3:一つ予言するよ
その日の夜。僕たち四人が《Bar HIMAWARI》に到着したのは、二十時を少し過ぎた頃だった。
店内に入ると、話に聞いていたとおりのマスターが、柔和な笑みと流暢な日本語で迎えてくれる。僕たちの他には、壁際のテーブル席に若い男女が一組と、カウンター席に女性が一人かけているのみ。
渋沢さんがその女性客に「こんばんは」と声をかけた。彼女は常連客であり、容疑者の一人でもある、冷清水さんだった。
「あら、今日は二人もお連れさんが増えたんですね」
指に煙草を挟んだまま、僕と緋村の姿をサッと見回して言う。
「このお店の話しをしたら、興味を持ってくれたみたいで。──お隣り、ええですか?」
彼女はどうぞ、と言う代わりに空いている方の手で席を指し示した。僕たちは並んでカウンター席に腰を下ろす。
その間際、緋村は隅に置いてある籠の中身を一瞥した。例の、ローストされた向日葵の種の詰め合わせだ。
ひとまず注文を済ませ、灰皿を二つもらう。渋沢さんも喫煙者だった。
さっそくマルボロに火を点けつつ、緋村は事件のことを口にした。
「こちらのお店の常連客の方が、つい先日殺害されたそうですね。渋沢さんから伺いました。お二人も、警察の事情聴取を受けたんでしたね?」
問われた常連客と店主は、同時に首肯した。
「事件現場には、向日葵の種の入った袋が残されていたそうですが、こちらのお店の物で間違いありませんか?」
「ええ。刑事さんから写真を見せられて確認しましたので、確かです。おそらく、亡くなる前にお持ち帰りになられた物でしょう」
「写真に写っていた種に、何か変わった点は?」
「いいえ。特に気が付いたことはなかっですね。種の数も──明確に決まっているわけではありませんが──、だいたいいつも袋に詰めているくらいでしたし、ちゃんとリボンも結ばれていました」
突然の質問責めに戸惑っただろうに、マスターは嫌な顔一つせずに答えてくれた。むしろ、怪訝そうにしていたのは冷清水さんの方だ。
「そんなことを訊いてどないするんでしょう? この間会った刑事さんみたいでしたよ」
「単なる好奇心です。気分を害されたのでしたら、これでやめにします」
「いえいえ、気になさらないでください。ちょっと驚いただけですから」
「では、もう少し続けさせていただきます。──リビングにあった灰皿が凶器とのことですが、日向さんは喫煙者だったのですね」
「そうです。と言っても、少し前までは禁煙しとったみたいですけどね」
何か理由があってやめていたのかと訊くと、
「実家に戻って来てお母さんと暮らすようになってから、控えていたと聞きました。日向さんが初めて《HIMAWARI》にお見えになったのは昨年の夏頃なんですが、その少し前にお母さんが亡くなったそうで……また煙草を吸い始めたのも、同じ時期やったようです」
そもそも彼女が実家に戻った理由は、認知症を患った母親の介護に専念する為だった。同時にそれまで勤めていた会社も辞めており、自宅からほど近いスーパーで、パートタイマーをしていたと言う。
「私も詳しく聞いたわけではないんですが、元々ご両親とはうまくいってへんかったようです。大学を卒業されてご実家を出てから、ロクに顔も見せてへんかったと、仰っていました。何年か前にお父さんが急逝されてからは、ちょくちょく実家に帰るようになったらしいんですけどね。……お母さんの介護から解放されて、ようやくプライベートの時間ができたところやったのに……理不尽にもほどがあります」
彼女はたな引く紫煙の先を、睨み付ける。我がことのように悔しがっているようだ。
あるいは、そう見えるように演じているのかも知れないが。
「そのプライベートの中には、鞠井さんとのことも含まれていたわけですね?」
「まあ、そうなりますね。もちろん、どこまて本気やったんかはわかりませんよ? 歳も離れとったし、結婚どころかお付き合いするつもりもなかったのかも知れません。少なくとも、お二人とも今のご関係を楽しんでいたようです」
「渋沢さんからもそのように伺っています。──ところで、鞠井さんが最後に彼女のお宅に招ばれたのはいつか、ご存知でしょうか?」
