第二十一話(65) 特命
アキラがどうして泣いているのか僕には分からなかった。昨日までの僕たちならば互いの感情について分かるまで話し合いをするのだが、今日は時間がない。
しかし、これから先もアキラと話せる時間を持てるか分からないわけで、そう思うと、途端に彼女のことが愛おしくなった。
「一度しか言わないから、よく聞くんだよ」
それでも感傷に浸るには時間はなかった。
「とても大きな組織がフェニックス家の親類縁者を狙っていてね。王宮に危機が迫っているんだ。もしかしたら王宮の中で戦闘が起こるかもしれない。そうなると二人の友人に危険が及ぶから、そのことをケンタスとぺガスに伝えてほしいんだ」
アキラが確かめる。
「話してしまっていいの?」
気持ちは変わらなかった。
問われると躊躇してしまうが、気持ちは変わらない。
「うん。でも、マザーには内緒にしてほしい」
それ以上、長居するわけにはいかなかった。タンタンに祈りを捧げて、それからアキラと別れ、領事館へと馬を走らせた。ところが、森を抜けて丘の上に来たところで、後ろから馬を走らせてきたミクロスに声を掛けられたのだった。
「ジジ、待ってくれ!」
朝の陽の光がオーヒン国を照らしている。
馬を止めて、ミクロスの到着を待った。
「どうしたの?」
馬上のミクロスが呆れている。
「どうしたじゃないよ。アキラに何を話した?」
「どうして会ってたことを知ってるの?」
「お前を見張るようにドラコに頼まれたんだよ」
「そっか、行動を読まれてたんだ」
ミクロスが笑う。
「当たり前だろう? ドラコとお前は弟よりも一緒にいる時間が長いんだぜ?」
「そうだよね」
「おうともよ。オレたちは命を預け合っている仲なんだ」
ミクロスが大きな鼻をかく。
「本当は見張るだけでいいって言われたんだけどよ。お前がドラコに隠し事をしちまうんじゃないかと思ってな。それで声を掛けたんだ。オレ様にとっても、お前は兄弟みたいなもんだからよ」
ドラコだけではなく、ミクロスまで裏切ってしまったわけだ。
「ごめんなさい」
ミクロスが海を見つめる。
「まぁ、なんだ、お前は正直に生きろよ。お前には、それしか取り柄がないんだからな。それにお前の嘘なんか、すぐに見破られちまうんだからよ。器用に立ち回ろうとするんじゃねぇよ。お前はバカがつくほどの正直者なんだからよ」
そう言って、ミクロスは馬を走らせるのだった。僕にはその背中を追い掛けることしかできなかった。彼がいなければ、僕はドラコに情報を漏らしたことを隠し続けていたかもしれない。僕を正直者でいさせてくれたのは、ミクロスのような周囲の人たちのおかげだ。
「ドラコ」
領事館の厩舎で僕たちを出迎えたドラコが困り顔で微笑みを浮かべた。ミクロスと一緒に来たことで、すべての事情を察したようだ。その優しく見つめてくれる顔を見た途端、胸が苦しくなってしまった。
「ごめんなさい。アキラに伝言を頼んじゃったよ」
ドラコが僕の肩を抱く。
「忘れてたよ。ケンタスはジジにとっても弟のようなものなんだもんな」
そしてドラコは兄のような存在だ。
ドラコが髭をさすって考える。
「アキラに話してしまったならば仕方がない。現実というものは、加速させることはできても、巻き戻すことはできないからな。だったらプランを変えるまでだ。こうしよう。お前たち二人はオーヒン国に残って、ケンタスの動向を見張れ」
ミクロスが訊ねる。
「見張れってどういうことだ? 会えばいいじゃないか?」
ドラコが命令の意図を説明する。
「本当に王宮の中に友人がいるのかどうかも分かってない。なにしろ子どもの頃の話だと言っていたからな。実際にケンタスと会って話を聞けば、真偽についてはハッキリするだろう。しかし問題は、その友人が本当に存在していた場合だ。ケンタスのことだから王宮に出向いて直接伝えに行こうとするはずだが、新兵になったばかりの弟には、その友人の素性を確かめることは難しいだろう。偽名を使われていたりしたら、俺でも正面から調査することは難しいからな」
王宮の中と外は、別世界と思えるくらい隔たりがある。
「その点、お前たち二人なら王族や七政院の親類縁者の顔は憶えているだろうから、面通しすれば誰の子どもかも分かるだろう? その友人の正体を突き止めるためには、お前たちが実際にその友人とやらの顔を見ないとダメなんだ。もしもその友人が素性を隠しているならば、警戒して会ってくれないかもしれない。かといってケンタスに友人を騙す手伝いをさせるわけにもいかないし、結局一番いいのは、俺たちが得意としている方法で調査することだ。弟たちを泳がせて、自然な形で友人と接触させ、その友人の素性をこちらで調べ上げる。身内が絡む問題だが、いつものやり方でやるまでだ」
ということで、ドラコは一人でユリスの護衛に向かった。その一方で、命令を受けたミクロスは不満がいっぱいだった。なにしろ州都札が使える快適な移動が取りやめになったからである。
