老木の怪
一
故郷の外れの高台にぽつんと立つ楠木がありました。とても大きなそれの根元には、人が一人寄りかかるには手頃な窪みがあって、小さな私には少しだけ大きいのだけれど、柔らかい土とごつごつした樹皮の寝具は、そんな私の体を容赦なく包み込んでくれ、昼下がりの穏やかさや澄んだ空気、幹の高いところにおります小鳥の唄う声が、私を心地よい眠りへと誘ってくれるのです。
ふと梢の先を透かして見ますと、間を縫うようにキラキラとした陽の光が降り注いで来ました。
葉の色や葉脈の一筋すらも私には神々しく、荘厳なものに感ぜられたのです。
この時だけは色んなしがらみを忘れて、自由になることができるのでした。心地よく、柔和な時間。こんな幸せな時間がいつまでも、ずっと続けばいいのに……。そのように思っても、やっぱり現実は鎌首をもたげて私の首筋を狙い澄ましているのです。
私の村は辺境でありましたので、人の往来は多くなく、四方に遠く見えます山脈の波打つ稜線が、村を取り囲むようにどこまでもどこまでも続いていました。
その中でも一際大きい峰は、古から霊験あらたかな聖地として、私の村で崇め奉られておりました。お爺さまが仰られるには天地を和合し、円環に乗じて人々を救ってくださる……と。その、一際大きい峰に異変があったのは、私が件の通り楠木の根元でのひとときを興じていた、そんな折のことでした。
淡く輝く山吹色の光が峰を包んだかと思うと、輪のように広がり、瞬く間に私の居ります所までやってきました。
痛いわけでも体に異常をきたしたわけでもありませんでしたが、何か柔らかいモノが通り抜ける感覚、とでも言いましょうか、私を素っ裸に致しまして、私の血や骨や髪の毛一本、ハラワタの中身に至るまで全てを見透かされたような……と言ってしまえば大仰でありましょうが、しかしそんな摩訶不思議な光であったのです。
私はあまりの光景に欣喜雀躍していました。嬉しくて堪りませんでした。
先程、霊峰として祀り奉られていると言いましたが、あれは間違いで、みんな新しくやってきた神様の方ばかりを見ていて、教会なども綺麗な石造りの立派なものが村の中央に建てられておりました。そんな調子ですから、霊峰への信仰だとか、敬意といった心持ちが薄くぼんやりとしたものに移り変わってしまい、村の外れのお社に必ず、いつも誰かがお供えをしていたお酒も、最近ではすっかり見なくなっていたのです。
お爺さまは亡くなられる少し前にこう言っていました。
「お前だけは敬虔なままでいてほしい。あの方は大層気難しいから、信仰の減っているのをお許しにはならないだろう」
その時はお爺さまの仰っている意味が理解できませんでしたが、事ここに至ってなんとなくではありますが、掴むことができたように思います。
それから少し経った頃でしょうか、王都から派遣されてきたと言う冒険者の面々が列をなしてやって参りました。
教会の神父様がお呼びになったようで、長と思われる数人の方達と村の中央広場で以って議論しているのが、遠目に認められました。皆が皆勇ましく、強かな様の容貌で、村の若い……と言っても私よりも年上ではありますが……娘たちが矢も盾もたまらず彼らに擦り寄っていくを村の男衆の影に隠れて観ていると、神父様が突然嗄れた怒鳴り声を上げたのです。
「そんなはずはないっ! あの峰には邪な魔物の巣だ。何も調べもしないで分かるものかっ! これだから陛下に媚を売る王立ギルドなんぞに依頼したくなかったのだ。領主様は一体何を考えておられるのか……。ふんっ! 帰れ帰れ、余所者はお呼びでないわ」
それを皮切りに取り巻く周囲の人たちが喧々轟々と騒ぎ立て、事態は収拾がつかないほどに荒れて喧騒は凄まじく、私は堪らずその場から逃げ出してしまいました。
