第一話(89) 市井の少女
ハクタ州の州都には色んな人たちが集まってくる。それはカグマン国にとって重要な貿易拠点だからだ。大陸からの珍重品やハハ島からの穀物などを積んだ貨物船が毎日運航を繰り返しているので、多くの外国人が仕事をしているというわけだ。
その積み荷をフェニックス家所縁の荘園へ運ぶ運送業者がいて、積み荷を守るための私兵も多く雇われており、流れ者がハクタに食い扶持を求めにくることも多く、街が荒くれ者で溢れてしまうというわけだ。
だからといって街で犯罪が頻発するというわけではない。ハクタには半漁半兵の兵士が多く存在し、全員で見張り合っている状況が作られているからだ。漁業権を失わないためだが、誰しもがハクタ兵であることに誇りを抱いているのである。
「ダンナ!」
人で賑わう湾岸通りの市場で声を掛けられた。
「ヴォルベのダンナ!」
僕はまだ兵役にも掛からない十四歳の子どもなのだが、ジンタだけはそう呼ぶのだ。彼も同じ子どもなのだが、大人の言葉遣いを真似て旦那呼びしているのである。人は言葉遣いで生きている社会や、もまれてきた環境が分かるものだ。
「ダンナ!」
人波を掻き分けて近づいてくるが、彼は背が低いので、こちらからは伸ばした手しか目に入らなかった。それでも人で溢れ返る市場ですぐに僕のことを見つけ出してしまうのだから、ジンタはやはり優れた能力を持っているのだろう。
「お待たせしやした」
人波をすいすいと走り抜けてきたというのに、ジンタは息一つ上がっていなかった。
「待っちゃいないよ。まだ日が傾く前じゃないか。一度でいいから、その背中に隠してある翼を見せてもらいたいね」
「へへっ」
自慢の足を褒めてやると、ジンタは嬉しそうに照れ笑いを浮かべるのだった。
「それで、新しい情報は入ったかい?」
「こう、喉が渇いたんじゃ、うまく喋れませんぜ」
「仕方のないヤツだな」
「へへっ」
ということで、酒場通りに移動することにした。
子どもに酒を売る店は滅多にないが、僕は顔が利く店を何軒か知っているので、ジンタに酒を飲ませることができるというわけである。といっても、顔が利くのは父親の身分のおかげなので、自分の力でないことは充分承知している。
「っ、カァッ!」
息を吐き出して、ジンタは美味そうにラム酒を飲むのだった。僕はお酒を一滴も飲めないので、いや、成人年齢を迎えるまで飲めない法律があり、それを忠実に守っているので、彼のことが羨ましくてたまらなかった。
「もう一杯、お願いしやすぜ」
そう言うので、お代わりを注文してやった。この店は王国の下級兵士が頻繁に出入りする飲食店ということで一般客が少ないのだが、僕はそこが気に入っていた。広い割に座席数が少ないので、会話を聞かれる心配がないからだ。
「ハッ、やっぱり、ここのチキンのバター焼きが一番ですぜ」
それがジンタのお気に入りメニューだ。彼は僕の依頼で島中を旅しているので、これまで様々なものを口にしてきたと言っていた。森の奥に行けば虫も平気で食べると聞いている。中には美味しい虫もいて、それを貴族に見つからないように秘密にしているという話だ。
そもそも僕が、このモジャモジャ頭の薄汚れた少年に仕事を頼んでいるのは、『モンクルスの再来』と呼ばれるドラコ・キルギアスが、同じく捨て子のジジを拾って片腕となるまで育てたという逸話を聞いて、それを真似しようと思ったからである。
ジンタには、ジジのように受けた恩に報いるという仁義が備わっており、同じくドラコの片腕であるミクロス・リプスが持っているような無尽蔵のスタミナと島中を駆け回るだけの脚力を持ち合わせている。
つまり、ジンタはジジとミクロスを足して割ったような男なわけだ。捨て子なので実年齢は分からないが、髭が生えてこないので兵役を迎える年齢に達していないことは確かだと思われる。僕への忠誠心に疑いはないが、酒代が嵩むのが玉に瑕だ。
