1:サーヴィスですから
二〇一八年十月七日。
「へえ、ホンマにバーなんてあったんやね」
その店の前に立ち、井岡礼は半ば感心したように声を漏らした。建物自体は年季の入った平屋建てで、コンビニの店舗として使われていそうな佇まいである。
しかし、ドアに嵌め込まれた磨りガラスには《Bar HIMAWARI》と言う店名が浮かんでおり、その向こうからは、暖かなオレンジ色の照明が、淡く透過していた。
「二年くらい前にできたばかりらしい。俺もまだ、今日で三回目やけどな」
井岡のボーイフレンドである渋沢寿志が応じる。彼女を《HIMAWARI》に誘ったのは、渋沢だった。二人の通う阪南芸術大学の近くに小洒落たバーがあり、サークルのOBとやらに連れ行ってもらったと言う話は、以前から彼に聞かされていた。そして、いずれ一緒に呑みに行かないか、とも。あまり酒の強い方ではない彼女は気が進まなかったのだが、「面白い物が見られるから」と言う彼の言葉に興味を惹かれ、とうとう折れることになったのだ。
「ソフトドリンクもあるし、無理して呑まんでもええからな?」
「うん。でも、なんか緊張するわ。こう言うところに来るの、初めてやから」
「大丈夫やって。別にぼったくれるわけやないし。それに、マスターも気さくなええ人やから。──ちょっと見た目はイカツいけどな」
彼が小声で付け加えた言葉の意味は、入店してすぐにわかった。
渋沢の先導で店に入ると、店内にはすでに五人の男女がいた。全員顔見知りなのか、同じテーブルに集まっており、何やら難しい表情で話し合いをしていた様子だ──が、二人が入って来たことで、ピタリとそれをやめ、一斉に戸口を振り返った。
その内の一人──筋骨隆々の白人の男が、涼しげな笑みを浮かべ、「いらっしゃいませ」と二人を迎える。秋口だと言うのにグレーのノースリーブを着ているのは、鍛え上げられた筋肉を見せびらかす為としか思えない。スキニータイプと言うわけでもないだろうに、太い脚にピッチリと張り付いたジーンズや、分厚い胸板の上に乗ったドッグタグなど、一見して酒場でオフを楽しむ海外の兵士のようだ。
が、先ほどの挨拶からして、彼がこの店の主なのだろう。本当に「イカツい」マスターに歓迎され、井岡は少なからず面食らう。
「おや、今日はお連れ様もご一緒ですか。素敵なガールフレンドですね。どうぞ、カウンター席におかけください」
マスターは渋沢のことを覚えていた。
二人は言われるがままカウンターへと向かい、店主も本来のポジションに着く。
その際、渋沢は四人がけのテーブルを囲う客の一人へ挨拶をした。
「お疲れ様です、鞠井さん」
鞠井と呼ばれた男はヒラリと右手を上げてそれに応じた。
「お疲れ。もしかして、その娘が井岡さん? とうとう連れて来たんやな」
「ええ、どうにか説得できました」大袈裟な言い方だ。「こちら、うちのサークルのOBの鞠井さん。二年前の卒業生や」
「どうも」と言う簡潔な挨拶に、井岡は会釈して返す。細面に黒縁の眼鏡をかけており、サッパリとした短髪が好もしい。やり手のビジネスマンと言う印象を勝手に抱く。
続いて、渋沢は彼女のことを先輩に紹介した。
「確か、イッコ下なんやっけ? 井岡さんも写真学科なん?」
「いえ、美術です。美術学科のアートデザインコースに所属してます」
と、自分で答えた。ちなみに、渋沢は写真学科の三回生だ。
「ところで、みなさん何か相談でもされていたんですか? 同じテーブルに座っとるなんて、珍しい」
「ああ、ちょっと、な……。それよか、渋沢くんこそ知らんのか? 日向さんのこと」
日向と言うのは、ここにはいない常連客の名前らしい。渋沢も面識があるようで、
「日向さんがどうかしはったんですか?」
「ああ。実はな──殺されてもうたんや。一昨日の夜に」
