第八話(52) ドラコの決断
それからミクロスが腹を空かせているということで、マリンさんが料理を作りに調理場へ行った。一般的な貴族の家なら家主自ら料理をすることなどないので、やはりこの家は特殊な家だと思った方が良さそうだ。
「何があったか憶えているか?」
ドラコに訊ねられ、寝台の上であぐらをかいているミクロスがゆっくりと思い出そうとしていた。その姿をドラコと僕は、隣の寝台の縁に腰掛けて見守っている形だ。大きなブタ鼻は今も見るからに痛そうである。
「ファンファンちゃんの身体によ、全身にムカデが這ったようなアザがあったんだ。『どうした』って訊いたら、『客の男に鞭で打たれた』って言うんだよ。機嫌が悪いと骨を折ったりして、『最悪の場合は生きて帰れない』って言うから、それで手を打たなきゃいけないと思ったんだ。でも『逃げろ』と言っても、『逃げきれない』って言うしよ。『誰か力になってくれる人はいないのか?』って聞いても、うんともすんとも言わねぇんだ。だから、次の日に『その客に指名を受けてる』って言うんで、『オレ様が守ってやる』って約束したんだよ。『危害を加えられそうになったら、すぐにオレ様が救い出してやる』ってな」
弱い者いじめが嫌いなミクロスらしい話だ。
「そして、その問題の客が現れたわけよ。ところがだ。そいつは用心棒に固くガードされててよ、ファンファンが連れ込まれた小屋に近づくこともできねぇじゃねぇか。それでも何とかしないといけないと思って、用心棒に石を投げてつけてやったんだ。それで用心棒がオレ様を捜しに持ち場を離れたんで、その隙をついてファンファンを救い出そうとしたわけよ。しかし見張りが他にもいたみたいで、小屋に入ろうとした瞬間に、後ろから殴られて気を失っちまったんだな」
そこでミクロスがハッとする。
「ファンファンはどこにいる? 無事なのか?」
ドラコが沈痛な面持ちで答える。
「所在は分かっていない」
「ちゃんと捜したんだろうな?」
「むちゃ言うな。彼女に近しい者も見つけられないんだ」
「どういう意味だよ?」
「お前の命が助かっただけでも幸運だったということだ」
「ふざけんなよっ」
「お前はそれくらい大きな組織を相手にしたんだ」
「ちくしょう! あいつらブッ殺してやるっ」
興奮したせいか、そこで頭を押さえて痛がるのだった。
「大丈夫?」
僕はそれくらいしか言葉にできなかった。
「こんなの広場の女の痛みに比べれば何でもねぇよ」
と言いつつ、痛そうな表情をしていた。
ドラコが訊ねる。
「お前が見たその客だが、顔は確認したか?」
ミクロスが首を振る。
「いや、頭から真っ黒な頭巾を被ってたからな。服装も全身黒ずくめの法衣服みたいな感じだ。歩き方の癖で個人を特定するのも難しいところだな。貴族が乗るような馬車じゃないから、そっちから当たりを付けるのも不可能だ」
完全に素性を隠しているというわけだ。観察力の鋭いミクロスですらお手上げならば、本当に打つ手がないということだ。
「でも用心棒の顔はハッキリと憶えてるぜ」
ドラコが説明する。
「それはすでに分かっているんだ。あそこら一帯はザザ家の縄張りで、あそこにいる娼婦や娼館の主人や用心棒は、すべてそのザザ家に雇われているんだよ。そして、そのザザ家の後ろ盾になっているのが、オーヒン国の貴族ってわけだ」
その言葉に、ミクロスが半笑いになる。
「おいおい、聞かされていた話と違うじゃねぇかよ。ザザ家っていうくらいだから、出自は原住民系だろう? それでどうして混血ですら相手にしないオーヒンの貴族が手を組むっていうんだ? そんなクソみたいな組織、オーヒンの貴族がのさばらせておくはずがないだろう」
ミクロスの言う通り、ザザ家が繁栄していること自体オーヒンの世相に反しているのだ。
「やはりこの国は、何事においても金次第ということなのだろう」
それがドラコの出した結論だった。つまり貴族に金を払うことで、ザザ家による性産業の独占が許されているわけである。金の流れがなければ有り得ないことなので、まず間違いないだろう。
付け加えるならば、必要悪として目を瞑っているという側面もあるのかもしれない。そこには宗教も大きく絡んでくる話でもある。太教においては、不義密通は重罪となるので、人間以下の僕たち原住民や混血を性奴隷として扱い、脱法行為として残しているわけだ。
「まさか、何もしないってわけじゃないよな?」
ミクロスが睨みつけるが、ドラコは何も答えようとしなかった。
代わりに僕が答える。
「何かをしようにも、ここは外国だから何もできないってわけさ。オーヒン国というのは、高いお金を僕らの国に払って自衛以外の武力を放棄したわけだからね。王都の兵士がオーヒンで実力行使すれば、国家に賠償責任が発生するかもしれないんだ」
ミクロスがイライラする。
「だからって何もできないっていうのは明らかにおかしいだろう?」
「何もできないわけじゃないさ。この国の市民がそうしているように、市警に被害届を出せばいい。というよりも、当たり前の手順を踏むしか方法はないんだよ。領事館を通せば、捜査を拡大させることができるかもしれないけどね」
