6 したたるヨダレ
次の授業は数学やった。
数学の教師である吉井和彦先生(男性、五十八歳。最近の悩み。実の息子がオレオレ詐欺の電話をかけてきて、金をむしり取ろうとする)が、黒板に数式をビッシリと書きこみながら、その解説をしている。
しかしオレはそれらの話が一切耳に入らず(今、耳ないけど)、この後の事ばかりを考えていた。
チイ子は終礼が終わったら、オレに高梨さんに告白させる気で居る。
そやけど、今まで話す事はおろか、挨拶もまともにできてなかったオレが、今日いきなり告白なんて無謀過ぎるやろ⁉
しかもこんなプリンの体で!
絶対無理や!フラれるに決まってる!
しかも下手したらよけい気まずくなって、ますます彼女との距離が遠くなってしまうかもしれん!
そんな事になったら、オレはもう学校に来る事がでけへん!ぐぉおおおっ!
悩むあまり、両手で頭を抱えるオレ(両手がないので抱える事はできんけど、気分的に)。
くそぅ、それもこれもチイ子が勢い任せにオレをけしかけて来るからや。
まあこいつも変にお節介焼きな所があるから、面白半分でそんな事を言ってる訳ではないのやろうけど、でも今のオレにはハードルが高すぎるで。
オレは体を回転させ、背後に居るチイ子の顔をチラッと見た。
まあ、こいつはこいつでこの後の昼休みの事を真剣に考えてるのかもしれん。
そう思いながら見上げると、そのチイ子は、
寝てた。
寝とるで、コイツ。
人がこんなに悩んでるのに。
しかもその原因を作ったのはコイツやのに。
思いっきり寝とるで。
確かにチイ子は数学が大の苦手やから、授業中は大体寝てる。
それは仕方ないと言えば仕方ないけど、さっきオレにあんなに力説しといて、よくもまあこんなスヤスヤと寝られるもんやなオイ。
今のチイ子は体こそ起きているものの、まぶたは完全に幕を下ろし、口はだらしなく開き、その端っこから一筋のよだれがキラリと光る。
そしてまるでメトロノームのように、一定のリズムで頭をコックリコックリ前後にゆらしている。
その様子は教卓に居る吉井先生からもよく見えてるやろうけど、特に物音を立てたりしている訳ではないのでスルーしている。
一方斜め前の席に居る緑川は、そんなチイ子をチラチラ横目で眺めては、頬を赤くしていた。
お前はこんな女がええのんか?
好きな女子がよだれたらしながら居眠りしてたら幻滅せぇへんか?
高梨さんがもしそんな状態になってたら、オレはドン引きするで?
・・・・・・いや、せぇへんか。
むしろそんな無防備な姿を見たら、更に胸がときめいてしまうかもしれん。
・・・・・・けど、チイ子相手にそうはならんやろ普通。
だってチイ子やで?
『アホの子』の代名詞とちゃうかと思えるほどのアホの子やで?
今だってほら、全く起きる気配がないし、むしろ前後にゆれる頭の振り幅が、どんどん大きくなってるで?
大きくなって大きくなって、しまいにその額がオレにぶつかりそうなくらいになっとるで?
そしてそんな中、
ぶぉん!
ウトウトして前に倒れかかったチイ子の額が、オレのすぐ目の前に迫り、あと数センチの所で止まった!
びっくらこいたオレは思わず
「うぉっ⁉」
と声を上げてしまい、そのせいでクラス中の視線がオレに集まった。
一方のチイ子はビクッとなって体を起こし、寝ぼけまなこで辺りをキョロキョロ見回す。
こいつ、頭の中はまだ寝とるな。
と思っていると、教卓の方から
「丸野、何か質問か?」
という、吉井先生の冷たい声が飛んできた。
「あ、いえ!何でもないです!スミマセン!」
慌てて吉井先生の方に振り向き(前のヤツの背中に隠れて、先生の姿は見えんけど)、取り繕うオレ。
そんなオレを見て、クスクスと笑い声を上げる周りのクラスメイトども。
くそぅ、チイ子のせいでとんだ恥をかいてしもうたやないか。
いい加減に目を覚ませやチイ子。
そう思いながらまた後ろに振り向くと、チイ子は、
寝てた。
やっぱり寝とるやないか!
しかもいつの間にかチイ子の口の端から出てるヨダレが、釣り糸みたいにオレの頭のすぐ上まで垂れて来とるがな!
うぉおおい!
このままやとオレの頭のカラメルソースにチイ子のヨダレが混じってしまうやないか!
あかんあかんあかん!
身の危険を感じたオレは踵を返し(踵無いけど)、一目散にその場から逃げ出そうとした。
が、ナメクジなみのスピードでしか動く事ができないオレは、なかなか思うように前に進む事ができない!
それよりもチイ子のヨダレが落ちて来るスピードの方が速い!
そしてそのヨダレは、まるで急須のお茶が茶碗に注ぎこまれるように、オレの頭上のカラメルソースに・・・・・・注ぎ込まれた。
滴るヨダレ。
カラメルソースと混ざり合うヨダレ。
そしてオレは、のど仏が避けるかと思うくらいの叫び声を上げた。
「ぎゃあああああああっ!」
この後オレは吉井先生にメッチャ怒られ、そのまま廊下に立たされました。
長い人類の歴史の中で、プリンの姿で廊下に立たされたのは、恐らくオレが最初で最後やろう。
早く、人間の姿に、戻りたいです。