4:証明終了
解答編です。
結局、その場で紙切れが開かれることはなかった。思うに、あまりにも急激な展開であった為、誰もが犯人の名を知る心の準備が、できていなかったのだろう。
加えて、僕としては、もう少し自分でも考えてみてから、答え合せをしたかったと言う気持ちもあった。
そう言うわけで、紙切れは折り畳まれたまま、僕が預かることとなる。
そのあとは、マスターのマジックショーで楽しませてもらい、酔いが回りきらないうちに会計を済ませた。
そして、店を出ようとしたところで、もう一人の常連客が現れる。渋沢さんと井岡がその人物に挨拶をし、続いて僕と緋村に紹介してくれた。しかし、その時はそれ以上、特にやり取りを交わすことはなく、僕たちは心地よい初秋の夜風の中に出たのだった。
──あとになって、ふと考えたことがある。
もしあの時、《HIMAWARI》の店内でメモを開いていたら……あるいは、緋村がそんな持って回ったような演出などせず、直接犯人の名を口にしていたら……挨拶をするどころではなくなっていただろう、と。
その常連客が、犯人だった。
※
翌る日の放課後も、僕たち四人は構内で集まっていた。場所は第二食堂を出てすぐのところにある、喫煙所だ。
全員が揃ったところで、僕は財布から例のメモを取り出し、井岡に手渡した。彼女がそれを開き、その横からボーイフレンドが覗き込む。──恋人たちは同時に息を呑み、そしてすぐさま顔を上げた。
「驚いたな」渋沢さんがまっさきに感想を口にする。「まさか、ホンマに犯人の名前を予言しとったなんて……」
「でも、どうしてこの人が犯人やってわかったん? 昨日のマスターと冷清水さんの証言の中に、手がかりがあったってこと?」
問われた素人探偵は、コンクリートの壁に寄りかかりながら、悠々と紫煙を燻らせていた。
「まあな。とは言え、昨日の今日で事件が解決するとは思わなかったが。──どうやら、彼女はあのあとすぐ、罪を認めたようですね」
「らしいな。さっき鞠井さんから連絡があったんやが、どうも緋村くんの予言を二人が話したことがキッカケやったらしい。たぶん、これ以上隠し通すことはできんと悟ったんやろう」
おそらく、それは彼女自身初めからわかっていたことなのだろう。警察の目を欺くにも、限度と言うものがある。たとえ緋村が捜査に乗り出さなかったとしても、彼女の罪はそう遠くないうちに暴かれていたはずだ。
そう考えつつ、井岡から返却された紙切れに、目を落とす。
そこには、せっかちな彼らしく、至って簡潔に、こう書かれていた。
「バンジさん」と。
今朝、テレビのワイドショーで犯人逮捕の報道を目にした時、僕は慌てて財布に入れていたメモを開いた。そして、緋村が本当に真相に至っていたことを、知ったのだ。
「それで? 結局のところ、何がヒントやったん?」
「最大のヒントは、日向さんが事件の当日だけではなく、二日前にも向日葵の種を持ち帰っていたことだ。そして、知ってのとおり、現場に残されていた向日葵の種の袋からは、鞠井さんの指紋が検出された。寄りにも寄って、常連の中で唯一アリバイのある人物の指紋が、だ」
だからこそ、不思議だったのだ。最も犯人から遠いであろう人間の指紋が、現場に残されていたのは、何故なのか。
「マスターの話によれば、事件の二日前、日向さんと鞠井さんは彼女の家に移動し、飲み直すと言っていたらしい。となれば、彼の指紋が袋に付着する機会があったのは、この日だったと考えられる。二人は持ち帰った向日葵の種をツマミにしていたんだろう。その際、中身を皿に開けたのか、直接手に持って食べたのかはわからないが、とにかく鞠井さんも一緒に食べていた為、彼の指紋が袋に付着した」
