第七話(51) マリン・リング
目の前の男が捜し求めていたドラコであることを知ったモンモンさんは、唖然としたまま固まってしまった。彼女にとっては伝説となったモンクルスやジェンババと邂逅したかのような心境なのだろう。
「約束だ。俺たちをミクロスの元へ案内してくれ」
モンモンさんがコクリと頷く。
「分かった。でも気をつけてほしいの。これから行くのは『マザー・マリン』とか『マザー・リング』と呼ばれていて、アタシたちにとって最も大切な人が暮らしている家なんだ。居場所を教えることになるけど、日中は不用意に近づかないと約束してくれる?」
ドラコが頷く。
「ああ、約束しよう」
「ジジ、あなたも約束して」
「うん。約束するよ」
「じゃあ行きましょう。案内するわ」
ということで、モンモンさんに連れられて、重傷を負ったミクロスがいるマリン・リングの邸へ向かうこととなった。どうやらその女性は、この地を治める領主という話だ。南部に女領主はいないので、北方部族で間違いなさそうだ。
「ここよ」
真夜中なので正確な現在地を確認するのは難しいが、連れられてきた場所は、周囲の山々の陰影から察するに、カーネーション広場からそれほど遠くない位置にあることが分かった。それでもオーヒン市の市街地から遠く離れていることは確かである。
外観は立派とか豪勢とかというよりも、堅牢といった感じだろうか。ハシゴがなければ上れない石壁の周辺に門兵を立たせて見張らせており、壁の内側にある敷地内にも警備兵が寝泊まりする兵舎が建てられていた。
厩舎には肉付きの良い馬も飼われており、腕のいい調教師を雇っているということも見て取れた。出入り口を管理する警備兵も屈強で、彼が守っている人が、どれだけ大事な人なのか、ということも一目で分かるのである。
「ハッチ、ドラコ様を連れて来たの。マザーに会わせて」
モンモンさんが扉の前に立つ男に話し掛けた。
「この男がドラコであるという証拠は?」
そう言って、ドラコを見下ろした。
ハッチという男は、大柄な僕ですら見上げなければならない大男だった。
モンモンさんが口を尖らせる。
「ミクロスに会いに行く王都の兵士が、ドラコの名を騙ると思う?」
「確かにそうだな。しかし武器がないか調べさせてもらうぞ」
そう言うと、初めに僕の身体を丹念に調べ上げるのだった。
「お前は槍術に秀でているようだ。しかしミクロスより足は速くないようだな」
次にドラコの身体を同じように調べた。
「バランスのいい筋肉の付き方だ。手の平が厚く、両手とも硬くなっている。その若さでこれほどの肉体を作り上げるとは、幼少の頃から努力を惜しまなかったようだ。間違いない。あなた様がモンクルスの再来、ドラコ・キルギアスで間違いない」
そう言って、ハッチは邸の扉を開け放つのだった。
「ようこそ、おいでくださいました。さぁ、中へ入られよ」
真夜中にも拘わらず、家の中に明かりが灯されていた。玄関ホールは吹き抜けとなっており、二階へと続く階段が緩やかに伸びている。僕たちが案内されたのはそこではなく、一階の廊下の奥にある応接間だった。
「ここで待っていてください」
ミクロスに会う前に、マリン・リングに挨拶をしてほしいということで、モンモンさんが家主を呼びに行ってしまった。邸の中で僕とドラコを二人きりにさせたということは、すでに信頼が得られたということでもある。
応接間は長いテーブルと椅子が六脚ほど仕舞われているだけの簡素な部屋だった。他に目につくのはガラスくらいだろうか。窓に薄い板ガラスが嵌めこまれているということは、治安が守られているということだ。
ドラコが無言を貫いているので、僕も口を開かないように努めた。他人の家では会話を聞かれる心配があるので、家人がいないところで家人の話をしてはいけないのである。それが更なる信頼に繋がる重要な要素でもあった。
「お待たせしました」
入り口に羽衣を纏った美しい女性が立っていた。