意外な質問が飛び出す。まさか、彼のことを疑っているわけでもないだろうに。
案の定、冷清水さんは不思議そうに片眉を吊り上げた。
「意外ですね。私はてっきり、鞠井さんの容疑を晴らす為に事件のことを調べてはるのかと思ったのですけど」
「容疑も何も、鞠井さんには鉄壁のアリバイがある。僕がどうこうするまでもなく、身の潔白は保証されていますよ。それより、いかがしょう? お二人は何か聞かされていませんか?」
緋村の知りたかったことを答えたのは、マスターだった。
「確か、事件のあった日の二日前だったはずです。その日はお二人揃ってお見えになったのですが、『このあとは日向さんのお宅で呑み直すつもりだ』と仰っていたので」
「それは私も初耳です」と、冷清水さんが言う。
「どうやら、みなさんに冷やかされるのがお嫌だったようですね。だからこそ、いつもより早めに帰られたんでしょう。私もみなさんには喋らないよう、釘を刺されましたから」
それからロシア人の店主は、頼んでいたドリンクとお通しをそれぞれの前に置いた。お土産と同じ向日葵の種が、小さな皿に乗せられている。こうして殻を剥かれた状態の物を見るのは初めてだが、なかなかうまそうだ。
頭に浮かんだ感想をそのまま店主に伝えると、彼はどこか誇らしげに、
「ぜひご賞味ください。当店で取り扱っているロシアヒマワリの種は母国から仕入れている物ですので、本場の味をご堪能いただけるはずです。もし気に入りましたら、お土産もございますよ」
さっそく「賞味」させてもらうことにした。カリカリとした食感が小気味よく、井岡も言っていたとおりちょうどいい塩加減だ。呑兵衛であれば、酒のツマミとして重宝するだろう。
それにしても、ロシアヒマワリなどと言うストレートなネーミングの品種があるだなんて、知らなかった。今回の事件に謂わゆる「国名シリーズ」風の名前を付けるとしたら、『ロシア向日葵の種の謎』になるのか……いや、それだと少し長ったらしいから、省略して『ロシア向日葵の謎』はどうだろう?──うん、この方がシックリ来る。
などとくだらないことを考えつつ、生ビールに口を付けた。思ったとおり、よく合う。
「そう言えば、あの日も日向さんは、向日葵の種を持ち帰っておられましたね」
「と言うことは、日向さんは殺害された当日の夜だけではなく、その二日前にもお土産を持ち帰っていたわけですか……」
「そうなりますね。しかし、現場に残されていた袋は一つだけだったようですから、そちらはお二人で食べてしまったのだと思います」
その瞬間、普段は生気のない緋村の黒眼の奥に、一抹の光が宿るのを感じた。彼が瞳を輝かせるのは、何か推理の手がかりを発見した時か、知的好奇心を刺激する事物と出逢った時くらいしかない。そして、この場合はおそらく、前者だろう。
「何か閃いたのか?」
口に含んでいた種を飲み下しつつ、声を潜めて尋ねる──が、返答はない。代わりに彼は煙草を揉み消すと、すぐさま新しい物を口に咥え、火を点けた。いつ見ても不健康な喫み方だ。
「冷清水さんは、向日葵の種が苦手だそうですね」
「苦手と言うか、好き好んで食べる気にはならへんだけです。食べてみたら、案外みなさんみたいにハマってまうかも知れません。……実は私、昔友達の飼っていたハムスターに噛まれて以来、ハムスターが怖くって。だから、向日葵の種は、謂わば『天敵の餌』なんですよ」
「トラウマになるのも仕方のないことだと思います。ハムスターなど、げっ歯類の唾液に含まれる成分は、アナフィラキシーショックを引き起こす可能性がありますから」
何気なく放たれたこの言葉に、冷清水さんは驚いた様子だった。
「獣医の方以外で、初めて共感してもらえました。よくご存知でしたね」
彼女なりに理由があって、向日葵の種を忌避していたと言うことか。そもそも、冷清水さんがハムスターを怖れるようになったのは、噛まれたこと自体よりも、この知識が原因だったと言う。
「事件当夜、鞠井さん以外のみなさんは、全員《HIMAWARI》に来店されていたと伺いました。確か、最初に日向さんが、向日葵の種をもらいに来たんでしたね」
緋村が話題を変える。事件当夜の各人の行動をおさらいすると、次のようになる。
