第七話 異変
翌日も休みだったので、早起きして兄夫婦の仕事を手伝った。いつもは報酬など貰うことはないが、この日は労働の対価として、三人で一枚の銀貨を得ることができた。前王のオルバ・フェニックスの横顔が描かれている銀貨だ。
物価の変動が激しいように、お金の価値というのも時代によって変わるものだ。物価価格で分かりやすいのが、気候にあまり左右されない豚肉とチーズだが、それでも俺たちの時代と爺様が働いていた時代では価格に数倍の開きがあるという話だ。
これは単純に戦時中に比べて供給が安定して食糧物資に余裕ができたからだ。今は恵まれた時代といわれているが、イチジクの葉すら無駄にしなかった爺様世代にとっては、皮を捨てる俺たち世代の贅沢を嘆くのも当然かもしれない。
それとは別に、同じ額面の貨幣でも価値に差が出てしまうのも昔から問題になっていた。戦時中に製造されたオルバ銀貨と現在製造されているコルバ銀貨の額面は一緒だが、銀の含有量が違うため、上手く市場に流通しないのだ。
でも、これは誰も責められない問題でもあった。悪貨があるうちは良貨を手元に残しておきたくなるものだ。製造年によって価値が変われば尚更だ。お金を使ってもらわないと経済が回らないというのは分かるが、悪貨の問題を解消するのは国の仕事である。
というわけで、俺たちは悪貨の方の銀貨を握りしめて市場へ向かった。悩んだ末に買ったのは牛肉の干し肉だった。焼き鳥の美味そうな匂いにも惹かれたが、干し肉は口に入れてからしばらく噛んでいられるので、そのお得感を選んだわけだ。
階段広場の階段で三人並んで腰掛けながら干し肉を食べることにした。しかし、この日は広場の様子が、以前来た時と比べて変わっているように感じた。一言でいうと騒がしいのだ。見回りの警備兵の数も多く、物騒にも感じられた。
あちらこちらで演説をしている若者の姿が見えた。政治目的の集会には届け出が必要だが、この決まりは基準が曖昧すぎて野放しにされているのが現状だ。秘密結社についても聞いたことがあるが、それも実際に存在するのかは知らなかった。
「みんな聞いてくれよ。俺の弟は生まれた時から足の関節が曲がっていた。でも歩けないことはないってんで徴兵に取られたんだ。けどな、立ってるだけでも苦痛を感じるような状態なんだよ。それを弟は我慢してるだけで、本当は俺たち家族が面倒を見ないと普通の生活なんか送れやしないんだ。だから徴兵を拒否したんだが、それで国はどうしたかっていうとな、親父の畑を半分も盗んでいきやがった。それが国のいう、平等なんだってよ。気を付けろよ、あいつらの中には俺たちから土地を奪うことしか考えない奴らがいるんだ。国なんてな、盗賊の集まりみたいなもんだ。騙されるんじゃねぇぞ」
広場で一番目立つ中央にある泉の周りで多くの若者が熱弁を奮っていた。
「私の妹は王都の兵士に乱暴されました。決まっていた縁談もなくなってしまい、今ではもう外を出歩くこともできなくなりました。妹は明るくて優しい子だったんです。そんな子が、どうして顔や身体に一生残るような痣を受けなければいけなかったんでしょうか? 妹は一つの罪も犯していないんです。それなのに、罪を犯した兵士は罰を受けることなく生きているんですよ? 捜査すらしてくれないんです。受けた傷を見せても動いてくれないんです。そこまでして身内の罪を隠したいんでしょうか?」
周りの人たちによる日頃の王政への不満が怒号へと変わる。
「挙句の果てには、妹が男をたぶらかしたと言われる始末です。明るくて気さくに接することが罪になるんでしょうか? 私たち姉妹には、もうすでに味方は誰もいません。近所の人だけではなく、親戚の者からも疎まれています。どうして世の中の人は何も感じてくれないんでしょう? 自分や、自分の娘や、自分の孫娘にも起こり得ることだと、どうして想像してくれないんでしょうか? 罰を受けない人を野放しにしておいて、どうして私たちの方が疎ましく思われるのでしょうか?」
ニュースの泉と呼ばれているだけあって様々な人が存在する。
「我が名は予言する者である。これから三年後にこの世界は滅亡するだろう。それは避けられぬ運命なのである。三十年前の隕石落下は、その前兆にすぎなかったのだ。三年後には巨大な隕石が雨のように降り注ぐことだろう。どこにも逃げ場所はないのである」