「それで捕まえられる相手じゃねぇだろうがよう!」
それは僕も分かっていることだ。
「オレ様を見てみろっ! 頭を割られた上、鼻までこんなにデカくされちまったんだぞっ!」
鼻は僕の責任だが、怒っているので黙っていることにした。
「オレ様は絶対に有耶無耶にさせるつもりはないからな」
ミクロスが興奮しているので、冷静にさせる必要がある。
「そうは言っても、手を出せば僕たちの方が捕まってしまうんだよ? 王都で盗賊を殺すのとは勝手が違うんだ。逮捕するにしても、僕たちの国で罪を犯したという確たる証拠が必要になるだろうしね。仮に証拠を揃えても、被疑者がオーヒン国の領土内にいれば、勝手に逮捕することもできないんだ。その場合は市警本部にいる警備兵に捕まえてもらうことになる。これだけ説明すれば分かったろう? まさに手も足もでないんだよ」
ミクロスが冷たい目で僕を見る。
「ジジ、お前が世話になった女、名前は何だっけな?」
「タンタンさんのこと?」
「おう、そうだ。次はその女が狙われるかもしれないんだぞ?」
彼女の顔が頭に浮かび、胸が痛くなった。
「お前は散々気持ちよくさせてもらって、終わったらどうでもよくなるっていうのか? それが世話になった女に対する態度かよ。そんな薄情で薄汚いヤツだとは思わなかったよ。それじゃあ女をオモチャにしているザザ家の奴らと変わらねぇじゃねぇか」
痛いところをつかれてしまった。
「おい、ドラコ、さっきからずっと黙りこくってるけどな、オレ様はお前にも失望しているんだ。なにが『モンクルスの再来』だよ。ちやほやされて調子に乗ってるんじゃないのか? なぜファンファンちゃんを捜す努力をしてくれねぇんだ」
ドラコにこんなことを言えるのは、世界中を探してもミクロスだけだ。
「お前たちが何もできずにビビってるなら、オレ様一人でも戦ってきてやるよ。さっきは油断したけどな、今度はただじゃおかねぇんだ。ザザ家の奴らを一人残らずブッ殺してやるからな」
そう言って立ち上がり、入り口に向かって歩き出した途端、ぶっ倒れてしまった。
「大丈夫か?」
ドラコに介抱されたミクロスが呟く。
「なんで、こんなに腹が減ってるんだ?」
それから隣の応接間へ移動して、ミクロスの食事を見守ることにした。胃に負担が掛からないようにと作ってくれたマリンさん特製の野菜スープで、それを彼は褒めちぎりながら平らげるのだった。
「ドラコ様、お願いがあります」
テーブルを囲む僕たち三人に草茶を提供した後、マリンさんから改めて話があった。
「広場には傷つき、苦しみ、もがき続けている女がたくさんいます。彼女たちには、夢や希望が何一つありません。夢を抱くことがどういうことかも分からずに、一欠片の希望すら見ぬまま命が削られてゆくのです。そんな彼女たちの現状を知りながら、わたしは何もできずに日々を過ごしてきました。そのような、無力なわたしにできることといえば、神に祈りを捧げることだけでした。そして、その祈りが通じたかのように、神はあなた様をこの地に遣わされたのです」
マリンさんもまた、神を信じる人だった。
「わたしたちが、あなた様と巡り会えたことは、決して偶然ではないと信じております。これが神のお導きならば、すべてを受け入れる、その覚悟ができています。どうか、あなた様の御意思をお聞かせいただけないでしょうか?」
マリンさんの話を聞いて、ドラコが熟考するのだった。それも当然の話だ。ドラコが生まれたキルギアス家は宗教に対して信心深い家系ではない。だから神様の話を持ち出されても戸惑うだけなのだ。
もちろん僕たちには国の宗教行事に参加してきたという過去はある。しかし、今回のケースは外交問題を考慮しなければならない案件なのだ。神様を盲信して突き進めることではない。
「分かりました」
そう言って、ドラコが立ち上がった。
そのままマリンさんの元へいって、向かい合った。
見上げる彼女の顔を見て、ドラコが口を開く。
「あなたの心を悩ませている悲しみや、苦しみや、痛みや、不安を、そのすべてを取り除いてみせると約束しましょう。それが今の正直な気持ちなのです。それを私の意思と受け取ってくださって結構です」
ドラコの言葉を受けて、マリンさんが胸の前で手を組んだ。
「すみません。神に祈らせてください。失礼します」
そう言うと、マリンさんが部屋を後にした。
「なんだよ。やる気だったのかよ。安心したぜ」
ミクロスが安堵する。
「オレ様の仇を取らずして、何が仲間だって話だもんな」
それに対して、ドラコの背中は複雑な心境を感じさせるものだった。それも当然である。彼は神様や、国王陛下ではなく、『マザー』と呼ばれるマリン・リングという、出会ったばかりの女性のために仕事をすると約束してしまったからだ。
ミクロスは気がついていないようだが、それはこれまでのドラコと決定的に違う部分である。おそらくドラコ自身が、王都の兵士として誤った言動を犯してしまったと、自責の念を抱いているのではないだろうか?
