詩に置いて 空洞
BWV 826 - Partita >>2 in C Minor
を 聴きながら
**
詩……、こちらの場所に来られる方々は、それぞれ、詩というものに対して枠組みを持ってらっしゃるのでしょう。真摯で誠実そうなお言葉を頂いて、ぼくは、頭の下がる思いです。……ぼくは、ぼくの詩というもののの枠組みをもし、この場で語ってもよいと許されるのならば、ぼくは、ぼくの詩の枠組みをそのまま、形の無いものとして、捉えています。ぼくの心にはまだ器としての形がない。まさに空洞です。ぼくには、感情は備わっているけれども、人間的には空洞です。……それなのに、ぼくは、物にもなりきれず、息を止めることもかなわない。動物になることも出来ず、半端なそれ であるぼくは、ぼくの心の枠組みを空洞と置きます。はじめからなにもない空洞の心から、果たして何が生まれるでしょう、ぼくは、それを密やかな楽しみとしています。それは暗い楽しみかもしれませんが、それ が空洞の心からぱ、っと生まれ落ちるとき、こぼれ落ちるとき、にじみ出るとき、ぼくは、なんともいえない喜びに浸るのです。それは、暗い喜びです、
それが、ぼくの詩的興奮であり、その瞬間を得たいが為にぼくは、にじみ落ちるそれをこぼれ落ちるそれをひとしずくも残さずにそこに記録したくなる。それは、ぼくの心のなかに何も無いから、空洞であるからこそ、満たされないものを埋めようとする行為ににている。だからそれは暗い楽しみであり、喜びです。
ぼくにとっての詩的興奮を思う、詩が生まれ落ちるときの喜びや感動は、それら感情から刺激を受け発露しています。ぼくにとって、感情によって発露されなかった文章は、詩という枠組みから外れます。詩というものの枠組みを定義しようとするとき、ぼくは、根底にぼくの空洞の心をほんの少しでも揺り動かしほんの少しでも刺激を与えたそれ、(ぼくはその湧き上がる情動を、ぼく自身が今も書き進めている詩論に置いて、『熱』と定義しています)熱の有無で区分けをしています。
この作品には、ぼくにとっての熱があり、それがあるためにぼくはこの作品をぼくの中で詩と定義したため、こちらに投稿するという過程を持ちましたが、
様が、詩ではないと判断されるのであれば、様にとってこの作品は詩ではないのです。
ぼくはそう考えます。
誠実で真摯な素敵なお言葉を有難う御座います。
……纏まりのない文章の上に長文になってしまい、申し訳ありません。
失礼致します。