「お久し振り」
そこで訂正する。
「ではなくて、初めてでしたね、マリン・リングと申します」
成人のモンモンさんがマザーと呼んでいたので、てっきり四十代か五十代の女性かと思っていたのだが、目の前に立っている貴婦人は、ランバと同じくらい、いや、僕たちと変わらない年齢の女性だった。
ハッキリした目鼻立ちから、やはり予想した通り北方部族の血が流れているようだ。ドラコと同じ髪色だけど、当たり前だが、彼女の方が光沢のある美しい質感をしていた。か細い身体をしているので、山暮らしをしている部族の生活はしたことがないのだろう。
全身から気品が漂ってくるので、おそらく生まれた時から貴族の令嬢として育てられたに違いない。『マザー』というからには結婚しているのだろうが、とても子どもがいるようには思えなかった。
「あなたがドラコ様ですね」
ドラコが無言で頷いた。それはいいのだが、いつもは相手の目をしっかり見つめる男が、マリンさんの前では俯いているのが気になった。まるで王宮の中で王女様に出くわした時のような態度である。
「そして、あなたがジジ様ですね」
「はい」
「ようこそ、おいでくださいました。お会いできて光栄です」
燭台の明かりに照らされたマリンさんの微笑みは、冷え切った身体を温かくした。
「ありがたきお言葉、感謝いたします」
ドラコの返事はたどたどしかった。
「こんな夜更けに押し掛けてしまい、申し訳ありません」
「どうか、お気になさらないでください」
「早速ですが、ミクロスに会わせていただきたいのですが」
「はい。承知しました。ご案内します」
そう言って、連れて行かれたのは隣の客室だった。
「一昨日から意識が戻らないのです」
マリンさんの言う通り、寝台に寝かされたミクロスは死んだように眠っていた。
ドラコが訊ねる。
「手当をしたのは、どなたですか?」
「医者に診てもらいましたが、頭部の打撲が原因ではないかと仰っていました」
ミクロスの頭に包帯が巻かれてあるので、裂傷もあるのだろう。
「頭部以外にも傷はありましたか?」
「他に外傷はないと仰っていました」
「そうですか」
そう言って、ドラコは難しい顔をした。王都の兵士が他国で事件に巻き込まれたわけだから、領事館を通せば、捜査権のない僕たちも捜査に加わることが可能となるかもしれない。そうなれば、犯人逮捕の確率は高くなるだろう。
一方で、ザザ家の用心棒を一人捕まえたところでどうなる、という問題もある。捕まえた暴行犯がファンファンさんのことまで話すとは思えないし、ザザ家に関係している貴族の名を明かすとは到底考えられないからだ。
そもそも捕まえることも難しくなるかもしれないのだ。僕たちが捜査に乗り出した時点で情報が流れて、捕まえる前に逃亡を許すということが大いに考えられるからである。
「リング夫人、一つだけお願いがあるのですが、よろしいでしょうか?」
ドラコの言葉に、マリンさんが困り顔で微笑む。
「わたしは未婚ですので、『夫人』という呼び方は困りますわ」
その言葉を受けて、ドラコが慌てふためくのだった。
「私は、その、決して、あなたが、老けて見えるから、そのように呼んだわけではありません。どうか、お願いですから、気を悪くなさらないでください。あなたは、とても美しい女性です。ああ、すいません。私は何を言っているのか」
ドラコはどうしたというのだろうか? 百人以上の盗賊を前にしても怯まずに平然としている勇敢な男が、たった一人の年上の女性を前にして動揺しているのだ。こんなにも情けない姿を晒したのは生まれて初めてかもしれない。
「気にしていませんので、そのお願いというのを仰ってみてください」
彼女は年若いというのに、母親のように微笑むのだった。僕は両親がいないので母性の存在を知り得ない。その母性を、なぜだかマリンさんの微笑みに感じられるのだ。
そして、ドラコもまた母親の愛情を知らない子どもだった。彼も僕と同じように、マリンさんの中に母親への幻想を抱いているのかもしれない。