「それより何か新しい動きはないか?」
ジンタが食事を終えたところで訊ねた。
「カイドル州の州都長官が正式に結婚しました。市内で婚礼パレードも行われて、それはもう華やかでしたぜ。警備が厳重だったというのもありますが、フェニックス家の王子様がカイドルの州都で堂々とパレードをしたんですから、あのユリス・デルフィアスという男は、ダンナが言っていた通り、やっぱりスゴイ男に違いありませんぜ」
ユリスはフェニックス家の家名を捨てて、現在は五長官の職に就いているので、フェニックス家の王位継承権は有していない。将来的に王族復帰することは可能だが、それにはハクタにいる魔女の承認が必要だ。
しかし、若くしてカイドル州を統治した政治手腕は誰しもが認めるところで、しかも現在の彼は『ドラコ・キルギアス』という名の宝刀まで従えている。近い将来、ユリスがこの島の未来を左右する存在になることは間違いないというわけだ。
いや、『ハクタの魔女』こと、オフィウ・フェニックスにカグマン島を乗っ取られないためにも、ユリス・デルフィアスに懸けるしかないのだ。なぜなら今の僕やフィンスにはどうすることもできないからである。
フィンスというのは一つ年下の僕の従弟のことだ。ハクタの魔女に毒殺されないように、母親と一緒に匿われているのだが、匿っているのが僕の父親であるハクタ州・州都長官のエムル・テレスコというわけだ。
僕の母親とフィンスの母親が姉妹で、国王陛下の妃であるフィン・フェニックスの命を守るには、妹のカミーラ・テレスコに頼るしかなかったのだろう。この秘密が外に漏れれば、命の保証はないというのが我が家の事情というわけだ。
「オーヒン国についてはどうなんだい?」
木の実を食べながらジンタが答える。
「前にも報告しましたが、高齢でも公務を怠らないブルドン王が大衆の前に見せなくなってしばらく経ちやす。オーヒン市内でも次の国王が誰になるのか興味津々といった感じですぜ。さすが商人の街っていうだけあって、それが賭けの対象にもなっているんでさ。でも、正式に決まるのはまだ先になるんじゃないすかね」
そこで疑問が湧く。
「前にコルヴス家で決まりと言ってなかったか?」
ジンタがブドウ酒に口をつける。
「いや、それが財務長官のセトゥス家の息子が名乗り出たんでさ」
「アント・セトゥスの息子か。でも、ヤツでは対抗馬としては力不足だ」
「それが、セトゥス家の後ろにはデモン・マエレオスがいるんでさ」
「フィウクス家には、まだそんな力が残っているのか」
デモン・マエレオスとは脱皮をする虫のように姿を変える男のことだ。滅亡したカイドル帝国出身でありながら、独立国のオーヒンで要職に就き、国王候補の息子をドラコに殺された後は、王家の親類縁者が治める荘園の領主になったヤツだ。
「デモン・マエレオスを舐めちゃいけませんぜ。ダンナが心酔しているユリス・デルフィアスの嫁さんだって、元はといえばそのデモンが大陸から連れて来た女ですからね。カグマン人となった今でもセトゥス家を後押しすれば、オーヒン国の次の王様ですらヤツの意のままになるかもしれないんでさ」
複雑な状況だ。というのも、次期国王有力候補のコルヴス家の当主・ゲミニ・コルヴスは、オフィウ・フェニックスと懇意にしていると聞いていたからだ。そこに力のある対抗馬が出てきたというのは願ってもない話である。
デモンは信用に値する人間ではないが、ハクタの魔女とオーヒン国を蜜月な関係にさせないためには、駒として利用する価値はあるからだ。ただし、ヤツを御せるかどうかは、やはりユリス次第といえるだろう。
「他に何か話しておくことはないか?」
ジンタがブドウ酒を飲み干す。
