第九話 続報
その翌日、点呼や朝礼はいつも通りだったが、陣営隊長は姿を見せることなく、新兵はすぐに兵舎へ戻るようにと命じられた。そこで今度は歴史ではなく、宗教の聖典を書き写すように言われた。ここでは『信教の自由』はあってないようなものだ。
「締め切りはないので、ゆっくり書き写すように。文字が読める者はしっかり読むのだぞ」
文官の言葉だが、ざっと見ただけでも数百項もあった。こんなものに締め切りがあってはたまらない。古い言葉もあって自力で読むのは不可能なのだ。書き写そうと思えば半年は掛かるかもしれないので、徴兵の目的が写本させるためではないかと思われるほどだ。
カグマン国の国教は大陸由来の太教がベースとなっている。大陸の宗教と同じである、と言い切れないのは、その土地に混在している信仰と習合し、新しい概念が派生して、完全なコピーではなくなってしまうからだと聞いた。
そもそも宗教にも流行り廃りというものがあって、古くからある自然崇拝などは原始宗教と呼ばれて蔑まれてしまうのだ。今や宗教は学問と同じなので、古いものは遅れているという感覚で見下されるのである。
現在のトレンドは太教だが、その太教ですら地教がベースとなっているという、説明すると訳が分からなくなるというのが宗教の難しさだ。とにかく、この世の中にある宗教は、この世界を知るための学問の一つであるということだけは断言できるだろう。
大陸で大きな戦争が起こるという噂だが、それも宗教に原因があるそうだ。地教から派生したはずの太教だが、それが教義や信条で揉めて、または解釈の違いで、大きく枝分かれしてしまったのが戦争の切欠だそうだ。
その前に、やはり宗教を説明するには戦争の歴史も併せて説明しなければならないようだ。ターニング・ポイントとなったのは、二百年前に大陸の南側を征服した『アウス・レオス大王の行進』である。
アウス・レオス大王は対立する地教を国教としている国々を滅亡させたことでも有名だ。これは選民思想が強い地教からの解放軍だったとの見方もある。しかしいくら稀代の征服王とはいえ、国を亡ぼしても宗教まで滅ぼすことはできなかったようだ。
それで二百年の歳月を掛けて太教という大きなベースとなる宗教が生まれたのだ。この太教は地教とは似て非なるものと解釈する者もいれば、一神教に変わりがないので同じだと解釈する者もいるので解釈が複雑だ。
さらには、そこに地教原理主義なども加わって、現在の世の中は宗教ブームと呼んでもいいくらい熱狂している。それが大国同士の大戦争に繋がってしまうのだから、宗教を抜きに戦争や国の歴史を語るなど不可能なのである。
これで宗教の歴史が完璧に説明できたと思えるなら簡単なのだが、実際はもう一つ別の歴史が存在しているから面倒だ。これが世の中を複雑にしている原因といっても過言ではない。当然、大陸の北側にも歴史は存在するわけである。
大陸の北方民族にも複雑な歴史があり、部族民の存在は数千年前から存在したが、戦争の歴史に登場したのは五百年前で、その頃、大規模な洪水で移動を余儀なくされたというのが民族大移動の時期と重なっているのは、共に見過ごせない点だ。
さらにその大洪水のことが地教の聖典にも書かれていることから、自分たちこそ神に選ばれた民族だと主張するに至るわけである。侵略した土地を自分たちのものだと正当化するために宗教が利用されているという側面もあるが、これはどの国にも言えることだ。
結局、結論を出そうとすると、大陸には東西南北で完全に対立しているという単純な図式は存在しておらず、多様な民族と国家が存在するため、自ずと隣人同士で喧嘩が起こってしまうという話だ。
宗教を心の救済だと考えられるほど、今の俺には余裕はなかった。どうしても戦争や政治と結びついている一面を見過ごすことができないのだ。そこから目を逸らして得られる心の安寧など、俺は欲していないのである。