まず、十九時過ぎに、被害者である日向さんが店に立ち寄り、向日葵の種を持ち帰る。現場に残されていたのは、この時の物だろう。
続いて二十時半頃に、中利さんが来店。近くまで足を運んだついでだったと言う彼は、種をもらい、すぐに店を出た。
それから約三十分後に、今度は番字さんが現れる。彼女が一人で呑んでいたところへ冷清水さん来店し、それから二人は一時間ほど、共に酒を酌み交わした。
そして、二十二時になって番字さんが帰宅したあと、冷清水さんは閉店間際まで、一人でバーに残っていたそうだ。
本当に彼らの中に犯人がいるとすれば、それぞれ犯行の前か後に、この店を訪れていたことになる。
「でも、中利さんも惜しかったわね。奥様が体調を崩さんかったら、アリバイができたかも知れへんのに」
「そうですね。あの日、中利さんがお見えになった時は、私も驚きましたよ。ちょうど、同窓会があると伺った時間でしたので」
マスターが合いの手を入れた瞬間、緋村の表情に不思議な変化が現れた。何故か眉皺を刻み込んだ彼は、まるで糾弾するようなスルドい語調で、二人にこう尋ねる。
「もしかして、みなさんは事前に知っていたんですか? 中利さんが同窓会に出席する予定だったことを」
「え、ええ。事件の前の日に、みんながおる前で仰っていましたから」
昨夜、井岡に事件前日の時のことを尋ねられた際、番字さんは「鞠井さんたちの予定も、その時に聞いたんですよ」と答えたんだったか。この言葉は、「鞠井さんの野球観戦と中利さんの同窓会」を指していたのだろう。
冷清水さんの回答を聞いた緋村は、いっそう瞳の奥を輝かせた。かと思うと、たった一言、
「そうだったんですね……」
呟いたきり黙り込んでしまった彼を見て、誰もが戸惑う。
「どないしたん? 緋村くん。……もしかして、犯人がわかったとか?」
ややあって井岡が問いかけると、彼は目玉だけを動かして友人の姿を見返した。かと思うと、その口許には謎な笑みが浮かぶ。
緋村は井岡の問いには答えずに、
「マスターに伺います。事件のあった日、中利さんが来店されたことを、どなたかに話しましたか?」
「え? いいえ、私の口から誰にもお伝えしておりませんよ。『みなさんに予定を話していた手前、キャンセルになったと知られるのは少々気不味いから』と、中利さんに口止めされましたので」
「なるほど、だからなのか……」
何事か合点のいった様子だが、見ている側からすれば、もどかしいことこの上ない。一人で納得していないで、何かわかったのであれば、さっさと教えてくれてもいいだろう。そう思っていると、井岡が全く同じことを口にする。
「なあ、何かわかったんやったら、早よ教えてや。なんで無視するん?」
「無視なんてしてねえさ。たった今、解けたんだよ」会心の笑みと共に答えると、不意にこちらへ視線を移し、「ところで、お前メモとペンは持って来ているか?」
何故かそんなことを訊く。一応、その二つは常に持ち歩くようにしていた。今年の夏以来、身に付いた習慣である。
「持って来てはいるんだな? なら、少し貸してくれ」
言われるがまま、僕はボディバッグからメモ帳とポールペンを取り出し、彼に渡してやった。
何をするつもりなのかと見守っていると、緋村は空白のページを一枚破り取り、そこに何事か認め始める。
「緋村くんは、何を書いとるんや?」
「さあ?」
渋沢さんと井岡がそんなやり取りを交わしている間に、ペンを置いた緋村は、メモ帳のページを丁重に折り畳み、カウンターの上を滑らせた。
それは、ちょうど井岡の目の前で動きを止める。
「一つ予言するよ。そこに名前を書いた人物が、近日中に逮捕される。その人が、犯人だ」
その言葉を聞き、緋村以外の全員が、同時にその四つ折りの紙切れを覗き込んだ。彼の様子からして、確信を得たからこその行動なのだろうが……それでも俄かには信じ難い。
まだ店に入って三十分ほとしか経っていないのに、もう謎が解けてしまっただなんて……。
しかしながら、緋村の予言は見事に的中することとなる。
翌る日の朝、彼が紙に名前を書いた人物が、逮捕されたのだ。
ここまでが問題編となります。