憤怒のこもった醜悪な顔をした村の皆を見たくないというのは、その、もちろん理由としては挙げられるのですが、それよりも私の心を乱したのは冒険者の長で、筋骨隆々な彼らの中でも一番の巨躯を持ち、そうして、並々ならぬ胆力の一端が透けて見えるのです。
ただもう、恐いという気持ちがごさいました。状況に不釣り合いな心情をうまく捉えることができず、私の胸の鼓動は高鳴って止まらずに、お爺さまの居なくなって一人きりの我が家に閉じこもり、戸に錠をかけ、その日は眠りました。
私は村の方々からよく思われていないようで、会話に入れてもらえないことが殆どであるので、情報は専ら彼らの囲って話す世間話を盗み聞いて仕入れておりました。だから、断片的なことしか分かりませんでしたが、それでも村の話題は今、妖しく光った霊峰と王都からやってきた冒険者のことで持ちきりで、半ば部外者の私にも容易に知ることができたのです。
王立ギルドは冒険者の集まりだけれども、王様の認可を受けた正式な組織であり、立場的には憲兵と同等の扱いを受けているとのことで、非常に羽振りがよく、嫌味たらしいのを除けば結構な良客だと、皆口を揃えて言っておりました。
中でも長の男の評判はすこぶる良く、娘たちの人気もほぼ彼に収束していました。
「必ず異変を解決してみせるって約束してくれたのよぉ。お酌した時に酔った振りして抱きついたらもう凄くて凄くて……。逞しいのなんの。脱いだらもっと凄いわアレは、うん」
「おめえの亭主がそれ聞いたら悲しむぜ。まあ、確かにいい男だけどさあ」
「だろぉ? あんな痩せっぽちのダメ亭主なんてもう知らないわ。私の勇者は彼だけよ」
「節操ねえ女だ……っても村の女は皆ヤツにほの字だろうがな」
凡その状況が理解できたところで、私はお社に向かいました。お酒は村の人が分けてくれないので、家にあるものを少しずつ持っていってはお供えしていたのですが、それも昨日で尽き、今日は私の食事のパンを代わりにお供えするつもりで持ってきているのでした。
お社にパンを置き、跪いて両の手を合わし、祈りを捧げる。祈りが終わると私はいつもの楠木のそばまでやってきました。喧騒に惑わされない私の聖域。しかし、そこには先客が居たのです。
彼は立ち尽くしている私を認めるとこう言いました。
「待っていたよ。こんな場所でなきゃゆっくり話もできないのは何とも難儀な。私はヨキ……えっと」
「……アリン」
「アリンか。こっちへおいで。話をしよう」
紛れもない冒険者の長だった。彼が私を訪ねてやってきたのがどうにも恐ろしく、二の句を言えずにいると、彼はその場にどっと座り込んで、髭を蓄えた耳の付け根から顎にかけての周りを何度も撫でるようにし、そうして、柔和な語調でもって続けた。
「君のお爺さまには昔から大変お世話になってね。風の噂で鬼籍に入られたと知った時は愕然としたが、まだ幼い孫娘が居られると聞いて、会うのを楽しみにしていたのだ。それが、来てみれば村の衆は揃いも揃って知らぬ存ぜぬと突き通すばかり。これでは一向に埒が明かないとみて、お爺さまがいつかお仰られていた村外れの楠の巨木の話を思い出し、それならばと案内されて来たのがここだったのだ」
彼からお爺さまの話題が出たことで彼に対する幾分か得体の知れない恐怖は取り除かれ、私の足は自然と彼のもとに動いていました。
「お爺さまは何と?」
「この楠木には精霊が宿って居られて、眼下の村を護ってくださっている。孫娘……君のことだが、アレは精霊に気に入られているから、偶に呼ばれては居なくなって、あちこち探すが見つからず、もしやと木の根元を覗くと安らかな顔して寝ているのだ……と」
彼の言う精霊云々は初耳でした。ですが、思い返せばなるほどそういう節がないわけではなく、私は合点がいき率直な気持ちで彼に感謝を述べました。