「けど、現場に残されていた向日葵の種は、手付かずのままだったそうじゃないか。二日前に鞠井さんが種を摘んでいたとすれば、手付かずどころか空の袋が残るはずだ」
思わずそう指摘すると、緋村はどうしたわけか、満足けに口の端を吊り上げる。
「普通はそうだろうな。しかし、現場に残されていた物には、ちゃんと中身が入っていて、リボンまでしてあったそうだ。さて、これが何を意味しているか……」
「もしかして、移し替えたってことか? 新しくもろて来た向日葵の種を、鞠井さんが触れた袋の中に?」
渋沢さんの言うとおりなのだろう。犯人は空の袋の中に、新たに調達した向日葵の種を移し替え、再びリボンで封をした。あたかもそれが、まだ開けられていない新品であるかのように。
「そうとしか考えられません。──おそらく、袋はゴミ箱の中から探し当てたのでしょう。現場内は荒らされていたそうですが、それはゴミ箱を漁ったことを隠す為のカムフラージュだったのだと思います。
無事に目当ての物を見付け出した番字さんは、今度は向日葵の種をもらうべく、バーに向かいました。本当はお土産を持ってすぐにとんぼ返りしたかったんでしょうが、それでは怪しまれてしまうかも知れない。そう考えた彼女は、少しだけ呑んでいくことにした。が、そこへ冷清水さんが来店した為に、帰るタイミングを逸してしまった──のかどうかはわかりませんが、とにかく不自然に思われぬよう、彼女に付き合ったのち、再び現場へと舞い戻ったのです」
「どうして、番字さんはそんなことをせなあかんかったん? 何か意味があって、向日葵の種を残したんやろうけど……」
「彼女にとって、これは非常に重要な問題だったんだよ。──現場に残されていた向日葵の種の袋から、鞠井さんの指紋が検出された。これは犯人が、事件の二日前の夜に彼が食べた物の袋に、新しく種を移し替えた為に、起こったことだった。ここまではいいな?」
井岡は頷く。僕もその点に関しては呑み込めていたし、渋沢さんも同様だろう。
「では、犯人は何故そんな意味不明な偽装工作をしたのか。それは、犯人の頭の中で、『このまま現場を立ち去った場合、自分が犯人であることが即座に露見してしまう』と言う考えが構築されていたからだ」
どうしてそうなる? 向日葵の種の有無が、何の証拠になると言うのか。
「現場の状況からして──ワイングラスを洗うなどして誤魔化そうとしていたが──、犯行の直前まで被害者と犯人がサシで呑んでいたことは、すぐにわかるだろう。そして、被害者の交友関係は非常に狭い。警察が常連客四人に疑いの目を向けることは、犯人にも容易に想像できた。つまり、容疑者は一気に四人にまで絞られるわけだが、そうなると、警察は次に何を考えるか……。
事件当時、被害者は犯人と酒を酌み交わしていたらしい。そして、現場にはツマミ類と共に、行き着けのバーで配られていると言う向日葵の種の入っていた袋が、残されていた。にもかかわらず、被害者の胃の内容物に、そのような物は見当たらない。であれば、向日葵の種は犯人が食べていたに違いない」
そう言えば、日向さんの胃の中からは、向日葵の種は検出されなかったのだったか。それでいて事件の前──十九時過ぎに彼女はバーに寄って種を持ち帰っている。であれば、事件当時彼女の家にいた別の誰かが食べたと考えるのが、自然だろう。
「これを踏まえると、犯人足り得る条件は『バーの常連客』であり、『事件当夜のアリバイがなく』、『向日葵の種を食べることのできた人物』と言うことになる。しかし、この条件に当て嵌まる人間は、実は一人しかいなかった」
「それが番字さんやって言うんか? けど、アリバイがなかったんは中利さんも同じや。その段階で番字さん一人に的を絞ることは、できひんやろ」
セブンスターに火を点けつつ、渋沢さんが指摘する。