「全部お前のせいだからな」
ケンタスが姿を見せるまで、僕はその言葉を何百回と聞くこととなった。しかし幸いなことに、翌日の夜明け前にはケンタスら三人がマリン邸に姿を現してくれたので、退屈な時間を過ごさなくて済んだわけである。
「あのボボって男は、かなり目が利きそうだな」
仕事に入るとミクロスの顔つきが一変した。彼が真っ先に注目した男は新顔のボボという二つ子だ。十五歳とは思えないほど身体が大きく、落ち着いた佇まいをしている。山慣れしているので離村からきた少年なのかもしれない。
「ケンタスは背が伸びただけじゃなく、体つきまで大きくなってるよ」
二年振りに見たが、ドラコと同じくらいの身長になったようだ。髪が長いのは、切るように注意するドラコとしばらく会っていないからだろう。二年前までは子どもだったのに、今ではもう大人びた凛々しい顔つきになっている。
「ぺガスは変わってねぇな」
十五歳だが、背は以前と変わっていなかった。少しだけ横に広がったくらいだろうか。ボケっとした顔をしているが、昔から彼は物事について考えるのが好きな子どもだった。周囲への警戒は二人に任せて、彼はひたすら考え事に没頭しているといった感じだ。
「馬の扱いが上手くなってら」
ミクロスと僕は、彼ら三人がアキラと接触することを想定して、マリン邸の近くで張り込みを続けていたわけである。それからケンタスたちは、姿を現してから丸一日経過した日没後に再び移動を始めるのだった。
「おいおい、山岳ルートを抜けたばかりなのに、もう移動するのか」
体力自慢のミクロスが驚くほど、彼ら三人の移動速度は常人離れしていた。たとえ体力に自信があったとしても、足となる馬をダメにしてしまうことがあるので、オーバーペースにならないように管理するのが難しいのである。
「平原が続くから、距離を取った方がよさそうだな」
ミクロスをこれほど慎重にさせる相手を僕は知らなかった。盗賊を相手にしていた時代でも、ここまで慎重になることはなかった。
「あそこはケンタスの友達がいる宿じゃなかったか?」
ミクロスの言う通り、そこはベリウス・スカタムという名のケンタスらと同い年の友達がいる宿だった。
「ジジはここにいろ」
三人は馬を宿に預けてどこかへ向かったのだが、この辺には酒場しかないはずだ。
「いや、分からんな。ケンタスが細長い包みを手にして店から出てきて、それを見てぺガスが興奮している様子だった」
何を持っているのかはいずれ訊ねるとして、彼ら三人はそれから王宮の隣にあるぺガスの実家近くの森の中へ入った。
「焚き火を始めたぞ」
王宮に隣接している牧場の敷地で彼らは火を熾し、その火を消さないように火の番をしていた。おそらく、それが王宮にいる友人との連絡手段なのだろう。もうすでに、かなりの時間が経っている。
「王宮の方から誰か来たぞ」
王宮の中に友人がいるというのは信じがたい話だったが、どうやら本当に存在していたようだ。ドラコの命令に背いたことは後悔していないが、実在していたことで救われた気持ちになったのは事実である。
「ダチって、女かよ」
まだ顔はハッキリ見えないが、シルエットと走り方を見ただけで、少年ではなく少女だということが分かった。友達と聞いていたから、てっきり男の子だとばかり思い込んでいたわけである。
「おいおい、あれって、まさか」
「うん」
「ジジ、お前も見えてるよな?」
「うん」
「どうしてあそこに王女がいるんだよ?」
焚き火に照らされた少女は、正真正銘、どこからどう見てもクミン・フェニックス王女様だった。口を利くどころか、目を合わせてもいけないお方が三人と一緒に焚き火に当たっているのである。
「アイツら、自分たちが誰と話しているのか分かっているのか?」
ミクロスが疑問に思うのも無理はない。三人とも平然としているからである。クミン王女といえば冷血として有名だ。気に入らない宮仕えを何人もクビにしてしまうほど容赦のない冷酷無比な人物として認識されている。
そんなワガママで心の冷たい少女と、ケンタスとぺガスは友達になったわけだ。どういう会話をしているのかは分からないが、そこにいるのは、どこにでもいる少年少女と変わらなかった。
「動きがあるぞ」
「四人で森に行くよ?」
「何をするつもりだ?」
それからケンタスら四人は王女を馬に乗せて牧場を後にするのだった。つまりクミン王女は王宮に戻らなかったわけである。
「アイツらがやってることって誘拐じゃないのか?」
「うん。今ごろ王宮の中は大変なことになってると思うよ」
「だよな。王女誘拐で捕まったら死刑だけじゃ済まされないぞ?」
「うん。親類縁者も同罪で土地も財産も失われるだろうね」
「おいおい、オレ様まで連帯責任が及ぶってことはないよな?」