ドラコの決断がどのような結末を迎えるのか予想できないが、もしも時代が動くキッカケになるようならば、それはたった一人の女性の存在が歴史を動かしてしまったということになるだろう。
「ジジ、そろそろ兵舎に戻るぞ」
ドラコは夜明け前に戻っておきたいようだ。
「あれ? オレ様を置いて行くつもりかよ?」
ミクロスが不満顔だ。
「お前をしばらく預かってもらうことにした」
「おいおい、オレ様は犬っころじゃねぇんだぞ」
「まずはその頭の怪我を治すんだな」
「作戦はどうなるよ?」
「お前は顔を覚えられている可能性がある」
「外すのか?」
「時が来るまで大人しくしてるんだ」
「そりゃねぇぜ」
「勝手に動いてぶち壊すんじゃないぞ」
ドラコの中には、ザザ家とその背後にいる貴族の犯罪を炙り出す計画が、すでにあるというのだろうか。僕はいくら考えても何もアイデアが思いつかなかった。そこで兵舎に戻った後、寝室で二人きりになった時を見計らって訊ねてみることにした。
「ねぇ、ドラコ、広場の女性を救うってマリンさんに約束したけど、何か具体的な策はあるの? ザザ家は僕たちが相手にしてきた盗賊団とはまったく違うんだよ。オーヒンの貴族に守られている組織なんだ」
ドラコは寝台の上で仰向けになり、真っ直ぐ天井を見つめていた。
「なんとかしてみせるさ。約束したんだからな」
言葉数が足りない時は、話せないことがある時か、何も話すことがない時だ。
「その約束だけどさ、マリンさん本人はどのような解決方法を望んでいるんだろうね? さっきの会話だと、ドラコに任せると言ったっきりで、こうしてほしいといった要望はなかったじゃないか」
ドラコはしばらく考えて、それからゆっくりと口を開く。
「あの方は、すべて神に委ねてしまったのさ。だからどんな結果になろうと、そのすべてを受け入れるだろうよ。だけど俺は神じゃないし、神の使いでもないからな、行動を起こすには、万人を納得させるだけの大義が必要になるんだ」
ドラコが、まるで神と人間の間で板挟みになって苦しんでいるかのように見えた。
「しかし今回ばかりは失敗に終わる可能性もあるな。それは広場の女たちを救えないという意味でもあるんだ。だからこそ、あの方だけは守り抜かなければならない。マザー・マリンは、広場の女にとっての唯一の救いであり、希望だからな。だから俺たちがどうなろうと、あの方だけは今回の問題に巻き込まないようにしなければいけないんだ。今後、俺たちの間で名前を出すのも控えた方がいいだろう。どうだ、ジジ、守ってくれるか?」
「う、うん」
「よかった。それじゃあ、眠るとしよう」
返事はしたものの、僕はどうしてマリンさんがそこまで大切にされているのかイマイチ理解できなかった。
翌朝、目を覚まして隣の寝台を見ると、すでにドラコの姿はなかった。ランバに確認すると、アポなしでオークス・ブルドンの邸へ押し掛けに行ったという話だ。そして、そんな日々が一週間も続いたのである。
作戦を練っている時のドラコは一切話し掛けてこないので、僕の方からも声を掛けることができなかった。もっとも、当のドラコは毎晩お酒を飲んで酔っ払った状態で寝床に就くので、会話どころではないというのが現実だった。
「ねぇ、ランバ、ドラコは大丈夫なのかな?」
ドラコと話せない時は、副長室にいるランバと話すのが一番だ。
「隊長なら心配いりませんぞ」
「計画は進んでいるのかな?」
「さあ、どうでしょうな」
どうやらドラコは腹心のランバにも何も話していないようだ。
「毎日酔っ払って帰って来るけど、何してるんだろうね?」
そこでランバは書類に目を落とした。
「七日前にオークス・ブルドンと会って、六日前にデモン・フィウクス、五日前にゲミニ・コリヴス、四日前にゲティス・コルヴス、三日前にハンス・フィウクス、二日前にルークス・ブルドン、そして昨日はイワン・フィウクスに婚約者を紹介されたと言ってましたな」
フィウクス家の長男の婚約者ということは、王妃になる可能性もあるということだ。しかもルークス・ブルドンは放蕩三昧で、ゲティス・コルヴスは本人が消極的なので、イワン・フィウクスが次期国王になる可能性がもっとも高いのである。
「二人とも、待たせたな」
そこへドラコが現れた。
「準備ができたぞ」
信じられないことに、ドラコは七日間で作戦を練り上げてしまったのである。