よくある終末思想だ。これは子どもの頃から何度も聞かされている話である。
「神は言いました。『すべての人に救いの機会は訪れる』と。しかし、その救いの機会を得るためには、神の子とならねばなりません。今のままでは、どこにも帰り着くことはできないのです。安らかなる場所は、確かに存在します。そのためには、まず信じることから始めてみましょう。そうです、心に変化を起こすのです。行動なくして、変化は訪れることはありません。今こそ改心し、行動を起こすのです。特別なことではありません。ただ、神のお導きに従うのです」
外国訛りの宗教家だ。宗教は今や学問のようなもので、勉強が苦手な俺にとっては理解するのに苦労するジャンルの一つだ。しかし、今や宗教は戦争や政治や経済とセットで考えなければいけないので敬遠することもできないのである。
カグマン国が取り入れた大陸由来の宗教は完全なる一神教だ。俺の知識が不足しているばっかりに詳しくは説明できないが、教会や聖堂で何とかという神にひたすら仕えて、お祈りや儀式などを行うわけだ。
それでも、この島には多神教が根付いているというのが現実だ。おそらく狩猟民族が島の広範囲に分布しているからだろう。
山で暮らす部族の宗教は自然崇拝で、基本的に土地は誰のものではないというのが一番のポイントである。これこそが差別や迫害を受ける要因になっている根本原因とみて間違いない。
他民族にとっては開墾すれば自分の物だという意識だが、それに対して山岳部族は、開墾しても山や川の資源はみんなのもだという意識があるのだ。その意識の差から、山暮らしの部族だけが森で泥棒をしていると、勝手に山賊として犯罪者に仕立て上げられるのである。
二千年後の人々がどのように物事を考えるか見当もつかないが、山賊と呼ばれた人たちが、必ずしも犯罪行為を侵していたかというと、そうとも限らないので、そこだけは後世に正確に残していきたい部分である。
「皆の者よ、お前たちは知っているか? まさに今、この瞬間、大陸では二つの大国が大戦争を起こそうとしているのだぞ? それはかつてないほどの規模で、これより五百年の未来を左右する世界戦となるのだ。兵力だけでも総数が二十万を超えていると言われている。お前たちに想像できるか? これは二十万人の兵士を一度に行進させることができるということだぞ? この地に地響きが起こっても不思議ではないのだ。それが正面からぶつかり合おうとしている」
本当の話ならとんでもないことだ。
「お前たちのことだから、どうせ我が身には関係のないことだと思っているのだろう。しかしだな、その大戦争に決着がつけば、やがて我々の島にも征服者の手が伸びてくるのだ。どうして国王は優雅に昼寝をしていられるというのだ? 勝負がついてからでは遅いというのが分からんのか! こうしている間にも決着がついて、勝利者の軍かこちらに向けて進軍しているのかもしれんのだ。敵軍が見えてから慌てても遅い! どうしてコルバ・フェニックスは我々に声明を出さんのだ?」
大陸の情勢など確かめようがないことだ。
「南大陸を征服したアウス・レオス一世のことを忘れたのか? わずか十五年で南大陸の国々を滅ぼしていったのだぞ。あれから世界の歴史は変わったのだ。世界中の国の支配者から崇拝されているが、実体はどうだ? 戦争による侵略者が偉大なる英雄と呼ばれるようになってしまったではないか。お前たちがモンクルスやジェンババを英雄と持ち上げているのを見ると吐き気がする。所詮はアウス・レオスの真似事なのだからな! もう、いい加減、目を覚ましてくれ! 戦争に英雄など存在せぬのだ!」
アウス・レオス一世とは、おそらく人類史上もっとも有名な歴史上の人物である。今からおよそ二百年前に大陸の南側を十五年で統一してしまった大王だ。歴史上で『大王』と呼ばれるのは、今のところアウス・レウス一世しかいない。
また南征を行った時期が十五歳から三十歳までと若く、どのようにその若さで最大で十万を超える兵を統率することができたのか、今でも解明されていない謎が多い。
青年の演説の中身が正しいのかどうか、今の俺には分からなかった。それでも世界中の支配者からアウス・レオスが崇拝されているというのは確かだ。軍隊の動かし方や戦略などは、すべてアウス・レオス一世が発明したと言われている。