「昨日、ドラコの弟が入隊しました」
「そうか、もう、そんな時期だったか」
「予想通りですが、やはりペガス・ピップルとチームを組んだようです」
「昨日の今日で、そこまで調べたのか?」
「アッシを誰だと思ってるんですかい?」
中年男の口真似をしている少年が滑稽に見え、思わず笑ってしまった。
「それはすまなかった。さすがはジンタだ」
そう言うと、鼻をこすって照れ笑いを浮かべるのだった。
「もう一人、ボボという男をチームに加えました」
「どういう男だ?」
「それをこれから調べようと思っています」
「うん。そうしてくれ。ケンタスが組む相手だから間違いないとは思うけどね」
ジンタの報告によると、剣術に限れば兄のドラコを超えているのではないかとも言っていた。知将のドラコと剣豪のケンタスの組み合わせは、ジェンババとモンクルスが兄弟になったようなものである。
ユリス・デルフィアスがドラコを重用しているように、僕とフィンスもケンタスを従えることができないかと話し合っているところであった。もしもケンタスが僕たちの力になってくれたら、ハクタの魔女に恐れを抱く必要はなくなる。
それからジンタに調査費用を渡してから別れた。彼がいなければ、僕は国の情勢や島の状況など何も知らないままだっただろう。貿易都市で生まれたから情報の大切さを知ることができたともいえるので、故郷に感謝しなければならない。
それにしても、僕がもう一年早く生まれていたらケンタスと同じ年に入隊できたわけだ。自分の力ではどうすることもできないとはいえ、その、もどかしさが悔やまれてならなかった。
ドラコではなく、弟のケンタスの方が『モンクルスの再来』に相応しいかもしれないとジンタは言っていた。とにかく僕の頭はキルギアス兄弟のことでいっぱいだった。それもハクタの魔女を封じ込めるためである。
「きゃっ」
考え事をしながら歩いていると、曲がり角でいきなり少女が胸に飛び込んできた。いや、正確にいうと、走ってくる少女が止まりきれない様子だったので、避けずに受け止めることにしたのだ。
「ごめんなさい」
息を切らしながら言うと、少女が後ろを振り返った。
「悪い奴に追われているの」
そう言われて前方を確認したが、その悪そうな奴の姿は見当たらなかった。
「どこかに逃げられる道はない?」
「裏道なら知ってるけど」
「案内して」
「どこに逃げるっていうんだ?」
「それは逃げてから決めましょう」
無茶苦茶だ。
「僕がもっと悪い奴だったらどうするんだ?」
「それは一緒に逃げ切ってから考えるわ」
そう言うと手を差し出すのだった。
仕方ないから、その手を取って裏道に引っ張っていくことにした。
「お嬢様!」
遠くの方から、そんな言葉が聞こえたような気がした。
出会ったばかりの少女を連れて、酒場通りから外れたところにある旧オルバ教会跡地へとやって来た。現在は建築中の王城に移転されたので、巡礼者はもちろん、近隣の者も滅多に訪れない場所となっていた。
「疲れた」
そう言うと、少女は更地に取り残された石材の上に腰掛けるのだった。
「これを飲みなよ」
古井戸の水は危険なので、持参した水筒の水を差し出した。
「ありがとう」
そう言うと、美味しそうに水を飲んだ。
「僕の分は残さなくていい」
「飲まないの?」
「喉が渇いているわけじゃないから」
そうではなくて、同じ物に口を付けるのが恥ずかしかったのだ。
そんな僕を見て、見透かしたように少女は微笑むのだった。
「私はエリゼ。あなたの名前は?」
「ヴォルベ」
彼女が苗字を名乗らなかったので僕も伏せておいた。
「ヴォルベ」
そう言って、エリゼは僕のことをじっと見つめるのだった。
その視線にも恥ずかしさを覚えた。
「座らなくても平気なの?」
「あっ、いや」