話を諸悪の根源である地教に戻すが、迫害の記述を残して、それを根拠に領土問題における正当性を訴えるというのは頭のいいやり方だが、自分たちが他民族を苦しめた部分は書き残さないので、太教という新しい宗教が生まれてしまうというわけだ。
千年から二千年前の地教には地教の役割があったに違いない。それは否定しないが、加害者としての一面もあるのに、それをあたかもなかったかのように被害者面するのは、いつまでも通用することではないのである。
聖典には歴史書の側面もあるのだから、迫害されたことだけではなく、政治支配によって民衆を苦しめた事実も併記すべきなのだ。犯罪を起こさぬ民族は存在しないのだから、犯罪を犯罪と思わせる教育が必要というものだ。
今日はこれくらいにしておこう。ほんの序の口にすぎないが、宗教について考えると、本当に頭が疲れ切ってしまうのだ。これで救済があるというのだから、篤い信仰心を持っている人は、なんて我慢強く頭が良いのだろう。嫌味ではなく本当にそう思うのだ。
それに話を続けようにも今の俺には、この程度が限界だ。知っている知識など、すべては教会にいる神牧者からの受け売りで、自分で考えたと言えるのはほんの少ししかないからだ。人間というのは、一人では何も生み出せないものなのである。
「ぺガス、ちょっといいか?」
ケンタスが『ぺガス』と改めて呼ぶ時は、お願い事がある時だ。
「馬が暴れていたと言ってたろう? ボボの家も心配だけど、クトゥムさんの家も心配だよな? そこでオレたち三人分の休暇を申請してもらいたいんだ。事情を知った上で、厩舎の手伝いをしたいと言えば許可が下りるかもしれないからな」
ケンタスの言う通りだ。今は治安が悪いので心配すべきだった。早速お願いしてみると、朝の点呼までに戻ることを条件に帰宅が許可された。言ってみるものである。
三人で家に帰ると、予想した通り、兄貴はハクタ州への出張で家を留守にしていた。クルルさんは詳しい事情を聞かされていないようだが、それほど深刻な顔をしていなかったので、兄貴も家を出る時は何が起こったのか把握していなかったのだろう。
クルルさんは、兄貴が家に戻るまで俺たちが泊まると言ったら、すごく喜んでくれた。王宮の隣といっても、父親の不在は口で言うほど生易しいものではないからだ。家畜を賊から守るというのは、それだけでも命を張るということなのだ。
特に馬は兵士よりも価値があると言われることがある。騎士と呼ばれている者もいるが、実際の戦争では馬を弓矢の攻撃から守るために前線には近づけないのが現代での常識だ。人間よりも大事にされるほど馬の機動力や運搬能力は優れているというわけだ。
「来てくれるかな?」
夕飯後、俺たちはカレンを呼ぶために牧場で焚き火をした。
「あれから話をしていないからな」
と珍しくケンタスが不安げだ。
「もし来たら何て声を掛けたらいいんだ?」
ケンタスが熟考する。
「それはペガに任せるよ」
こいつはカレンのことになると無能になるのだった。
「気まずい時だけ俺に押し付けやがって」
そう言うと、ケンタスは爽やかに微笑むのだった。
「あれじゃないか?」
ボボが最初に気がついたが、この日は闇夜なので俺には見えなかった。
「手を振ってる」
味覚には自信があるが、視覚には自信がなかった。といっても、ボボが異常に眼が良すぎるだけだ。月が雲で隠れているというのに千歩先が見えるのだから夜目が利くということだ。
「どうしたの、みんな?」
いつものカレンの表情だ。
「待機命令が出ているはずなんだけど?」
ケンタスが事前に話していた通り、俺に会話を任せるようだ。
「ああ、昨日はちゃんと命令に従ったよ。でもケンがカレンと会って話がしたいって言うから強引に抜け出して来たんだ」