人類はたった一人の戦争の天才によって、いともたやすく敗北を喫してしまうものだ。一人の天才の出現が歴史を変えて、次の天才の出現までの年表を作ってしまう。大陸の宗教には次なる天才の出現さえも預言されているという話だ。
「おい! みんな! 俺の話も聞いてくれ! コイツは政情不安を煽って、テメェが仕入れた貿易品を買わせたいだけだからな! それがコイツのいつもの手口なんだ! 騙されちゃいけないぞ! 蜜や蝋の供給は問題ないんだから、慌てて買うことはないんだ! コイツ一人が勝手に吊り上げた値段で買う必要はないからな! 俺が今までと同じ値段で売ってやらぁ!」
商家の息子ではないので経済については疎いが、確かに大陸の動きが俺たちの生活に影響を及ぼすというのは、頭だけではなく肌でも感じる部分だ。島には昔から、大陸がクシャミをすれば島民が風邪を引く、なんて言葉も残っているくらいだ。
気候を読んで作物の出荷予想をしたり、大陸の政情を読んで入手が難しくなりそうな交易品を確保したり、儲けた金で新しい技術に投資したり、商人になるには世界を知ろうとしなければならない。
兵役が終われば実家の農家を手伝う予定だが、商家に婿入りして勉強するのも面白そうだ。大陸の征服者によって滅んでいる可能性もあるわけだし、明日ですら何が起こるか分からない、ならば色んな可能性を考えておかなければならない。
「おいっ! 大変だぞ!」
息を切らした伝令配達人がニュースの泉に走ってきた。
「たった今、入った情報だ。ハクタ州で演習中の兵士が部隊ごと消えちまったってよ。消えたのが昨日で、今朝になっても消息が不明だそうだ。上級士官も含まれるっていうんで、大騒ぎになってる」
これは本当だろうか?
「大規模な脱走か、大陸への亡命か、クーデターを起こすつもりか、今のところは何もわかっちゃいねぇ。しかし百人隊が丸ごと消えちまったのは事実だからな。もしクーデターを起こすつもりなら王宮で事件が起こるかもしれないぞ」
伝令配達人は職業柄、信用を落とすデマは流さないので、消えたのは間違いなさそうだ。
「消えた百人隊の名前が入ったリストが手元にある。どうしても名前が知りたい奴は金で相談に乗ってやる。今夜にもハクタへ発つつもりだ。伝令を頼みたいなら引き受ける。事件が事件だからな、安くしとくぜ」
事件で金儲けするのはどうかと思うが、情報が何よりも大事なのは確かだ。聞いた限りでは事故かもしれないが、家族が積極的に調べないと、脱走兵として処理されてしまう可能性もあり、そうなると家族に処分が及ぶのである。
国がそんなことをするわけがない、というのは買い被りで、事故なら被害者としての補償もあるが、脱走兵として処理されたら加害者扱いされて、犯罪者家族と見做されてしまうのだ。だから俺にとっても他人事ではないのである。
「王宮に戻ろう」
ケンタスの言葉に従うことにした。
歩きながら話を聞く。
「ハクタ州の百人隊といったら特殊精鋭部隊だな。身分や民族を問わず、腕だけを買われて組織された混成部隊だ。剣術のみならず、弓矢や長槍のエキスパートもいるという話だ。毒の知識を持つ者もいることから暗殺集団とも呼ばれている。兄貴の仲間じゃなければいいけど」
ケンタスの兄貴はかつて『ドラコ隊』と呼ばれる部隊を率いていた。
「精鋭部隊なら事故はありえないか」
ケンタスが首を捻る。
「どうだろうな? 危険な演習をしていると兄貴から聞いたことがある。それでも一度に百人も同時にいなくなることはないだろうから、何らかの意図はありそうだ。上級士官までいなくなったということは、おそらくはその上官の指示で動いているということだからな」
可能性を挙げてみる。
「クーデターでも起こそうっていうのか?」
即座にケンタスが否定する。
「それはないよ。伝令配達人に情報が筒抜けなんだ。何かを企てるなら騒ぎになる前に事を起こしているはずさ。オレたちの国では、軍人はクーデターすら起こせないだろうからな。革命を起こすなら七政院の娘と結婚して出世した方が、まだ可能性があるくらいだ」
さっぱり分からない。
「だったら他に考えられる可能性は?」
丘を登りながらケンタスが熟考する。見たところ、目指す先にある王宮に変化は感じられなかった。バタバタとした人の出入りもなく、白い壁や巨石の神殿は今日も落ち着いた佇まいをしている。大事件ではあるが、新兵が慌てても意味はないのだ。