うまく言葉が出てこない。
とりあえず僕も座れそうな石を見つけて、その上に腰を下ろした。
「そんなに離れたんじゃ、お話ができないじゃない」
そう言うと、座り直して、隣に座るようにスペースを空けるのだった。
「ここに座るといいわ」
「あっ、うん」
エリゼが異性に物怖じしないのは、普段の生活の中に男の従者がいるからなのだろう。『お嬢様』と呼ばれていたのは聞き間違いではなさそうだ。身なりから判断するに、おそらくかなり裕福な商家の娘だ。
貴族の家の娘でないことは確かだ。なぜなら貴族の家の娘に外を出歩く自由はないからである。それに王都と違って、わざわざハクタ市の街中を訪れる貴族はいない。たまに訪れる貴族は金に困った荘園の領主くらいなものだ。
最近の商家は下級貴族よりも良い暮らしをしている場合があるので、エリゼのような気品ある女性がいても不思議ではないのである。平和な時代が続けば商人が力を持ち、貴族の中には没落していく家が出てくるというのは自明の理だ。
「さっきから黙っているけど、何を考えているというの?」
そう言って、エリゼが僕の顔を覗き込むように見た。その愛くるしい顔が、僕から正常な思考を奪っているのかもしれない。濁りのない真っ直ぐな瞳と、厚ぼったいのに、それでいてとても柔らかそうな唇と、美を象徴する高い鼻。
香り付けされた長く茶色い髪も美しく、肌は真綿のようにキレイで、そして、何よりも膨らんだ胸が僕を悩ませるのだった。どれも彫刻や絵画では再現不可能だ。それは、人間の女性以上の芸術は存在しないということを意味している。
「訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」
これも自分らしくない言葉だ。
それに対して、エリゼが嬉しそうな顔をする。
「私のことを考えていたのね。いいわ、何でも訊いてちょうだい」
言葉の一つ一つが愛くるしい。
僕は彼女のことをもっと知りたいと思った。
「さっき『悪い奴に追われている』と言ってたけど、誰に追われていたの?」
「地獄の番人よ」
それを真顔で言うものだから、思わず笑ってしまう。
「あら、ヴォルベ、あなたったら、信じていないのね?」
「いや、その地獄の番人だけど、君のことを『お嬢様』と呼んでいた気がしたから」
「何のことかしら?」
笑顔でとぼける表情も、イタズラが見つかった天使のように愛らしいのだ。
「地獄の番人に追い掛けられているということは、君は地獄から逃げ出してきたということかい?」
エリゼが空想を楽しむ幼子のような顔つきで考える。
「違うのよ、そうじゃないの。私は地獄に囚われているお姫様なの」
プリンセスを夢見ることができるというのは、最低限の暮らしが出来ている証だ。生活困窮者というのは夢を見ることすらできないからである。ハクタの貧民街にはそういう人で溢れているのだ。
「じゃあ、君は地獄を知っているということだね?」
「そうね」
「だったら僕に、その地獄がどういうところか教えてくれないか?」
エリゼが思い出すように語る。
「いいわ、教えてあげるけど、砂時計は知ってる」
「ああ、正確に時間が計れるヤツだろう?」
エリゼが頷く。
「ええ。地獄にはね、それはもう、大きな大きな砂時計があるの。お部屋に閉じ込められて、砂が落ちるまで数字の計算をやらなくちゃいけなくて、終わったと思ったら、大きな砂時計をひっくり返されて、今度は文字をたくさん書き写さなくちゃいけないの。それが日の出から日没まで休みもなく、毎日延々と続いていくのよ? 信じられないでしょうけど、それが地獄というものなのよ。教育に良くないからって、街のお芝居も観せてもらえないし、お歌も教会以外では歌ってはいけないの。だから、本当につらいんだから」