「嘘ばっかり」
とカレンが睨んだ。
「ばれたか?」
「ばれるよ、ケンは私のために軍規を破るようなことはしないもん」
これはケンタスに対する嫌味だ。
それを聞いて、ケンタスは少しだけ困惑しているように見えた。
「本当の理由は?」
カレンに尋ねられたので、兄貴の馬が事故を起こしたことを話して聞かせた。
「何か聞いていないか?」
と横からケンタスがカレンに尋ねた。
「落馬事故は聞いてないけど、馬が盗まれたという話なら聞いたわ」
「それはハクタ州の演習場かな?」
ここは邪魔しないように会話をケンタスとカレンに任せた方が良さそうだ。
「場所は知らないけど、新兵が初めて乗馬を始めるって言うので、たくさんの馬が用意されていたみたいよ。百頭以上が盗まれたっていう話だけど」
「ペガの聞いた話と一致するな。でも、馬が盗まれた話は伏せられているようだ。新兵が演習中に襲われて死亡したとなると大変なニュースになるもんな」
それより俺はデタラメな情報で脅してきたカニスに腹が立って仕方がなかった。
「そう、やっぱり正確な情報は伝わっていないのね」
カレンが深刻な顔をするが、これは仕方がない部分だ。隠蔽とかではなく、情報統制することで混乱を回避させているからだ。とはいえ、それだけでも現在が非常事態であることが判断できるわけだ。
ケンタスが尋ねる。
「ヤソ村の話は聞いていないか? ボボの村なんだ」
カレンが心苦しそうにする。
「ああ、そうなんだ。村から一部の人がいなくなったって聞いたけど、でも、それはヤソ村だけじゃないの。王都周辺やハクタ州の各地で同じことが起こってるっていうから、今はその向こうのゴヤやオーヒンの方まで調べに行ってるって」
「シャクラ村だけじゃないってことか」
各地で人々が失踪するって、そんなことがあるだろうか? 水不足などで一つの集落から村人が消えることは昔からあった。しかし同時多発的に失踪事件が起こったなんて話は、歴史的にみても記録や記憶にもない出来事だ。
ケンタスが尋ねる。
「陣営隊長が各地で武装蜂起した集団があることを認めているんだが、その後の続報がないんだ。カレンは何か聞いてるか?」
カレンが首を振る。
「それについては私も知りたいくらいなの。ハクタの百人隊の所在が不明になって、その部隊を見つけるために王都からも百人隊を派兵させたのに、今日になっても戻らず、伝令すらない有様で、王宮の中はもう気が立っちゃって、息が苦しくて仕方ないんですもの」
ケンタスがカレンの顔を真っ直ぐ見つめる。
「オレたちの国は今、何が起こっているんだ?」
カレンが逡巡している。
「実は……」
「何か知っているなら教えてくれ」
カレンが意を決する。
「うん、実は、このところ国王陛下の容態が思わしくなくて、親族でも面会すら許されない状態なの。宮中は後継者問題で揉めて、各地で起こっている異変は後回しになっているのよ。本当に情けなくなる。あっ、でも、これ内緒ね」
ケンタスが唸る。
「口外はしないが、どうやら反対勢力には情報が筒抜けのようだ。しかしその反対勢力が政敵なのか外敵なのか分からないところが厄介だな。いや、異なる敵が複数存在することも気に留めるべきだ。しかし演習中の馬をあっさり横取りできるくらいなんだから、場所やスケジュールを把握できる者が盗賊の中に存在するのは間違いなさそうだ。百頭以上をきれいに盗むということは、百人以上が統率を持って行動し、逃走手段も完璧に準備していたということだからな。その条件に当て嵌まるのは今のところハクタの百人隊しか考えられないが、証拠がない以上は思い込みだけで疑うのも用心が必要だ。いずれにせよ、オレたちも出兵は覚悟しておいた方が良さそうだな」
国王不予は現実社会を混沌とさせてしまうものだ。