「構わないよ。それよりも君を見込んで話がある。頼まれてくれるかね?」
三十を少し過ぎたばかりかと想定される青年の、その真摯な姿勢に、私はすっと首肯してしまったのです。そして、彼の頼み事というのはこのようなものでありました。
ーー明後日、私たちギルド衆は半数を残して峰に向かい出立する。それに伴い補給のための荷車も後に続いて同行するのだが、その中に紛れてついて来てほしい。というのも、あの峰には実のところ魔物など住んで居らず、頂に小さな社の一つあるだけで他には何もない。にも関わらず、村の衆が魔物だ怪異だと騒ぐのには訳があるのだろう。
お爺さまは言及はしなかったが、あそこには太古の竜が眠って居られるようなのだ。言外に含んだ言い回しではあったけれども……。精霊に好かれる君だから……いや、君にこそ頼みたいのだーー。
而して私は一つの条件付きで彼の切実な願いを聞き入れました。
それは……。
「お酒? 構わないが、まさか君が呑むわけではないのだろう? ……あぁ、供物というわけか。君は優しい御子のようだな」
二
布の被せられた荷車の中は蒸し暑くて、じっとりと汗が顔から腕から留まることなく溢れて来ました。
王立ギルドを率いてやって来た青年、ヨキ様たってのご依頼で竜が眠り奉られるお社が頂にあるという峰に向かっている最中のことです。
朝一番で井戸から汲み上げたお水を入れた水筒も気がつけばカランと音が鳴るばかりで、水の一滴も出てはくれません。加えて腹ごしらえなどできるはずもありませんから、お腹の虫を堪え身悶えする内に随分と時間が過ぎていたのでしょう、布越しにもそう思えるほど、辺りは暗くしんと静まり返っておりました。
ごつごつとした岩肌と散在する石の隘路を進むことによる強烈な振動も今はなく、ゆったりと木箱と木箱の小さな隙間に入っては横になって、荒い木目と少し黴びた匂いを感じながら寝ておりました。
どれくらい経った頃でしょうか、周囲が一気に響めき、緊張して震えた男たちの声と、踏み鳴らす靴の音とが合わさって不気味に感ぜられ、私は頭を押さえて丸くなりました。
いくつかの怒号と丁々発止。次いで咀嚼音が塞がれた私の耳にも入ってきました。
ここに私たち以外の何者かがいて、私たちを襲っていることだけは理解できました。でも、冒険者の方々は皆屈強そうで、負けてしまうとも思えませんでした。
しかし、問題はそこではありません。今お腹の虫がなってしまったらと考えると、戦慄を覚えずにはいられなかったのです。結果的にそれには至らず、寧ろお腹が満たされていく気さえして、安堵したのをよく記憶しております。
私が次に起きた時、もう既に日は昇っていて出発していてもよさそうなのに、相変わらず周囲は静かで車も揺れておらず、一体どうしたのかと恐る恐る掛けられた布の隙間から辺りの様子を窺うと、そこには食い散らかされた冒険者の方々が居られました。
もちろん、もう生きてはいません。中身が飛び出して赤黒い血痕が岩肌を覆わんばかりに広がっていました。
私は悲鳴も上げられず、恐ろしくて口もきけないので助けも呼べずに、静まりかえった山肌を一人歩きました。
野盗か獣か、耳を塞いでいた私には判別できませんが、せめて安らかに彼らが逝けるようにと、その顔を一人一人見つつ祈りを捧げることにしました。無惨な死に方をしてさぞ痛かったことだろう、志半ばで果てるのは無念だろうと、名前も話したこともない若者の死を悼み、送りました。
しかし、何十という亡骸の中に彼はいませんでした。
ヨキ様。
彼は無事でいるのでしょうか。
縦しんば顔の造型が崩れていたり喰われていたとしても、彼の青みがかった甲冑は特徴的で、それだけで彼とわかる代物であるので、私はそんな一筋の光を頼りに探し回りました。