「ところが、彼女の中ではそうではなかったんですよ。何故なら、彼はその時間、同窓会に出席しているはずだった。実際には奥さんが体調を崩した為に、キャンセルせざるを得なくなったそうですが、犯人がそのことを知る機会はありませんでした。中利さんに口止めされた為、マスターが誰にも話さなかったからです」
「それで、アリバイがないのは自分だけやと勘違いしたわけか。中利さんも鞠井さんも、事件の日に予定があることを、前の日にバーで話しとったから……」
「そのとおり。──そして、同じく『暇をしていた』と言う冷清水さんは、普段から向日葵の種を食べませんでした。本人曰く、苦手と言うだけで全く食べられないわけではないそうですが、いずれにせよ同じことです。何度も言うように、事件は突発的に起こった物でした。それまではいつもどおり酒を呑んでいたのですから、彼女が向日葵の種を食べたはずがありません。可能かどうかはともかくとして、進んで酒の肴になどしなかったでしょう」
彼女にとって、向日葵の種は不倶戴天の敵を想起させる食材だ。好き好んで食べるとは思えないし、事件のあった夜にたまたまチャレンジしてみた、なんてこともありそうにない。
そもそも、その夜、彼女は向日葵の種を持ち帰っておらず、閉店間際までバーに居残っていた。新たに種を調達し、移し替えることはできなかったのだ。
あるいは、犯行が成されたのは種を食べる前であり、まだ手元に残っていた──《HIMAWARI》から調達して来る必要はなかった──としよう。そして、元々種が入っていた袋に指紋が付着してしまい、どうにかして処分する必要があったのだとしても、わざわざ種を別の袋に移し替える必要はない。未開封の品に見せかける意味は、ないのである。
この場合、犯人が向日葵の種を食べられる人間か否かは不明になる。が、それは自分が触れてしまった袋だけを持ち去ったとしても、同じことだ。むしろ、そちらの方が遥かに簡単だし、犯人が袋を持ち去った=犯人の指紋が付着した可能性がある=事件当時犯人は向日葵の種をつまんでいたと、ミスリードできる可能性があるだろう。
──と、捲し立てるように補足したのち、緋村はロジックの締めに入る。
「犯人は常連客四人のうち、事件当時のアリバイがなく、尚且つ好んで向日葵の種を食べていた人物です。この条件に該当する人間は、中利さんと番字さんの二人。そして彼らの中で、新品の向日葵の種を現場に残す必要があったのは、番字さんただ一人だけ。
もし中利さんが犯人であれば、こんな小細工を弄する必要はありませんでした。たとえ鉄壁のアリバイを持つ鞠井さんと、向日葵の種を好まない冷清水さんが容疑者から外れたとしても、まだ番字さんが残るからです。
しかし、番字さんの場合はそうもいかない。彼女の中では、中利さんにもアリバイがあることになっていた。つまり、この時点で犯人候補は彼女と冷清水さんの二択。そして、冷清水さんは向日葵の種を食べない──たったこれだけのことで、自分以外に犯人足り得る人間がいなくなってしまうんです。
彼女がわざわざ現場に舞い戻るリスクを犯してまで、『新品のバーのお土産』を作らなければならなかったのは、そうすることで、冷清水さんを容疑者リストから除外させない為でした。裏を返せば、そんなことをする必要のあった人物──すなわち、番字さんが犯人と言うわけです」
証明終了、と言う代わりのように、彼は壁から背中を離し、短くなった煙草を灰皿に落とした。吸い殻が、タールの染み出した水の中に沈む。
現場に残されていた向日葵の種と、その袋から検出された鞠井さん──唯一完全なアリバイを持つ人物──の指紋。この矛盾した状況を手がかりに、緋村は犯人へと辿り着いてしまった。初秋の夜に花開いた大輪の謎は、同時に最大のヒントでもあったのだ。