「殺された? ホンマですか?」
「冗談でこんなこと言うわけないやろ。ニュースでもやっていたと思うんやけど、観てへんようやな」
渋沢は普段からあまりテレビを観る習慣がなかったし、新聞も取ってはいなかった。だから、全く日向の訃報を知らずにいたのだが、井岡には心当たりがあった。
「私、そう言えばテレビで観ました。確か昨日、T町にある家で一人暮らしをしていた女性が、誰かに殺されとるのが発見されたって。その人のことなんですか?」
「そう。昨日の午前中に遺体が見付かってな。ここにいる全員、警察の訪問を受けたわ。生まれて初めての経験やったで。指紋まで取られたし」
殺害された日向の交友関係は非常に狭かったと言う。ここ数年で最も親しかったのは、第一発見者を覗くと、今同じテーブルを囲っている四人と、この店のマスターくらいなのだとか。加えて現場の状況から、顔見知りの犯行である可能性が極めて高いらしいことが、このあとすぐにわかった。
「その話をする前に、注文くらいさせてあげたら?」
常連客の一人が、窘めるような口調で鞠井に言った。
「確かに、冷清水さんの言うとおりですね。と言うか、すまんな。デート中やのに物騒な話してもうて」
彼女は冷清水と言う名前らしい。見たところ、年齢は鞠井よりも少し上のようだ。長く艶やかな髪を肩へと垂らしており、若干三白眼気味ではあるが、概ね美人顔である。
渋沢は瓶ビールを、井岡はジンジャエールをオーダーした。注文を終えると、二人は椅子を回転させて体の向きを変え、事件の概説を教えてもらった。
まずは、死体発見に至った経緯について。第一発見者は隣家に住まう高齢の女性であり、彼女は昨日──六日の午前九時頃、旅行のお土産を渡す為に、日向の家を訪れたのだと言う。
隣人が呼び鈴は鳴らし声をかけたが、中からは何の反応もない。出かけているのかとも思ったが、庭にある簡素なガレージには、車が停まったままだ。訝しんだ彼女が玄関の戸に手をかけると、それは難なく開いた。
「その人、日向さんが急病か何かで倒れてもうてるんやないかって心配になって、勝手に中に上がったらしい。なんでも、去年亡くなった日向さんのお母さんも、家の中で倒れとったそうでな。そん時はもう少し早く発見されていたら、一命を取り留めたかも知れん状況やった。せやから、同じ轍を踏まんよう、念の為確かめてみることにしたんやと」
が、その甲斐も虚しく、隣人がリビングのカーペットの上に横たわる日向を発見した時には、彼女はとうにこと切れていた。それもそのはずで、犯行が成されたのは、前日の夜だったのだ。
「日向さんは、強盗にでも遭ったんですか? 家に忍び込んだ泥棒と運悪く鉢合わせてもうたとか?」
「いや、どうもそう言うわけやないみたいなんや」
後輩の問いに先輩が応じる。
「ゴミ箱が倒れとったり、机の上にあったはずのモンが床に落ちていたりと、室内は多少荒らされとったらしい。にもかかわらず、金や通帳の類いは手付かずやったそうや。──それどころか、事件当時誰かと呑んどったような形跡が、幾つか見つかったって言うてたわ」
具体的には、現場となったリビングのカーペットの上には、ゴミ箱の中身に混ざり、ツマミ類と開栓されたワインボトル、そしてグラスが一つ転がっていたと言う。これだけならば、一人で晩酌していたとも考えられるのだが、キッチンの食器置きの中に、そのグラスと同じデザインの物が、まだ水滴の乾かない状態で発見された。シンクにも使われた形跡があり、誰かがこのグラスを洗ったことは自明である。つまり、犯人は犯行の直前まで、リビングで日向と共にワインを飲んでいたと、警察は考えているようだ。
また、凶器は元々リビングにあった灰皿であり、遺体の前頭部に傷があることから、事件当日犯人はテーブルを挟み、被害者と向かい合っていたと考えられる。こうした状況を鑑みても、ごく身近な人物の犯行である可能性は極めて高い。