「また戦争になるの?」
カレンが哀しげな目をする。
「三人には戦争に行ってほしくないのに」
ケンタスが説明する。
「歴史が大きく動き出そうとしている気配は感じるな。これが開戦前の雰囲気なのかどうかまでは分からないけどね。それを回避するための君主制なのに、君主が代わるタイミングで政情不安が起こるようでは、君主制も絶対とは言えないな。ただし戦争になっても、オレたち新兵は雑用に追われるだけだろうから心配はいらないよ。それよりカレンは自分のことを心配するんだ。特に食い物には今まで以上の用心が必要だ。侍女だから関係ない、とは言い切れないんだからさ。というのも、政争に勝つためには外堀から埋めようとするだろうからね。最初から後継者を狙うのは準備不足を招くだけだ。王宮の人間を病気にして、協力的な人間を後任のポストに就任させるというのが狡猾な奴らのやり方なんだ」
歴史の教科書には一切書かれたことがないが、人類の、あらゆる職業の中でも、王様や王家に連なる一族ほど野蛮で残酷で残忍な血族は存在しない。また、それを美化してしまう恐ろしさも併せ持っている。もちろん美化するのは、なぜだか俺たち民衆の方だ。
カレンの前では口が裂けても言えないが、家族や親戚を簡単に殺せる連中の血統を誇り、王家と外戚関係を結んだだけで格式があると持ち上げるのだから、本当に愚かなのは俺たち民衆の方なのだ。
ただし、一方的に裁くのは不公平だとも思っている。自分の祖先だって把握できないほど遡れば似たようなことがあったかもしれないからだ。そういう意味でも、思慮の足りない卑怯な王族批判だけはしないようにと心に決めている。
「もう行くね」
来たばかりだというのに、カレンが帰ると言い出した。
「帰る前に一つだけいいか?」
そう言って、ケンタスがカレンを真っ直ぐ見つめた。
二人は焚き火を挟んで向かい合っている。
どちらの瞳にも反射した火が揺らめいていた。
「うん?」
カレンが小首を傾げて毛先をいじる。
珍しく女性らしい仕草をした。
「もう、ここには来るな」
絶句したのはカレンだけじゃない、俺もだ。
「どうしても、それを伝えたかったんだ」
見ると、カレンの目に涙が浮かんでいた。
これで二回も連続で泣かせたことになる。
でも、今回ばかりはケンタスだけの責任だ。
「聞きたいことを聞いたから、もう用はないってこと?」
カレンの問い掛けに、ケンタスは答えなかった。
「仲間にしてくれるんじゃなかったの?」
ボボは余計な口を挟んだりせず、見守っているだけだ。
「私は王宮の人間だもんね」
「そうだ。もう、抜け出すような真似は止した方がいい」
ケンタスが冷たく言い放った。
俺まで拒絶されたような気持ちだ。
カレンの瞳から涙が零れた。
それがまるで流れ星のように見えてしまった。
「さよなら」
そう言うと、カレンは涙を拭わず、その場を後にした。
俺はカレンを見送るために立ち上がったが、ケンタスは立ち上がろうとしなかった。
腹が立つが、カレンを王宮に届ける方が大事だ。
「ボボ、カレンを見送りに行くぞ」
そう言うと、ボボは何も言わずに従ってくれた。
「来ないんだな?」
俺がせっかく気を遣ってやったのに、ケンタスは何も答えなかった。
もう、いい。
「ボボ、俺たちだけで行こう」
カレンの背中を追い掛けつつ、ケンタスの勝手な言動に腹が立って仕方がなかった。子どもの頃から知っている友達との別れが、こんなにも冷たくていいのだろうか? いや、いいはずがない。これは後で説教してやる必要がありそうだ。
カレンとの別れはあっさりしていた。というのもカレンが上の空で、会話らしい会話ができない状態になっていたからだ。彼女もまたケンタスのことで頭がいっぱいなのだろう。虚しいが、カレンの最後の言葉が「ありがとう」だったことだけが救いだった。