探している内に、私はいつの間にか山の頂近くにまで来ていたようでこざいました。こんな所まで来たのは昔お爺さまに連れられて以来で、懐かしいやら寂しいやらの撹拌された不安定な気持ちが、私を乱して止みませんでした。
ある程度歩くと道と呼べるような平坦なところは限りなく急峻な山肌へと移り変わり、涅色のそれは人の闖入を拒むかの如くで、私も登頂するには相当の苦労がありました。それでも漸くお社のある頂まで辿り着くことができ、私は喜びに狂喜乱舞致しました。
「無邪気な。こういうところは矢張り子供なのだな」
それは聞き覚えのある声でした。
「ヨキ様、こんなところにいらしたのですね、お探し申し上げました」
「それは悪かったな。何せ部隊は私以外全滅。結構な手練れを連れてきていたつもりだったのだが、詰めが甘かったみたいだ」
私は悲惨な殺戮現場の様子の仔細を包み隠さずヨキ様に教えました。無念にも死んでいった仲間たちの最期を知りたいのではないかしら、と彼を慮ってのことでしたが、何やら彼は打ち震えておられて、私は疑問に思ってこう聞いたのです。
「ヨキ様はなんで泣いておられるのですか?」
落涙した滴が頬を伝って涅色の地面を濡らしました。ただ静かに咽ぶでもなくただ静かにーー。
「ハーベルトは子煩悩でな、曲がりなりにも憲兵隊に入れたことを自慢できると喜んでいた。キースは王都の酒場の女に惚れていて、帰ったら婚約を申し込むと言っていた。ランディは一応良家の出身でな、厳格な父の期待に応えたいとこのギルドの門を叩いた。それから、アンドスは……」
ヨキ様は落涙されてはおられましたが、言葉に詰まることなく、死んでいった部下を偲んでいるご様子でした。
「ヨキ様、どうか哀しまないで下さい。彼らへの祈りは私が済ませました。きっと極楽へ行けることでしょう」
「……そう、か。ありがとう。あの者たちも報われる事だろう。アリン。いや、楠木の精……とでも呼べばいいか?」
「私は……私はこの子の意思を継いだのです。お爺さまは端の方で垂れていた楠木の梢を折ると、私を作って下さいました。梢を根元に眠るアリンの墓標にそっと置いて魔力を込めたのです。それは、温かく優しい鬱金色をしておりました」
幼くし鬼籍に入ったアリンと成り変わった私は、日に日に弱っていくお爺さまの日頃のお世話をすることに尽力致しました。それが、お爺さまにできるせめてものお礼に他ならないのです。
「大魔術師であらせられた、あの方の忘形見というわけだな」
「あの……」
「何だ? ああ、このまま付いてきても構わないかということだろう? 勿論だ。いや、寧ろ君が居なくてはならないのだ。……だから連れてきた」
曰く、この霊峰に眠られる竜は地脈を伝って大地に実りを与え、土地を豊かにし、古くから人々と共にありました。それが崩れたのは教会が力を持ってからのことだと言います。
竜は恵みをただ享受するだけの人間に嫌気がさしていたのです。しかし、峰のお社に供物のある内は何もしないと決めており、それはお爺さまの亡くなられるまで続きました。
「でも、もう遅いーー」
きっとこの地はこれから荒れるだろう。そうヨキ様は付け加えました。作物は採れず、凶暴な獣や魔物の類いが町々や村々を襲い、多くの血が流れ人が沢山死ぬ。
それは覆すことのできない業だーー。
「失望したかい? 人間に」
「いえ、私は知っていますから。お爺さまやヨキ様のような方がおられることを」
頂のお社は荘厳で見上げるほどの高さの立派なものでございました。中はがらんどうで寂しかったのですが、最奥部に祀られた御神体とその手前のお供え物が綺麗に並べられておりました。
私がヨキ様の方を見ると、破顔なされたので、私も真似して破顔致しましたーー。
主人公が王都の魔術学校で無双する話の導入をエピローグで書こうとしたけど蛇足っぽいから中断しました。