「つまり、私たち五人は容疑者となってしまったわけですね。日向さん、他にお友達はいらっしゃらない様子でしたから」
冷清水の隣りに座っていた小肥りの男が、苦々しげな笑みと共に言った。故人の交友関係が狭かったせいで、ボヤいている風でもあるし、単に痛くもない腹を探られて閉口しているだけにも見える。
「中利さんも、警察の事情聴取を受けはったんですね?」
渋沢が尋ねると、中利と呼ばれた男は猪首を竦めるようにして頷いた。
「ええ。一昨日の夜──二十時から二十三時までの間、どこで何しとったんやってね。アリバイがあるんか疑うてるわけですよ」
「じゃあ、その時間が、謂わゆる死亡推定時刻って奴なんですか」
「みたいですねぇ」
寄りにも寄って、と言いたげに中利は首肯する。どうやら、彼には確固たるアリバイはないらしい。
ちなみに、死体の第一発見者である隣人は、日向家を訪ねる直前に帰宅しており、死亡推定時刻には、まだ和歌山県は白浜の温泉宿に泊まっていたそうだ。同行した息子夫婦はもちろん、旅館の従業員たちからの証言も問題なく得られていると言う。
つまり、彼女は容疑者の頭数には入らない──と言ったところで、中利の証言に戻る。
「生憎、私は予定がキャンセルになってもうて、二十時半頃にこの店に寄った以外は、ずっと家におりましたよ」
聞くと、元々その時間は同窓会に参加しているはずだったのだが、妻が体調を崩してしまったことで、急遽参加を断り、一日中彼女の看病や家事をして過ごしていたそうだ。ただ、夜になる頃には妻の具合もだいぶよくなっていた為、付近のコンビニに買い物に行ったついでに、少し《HIMAWARI》に立ち寄ったらしい。
「すぐに帰ったので、大したアリバイにはならへんでしょうね。警察の人たちは、妻にも確認を取ってましたけど……まあ、どうせ身内の証言は信用されへんやろなぁ。どのみちあいつはほとんど自室で休んどったから、一人でおったようなもんやし」
「あの、どうして《HIMAWARI》に立ち寄られたんですか?」
井岡は疑問に感じたことを素直に口にした。元来人見知りとは無縁のタイプである為、彼らの会話に加わるのも苦ではない。この事件に対し、すでに野次馬的興味を抱いていたのだから、尚のことだ。
「いやぁ、大した理由はなかったんですけどね。近くまで来たついでに、種を貰って行こうと思って」
「種?」
いったいバーで何の種をもらうと言うのだろう? 井岡が思わず小首を傾げたところで、頼んでいたドリンクが出される。
「お待たせ致しました、瓶ビールとジンジャエールです。それからこちら、お通しになります」
流暢な日本語と共に二人の前に置かれた小皿には、ナッツのような楕円形の種子が盛られていた。見たところ味付けは塩のみであるらしく、ホンノリと漂う香りが鼻腔をくすぐる。
「もしかして、今仰っていたのって、これのことですか?」
「そうです。実はそれ、向日葵の種なんですよ」
中利が教えてくれる。
意外な正体を知り、井岡は改めて小皿の中を見下ろした。
「へえ……向日葵の種って、人間が食べても大丈夫なんですね。知りませんでした」
「やっぱり、最初はちょっと抵抗がありますよね。けど、ちゃんと食べても平気なんすよ。それどころか、一度つまみ出すとなかなか止まらんくなるくらい美味しいんです」
常連客の最後の一人が、口許に手を当てて上品に笑いながら、教えてくれた。
「ロシアではポピュラーな食べ物なんですよね?」と、彼女はマスターに振る。