説明しておくと、ハクタ州というのはカグマン島にある三つの州の内の一つで、俺たちがいる王都のあるカグマン州と隣接している地域のことだ。海沿いの町には新しい貿易港や城も建設中で、完成したら都が遷都されるという話だ。
ハクタ州にも徴兵があり、俺たちと同じように州内から新兵を集めているのは変わらない。町の規模も王都より広く、州の人口は戦後直後から逆転し、近いうちに倍以上になる見込みだそうだ。都市部が海に近いというのが人口増加の理由だ。
「大陸の戦争と関係があるのかな?」
俺の言葉にケンタスが唸った。
「伝聞だから仮説になってしまうが、もしも本当に大陸で大戦争が起こりそうなら、大金を積まれてスカウトされたということも考えられるな。オレたちの国にいても己が磨いた腕を活躍の場に活かせることなど訪れないだろうからさ」
疑問がある。
「残された家族のことはどうでもいいのか?」
「戦争のために腕を磨き抜いた連中なんだ。成り上がるにはそれしかないと思っている兵士も少なくないからな。迷惑を掛けて困る家族がいるなら、技能は隠し続けて兵役が終わるのを待つだろうさ」
これはケンタスの言う通りだ。徴兵で腕自慢をしても意味がないということだ。ボボのようにガタイがいいという理由だけで重労働へ回されてしまうからだ。現在の国内情勢ならば、腕を買われて特殊部隊に配属されたって、安月給で拘束されるだけである。
「大陸からスカウトが来ているとしたら、やばくないか?」
ケンタスも不安げだ。
「ああ、すごくもどかしい。もっと早く入隊していれば、より正確な情報が得られたかもしれないのに、新兵だと大陸で何が起こっているか、それすら分からないし、命令が下るまでは動きようがないからな」
上官の命令は絶対だ。
「勝手に動いちゃいけないっていうのも兵士の決まりだからな」
「演説していた人は国王の声明を望んでいたけど、王宮からの声明なんて、民衆が混乱しないように無難な言葉を選ぶだけだし、そこに期待しても何かを得られるわけではないんだ。せめて兄貴と話ができたら良かったんだけどさ」
ドラコ・キルギアスは島の反対側にいる。
「こんなことならカレンに内情を探ってもらうんだったな」
ケンタスが怒る。
「バカ言うな。カレンは仲間だが、危険な目に遭わせるわけにはいかないんだ。巻き込むような真似なんかできるかよ。昨夜だって泣いててだろう? 初めて見たよ、カレンが涙を流すなんてさ」
「どうして泣いたんだろうな?」
ケンタスが黙った。
それを見て、つい笑ってしまった。
「何が可笑しい?」
はっきり言ってやろう。
「お前に女心なんて分かるはずがないと思ってな」
珍しくケンタスがムッとする。
「お前と一緒にするな」
そこでボボがすまなそうに口を挟む。
「あれはオイラが悪かった。オイラが仲間に誘ったばっかりに、悲しい思いをさせてしまったんだ。お前たちとカレンは仲が良いといっても、立場が違うんだったな。こういうのは成長するほど痛感するものだ。カレンは官吏の娘で、お前たちは平民にすぎない。それなのに、オイラたちはカレンを仲間に引き入れようとした。カレンには、それが家族や先祖に対する裏切り行為に思えたのかもしれない。オイラたちが求めているものは最悪の場合、カレンの家族を既得権益となっている要職から下ろすようなものなんだ。仲間に誘って返事ができなかったのも仕方がない。あの瞬間『お前たちと自分には決して越えられない壁がある』と悟ったんだからな」
なんか腹が立った。
「偉そうに話してるけど、ボボ、全部お前が悪いんだからな」
ボボが頷く。
「悪いとは思っているが、後悔はしていない。いずれ受け止めなければいけない時が来るんだ。ならば早い方がいい。何事も時間が解決すると言うからな。だったらその時間をより多く割くためにも、なるべく早い方がいいんだ。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「……ただ、後はカレンを信じるしかない。もう二度と会えないかもしれないが、それで済むならまだ問題ではないだろう。最悪の場合はオイラたちのことを父親にでも密告していたら、大変なことになるかもしれないということだ。基地に戻ったところで逮捕されてもおかしくないからな」
カレンに限ってそんな真似はしないだろうが、ケンタスが不安げなのは気になった。