の背中を、数秒見つめた。
やがて彼は家の中に入り、わたしも家へ帰った。
時計を見ると、五時半。
弁当を作る手間も省けて、時間には余裕がありそうだ。
リビングに行くと、お父さんはスーツに着替えていた。
「弁当作ったか?」
「うん……」
コンビニ袋の中身を見せる。
途端に、お父さんの表情は曇っていった。
「はぁ!?コンビニ弁当だと!?……まぁ今回は特別に許してやる。だがな、明日からはちゃんと自分で作れ。わかったな?」
買ってきただけよくないの?偉そうに……。
「わかった」
「わかればいい。……いいか、お父さんは今日、生活に必要なお金のための仕事を探しにいく上、お前の学校の手続きをしにいってやるんだからな。感謝しな」
「うん。感謝してるよ」
「じゃあ行ってくるから」
お父さんは、弁当を鞄の中にしまいながら、せっせと靴を履く。
引きつった笑顔で、手を振った。
やっと落ち着くことができる……。
そう思ったら、なんだか楽しくなってきた。
──とは言いつつ、何をやろう。
自分の部屋に行き、窓のところに椅子を持ってくる。そこに座り、向かいの堺さんの家を見ていた。
一真さんと話しているとき、満たされた。
こんな楽しかったこと、滅多に経験したことがない。
また、話したいなぁ──
そう思っていたら、堺さんの家の玄関から、制服を着た男の人が出てきた。
あの人は多分……一真さんだ!
何故か興奮し、椅子から立ち上がった。
気付いたら、彼に向かって、手をめいいっぱい振っていた。
「一真さぁ〜〜ん!」
届く訳ないのに、これまた何故か叫んでいる。
──パチッ──
目に焼き付いた。
手を振り返してくれた。
些細なことだが
嬉しくてたまらない。
わたしもたまらず、手を振り続けた。
気が付くと、時間は午後三時だった。
しまった、寝ちゃってたんだ……。
何やらリビングで物音がする気がする。
寝ぼけてふらつく足元で、リビングに向かう。
お父さん。わたしに気付いたみたいだ。
「あ、沙彩。明日からこの制服来て学校行け。これが学校への地図だから」
相変わらず素っ気ない言い方で、わたしに地図と制服を手渡した。
一方のわたしは、突然のことで話が読めない。
「で、校則とか持っていく物とかはこの紙に書いてある」
そう言い、10枚ほどまとめてある紙を手渡した。
もうわたしの手に、余裕はない。
「俺は明後日から、トヨタ自動車で働くことになった予定だ。だから七時には弁当を作っておくこと」
スラスラと話が進んでいく。
わたしは曖昧に頷くしかなかった。
「はっ、はーい……」
わたしは自分の部屋へと後退りした。
さっきの椅子に座り込み、紙を読み進めた。
明日から、なんとなく──
学校生活が始まります。