「番字さんの仰るとおりです。向日葵はロシアの国花であるだけではなく、その種は、昔から庶民のおやつとして親しまれて来たんですよ。こんな風にローストすればおツマミに最適ですし、生で食べることもできます。生の方が栄養価を損なわずに済むので、健康志向の人ならそちらがオススメですね。──当店では基本的に予め殻を剥いてあるタイプをお出ししておりますが、殻付きの物も市販されておりまして、こう、先端をうまく歯で挟んで、殻を剥くんですよ。メジャーリーガーなんかが、よく試合中に何かを食べて、吐き出していたりするでしょう? あれは実は向日葵の種で、吐き出しているのは殻なんです」
「はあ、そうなんですね。初めて知りました。──ところで、さっきも思いましたけど、日本語お上手ですね」
「ありがとうございます。実はこう見えて日本は長いんですよ。もちろん、猛勉強しましたけどね」
それから渋沢が摘むのを見てから、井岡も一粒手に取って口に運ぶ。ポリポリと小気味よい食感がし、塩加減もいい非常に按配だ。飽きの来ないであろう味付けであり、ロシア人がハマるのも無理はないな──などと、勝手に異国文化を理解した気になる。
「うまいやろ?」と言うボーイフレンドの声に頷き返しつつ、井岡はすぐに二口目を──今度は三粒ほど──掴んで口に放り込んだ。
「気に入ったんなら、お土産に持って帰ろか。あれ」
渋沢が顎で示した先──カウンターの隅に置かれていたバスケットの中に、リボンで封をされた小さな袋が、幾つか入れられていた。袋の中身は、当然今出されたお通しと同じ、ローストされた種だ。
「Take free」と書かれたポップが貼り付けられていることから、無料で持ち帰ることができるのだろう。事件当夜、中利がもらって行ったのも、あの小袋に入ったお土産だと言う。
「でも、あまり食べ過ぎない方がええですよ。高カロリーやから、油断すると中利さんみたいになってまうかも」
番字が茶化す。名前を挙げられた中利は、「僕の体型は昔からですよ。向日葵の種に罪はありません」と、微苦笑と共に切り返していた。常連同士の仲は良好のようだ──少なくとも、井岡にはそう見えた。
「みんな、スッカリハマっているのね。正直理解できひんわ。そんな物を食べるなんて」
にべもなく言い、冷清水は煙草を咥えた。メンソールタイプのメビウスに、慣れた手付きで火を点ける。井岡は三度伸ばしかけた手を、思わず引っ込めた。
「そう言えば、この中で冷清水さんだけは食べはりませんもんね」鞠井が思い出したように言う。「でも、どうしてそんなにお嫌いなんですか?」
「別に、嫌いってほどやないわ。ただ、向日葵の種って、どうしても『ハムスターの餌』って言うイメージがあるでしょ? 私、昔友達の飼っていたハムスターに指を噛まれたことがあるんやけど、それ以来どうも苦手なのよ。ハムスター。だから、天敵の主食を、好き好んで食べたないってわけ」
「ああ、それで。でも、それやのによく頻繁に通えますね」
「まあ、単純に好きやからね。このお店の雰囲気とか、マスターの人柄が。──何より、面白いショーが見られるし」
そう言えば、渋沢も同じようなことを言っていたか。ジンジャエールに口を付けつつ、井岡は思い出す。いったいどう言ったショーなのだろう?
「鞠井くんや渋沢くんだって、それは一緒でしょう?」
冷清水の言葉を聞いて、井岡にもなんとなく予想が付いた。二人の共通点と言えば、何を置いてもまずサークルである。そして、彼らが在籍している──あるいはしていたのは──、学内でも珍しい手品サークルだった。
「ご好評のようで何よりです。では、さっそく一つご覧に入れましょう」
カウンターに向き直ったマスターの手には、いつの間に取り出したものかトランプの束が握られていた。彼の手が大きい為、ミニチュアじみて見える。
「ええんですか?」井岡が尋ねると、
「もちろん。サーヴィスですから」
そう答えつつ、店主は華麗な手捌きでカードをシャッフルし始めた。