「前例がないから分からないよ」
ミクロスが森の木陰で頭を抱えるのだった。
絶望しているので慰めてみる。
「気休めになるか分からないけど、ケンタスたちが指名手配を受けて隠密行動を取っているのは良かったかもしれないね。彼ら三人が王都に来たことを知っているのは宿屋のベリウスと酒場の人だけだろう? 書簡を持ってカイドル州に向かったのだから、日数的にはまだカイドルの州都にいてもおかしくないし、そう考えるのが自然なんだ。だから王宮の人がクミン王女の密会相手の素性を知らなければ、ケンタスたちに結び付けることはできないと思う」
ミクロスが訊ねる。
「ジジ、お前ならどうする? 王女を一緒に連れて移動すれば捕まる可能性が高くなる。そうなればハハ島の流刑処分どころではなくなるわけだ。それなら今アイツらを捕まえて、今夜にでも王女を王宮に帰した方が良くないか?」
ミクロスはそうした方がいいと考えているようだ。
「ギリギリまでケンタスに任せてみるのはどうだろうか?」
「大事な判断を誘拐犯に委ねるのか?」
「うん。ケンタスがどういう選択をするのか興味あるんだ」
そこでミクロスが唸る。
「うむ。有り得ないくらいの偶然とはいえ、王宮が狙われている状況で、結果的に王女様を避難させることに成功したわけだからな。クーデターが起こればどうなるか分からないし、もう少し様子を見るとするか」
いざとなれば、彼らを窮地から救い出せる自信もあった。
「ハクタの貴族街に向かってるな」
王女をさらって、日中泊をして、その日の夜にケンタスらが向かったのは、ハクタ州の貴族が多く住んでいる高台の一等地だった。
「王女がいない」
どうやら彼ら三人は貴族の邸にクミン王女を預けたようだが、事情がさっぱり掴めなかった。
「ジジ、アイツらを見張っててくれ。日中は動かないから一人でも大丈夫だ」
三人の尾行を続けていたのだが、ミクロスはハクタの貴族街に戻って行ってしまった。ケンタスたちの行き先がオーヒン国だということが分かったので、クミン王女の潜伏先を調べることにしたわけである。
しかし日没前には戻ると言っていたミクロスが、ケンタスたちが移動を始める時間になっても戻ってくることはなかった。それでも彼らの移動ルートや宿泊ポイントは把握しているので、ミクロスの心配をする必要はなかった。
「待たせたな」
ガサ村を抜けて、アキラと出会った馬車蔵の近くの山中で日中泊をしていたのだが、ミクロスはいとも簡単に僕の居場所を見つけられたようだ。暗号を残しながら移動したとはいえ、僕ならば迷っても不思議ではなかった。
「王女の潜伏先が分かったぞ。ハクタ州の州都長官をしているエムル・テレスコの別邸だったよ。長官の庇護下にあれば王女の身は安全だ。子どもが出入りしていて、それが息子のヴォルベ・テレスコだから、家人も王女がいることは承知しているだろうよ」
エムル・テレスコは終戦前にモンクルスの片腕として作戦に加わっていた軍人で、平民出身としては異例の公爵の地位を授かった新興貴族である。王宮の軍閥貴族とは毛色の違う人物だ。
テレスコ長官の生き方こそ、ドラコの目標とする生き方でもあった。左遷で出世コースから外れてしまったが、平民から五長官の職に就くのは、僕たちにとって最もイメージしやすい成功例だったからだ。
「ただ、気になることもあってな」
ミクロスが寝不足の顔をこする。
「遠目からでハッキリ確認することができなかったんだが、その別邸の中庭にもう一人別の子どもがいたんだよ。足を引きずっていて、身なりも上等とはいえないが、振る舞い方は貴族の子どもで間違いないんだ。問題はエムル・テレスコには二人の兄弟しか存在していないということなんだよ。しかも出来損ないの兄貴は大陸に遊びに行ったっていうからな。だったら『あの子どもは誰なんだ?』って話になるだろう? それがどうしても分からないんだよ。もう少し時間があれば余裕で調べられるんだがな」
エムル・テレスコとは、ドラコが捜査協力を願い出た際に知り合って、それから戦勝記念式典の会場で警備をしたことがあった。愛妻家としても有名で、その時も奥様を大事にされていた記憶がある。
そのような彼が別邸で愛人とその息子を囲う生活をしているとは考えにくい。付け加えると、食事のマナーを見ても信仰心が篤いことが分かるので、太教の定める婚姻の誓いに反する行為を犯すとも考えられないのである。
それでも貴族の中には信仰心が篤く、他者にも同じだけの信仰心を持つように強要する人が、裏で婚姻の誓いに反するような浮気や不倫をしているというのはよくあることなので、完全に信じ切ることができないというのもまた事実である。
しかしエレム・テレスコ長官に限れば、やはり愛人を兵士に守らせるというのは考えられないことだ。だとしたら、誰がクミン王女の隠匿を手助けしているのか、謎は深まるばかりだった。