「これ以上ご迷惑をお掛けすることは心苦しいのですが、ミクロスの意識が戻るまでの間、ここで私たちに仲間の看病をさせていただけないでしょうか? あなたの生活を侵害しないと約束しますので、どうかお願いいたします」
頭部を怪我した者はあまり動かさない方がいいと聞いたことがあるので賢明な判断だ。
「約束など必要ありません。充分回復するまでお使いください」
ドラコ・キルギアスは、受けた恩は必ずキッチリと返す男である。しかし、今回の一件は外交問題にも発展する恐れのある案件だ。今回ばかりは、彼がどう立ち回るのか、長年一緒にいる僕ですら予想ができなかった。
「ジジ、すまないが、夜が明ける前に兵舎に戻ってくれないか? 戻ったらランバに事の経緯を話すんだ。ただし、ランバ以外には話すんじゃないぞ? ミクロスがやられたとなると、血の気の多い者が騒ぎ出すからな。それから俺とミクロスは仕事でしばらく戻らないことにしておくんだ。ランバにすべてを話したら、お前はゆっくり休め。そして夜になったら、もう一度ここへ一人で来るんだ。ジジには連絡役になってもらう。いいかい? 決して周りに気づかれるんじゃないぞ」
ドラコの指示に従って、早速兵舎へ戻ることにした。明日もう一度来ることになっているので、道順を確認しながら帰った。寒い時期で動物たちの気配がないので、こちらの気配を消して歩けば秘密裏に移動できる。
「おお、ジジ殿、心配しましたぞ」
兵舎の副長室に行くと、ランバが椅子から腰を浮かせて声を張り上げた。この男はドラコのことが心配で一睡もできなかったのだろう。着替えもせずに、この部屋で一人ひたすら待ち続けていたようだ。
「隊長はご無事か?」
「うん。ただ、ミクロスの方は酷い怪我を負ってしまって、ドラコが看病してるんだ」
「怪我というのは?」
そこで僕はこれまでに起こったことをすべてランバに報告することにした。ザザ家のことや、ザザ家と関係のある貴族がいることや、マリン・リングのことなど、知っていることは漏らさず伝えた。
「――明日の夜になっても目を覚まさぬようなら、これを塗っておあげなさい」
そう言って、ランバは机の抽斗から軟膏を取り出した。
「なんだい、それは?」
「気付け薬だ。それを鼻の内側の粘膜に軽く塗ってやるといい」
「薬の中身はなにかな?」
「それは知らんのですよ。なにしろ婆様とお袋しか作り方を知りませんからな。他の者に教えると商売になり、原材料が不足することになります故、こればっかりは、たとえ隊長の盟友であろうとも、お教えすることはできないというわけですな」
ランバの家には独自の薬学が伝わっているのは知っているが、やはり今回も主成分や製法までは教えてくれなかった。良い薬は良いビジネスになるが、貴族を相手にするには、医者という職業は無理な責任を取らされるので高いリスクを伴うのが現代社会だ。
「ところで聞きたいことがあるんだけど、マリン・リングとは何者なのかな?」
ランバが首を振った。
「分かりませんな。聞いたこともない名前ですぞ」
「それだとザザ家と関係のある貴族も知らないよね?」
ランバが頷く。
「うむ。そちらも見当がつきませんな。しかしザザ家の悪評に関しては説明するまでもありませんぞ。人さらいで有名ですからな。手を打たぬということは、なるほど、裏に貴族の後ろ盾があるわけですな」
ランバでも僕と持っている情報は変わらないようだ。
「それで、隊長のご指示は?」
「いや、何も言われなかったけど」
「はあ、つまり『下手に嗅ぎ回るな』ということでしょうな」
ランバはドラコの腹心なので、昔から意図を汲み取るのが抜群に上手かった。何も指示を出さなかったということは『普段通りの行動を心掛けよ』という命令でもあるわけだ。
「それじゃあ、僕は休むように言われているから、腹ごしらえしてから寝るとするよ」
翌日、日が沈んでからしばらく待ち、酔っ払いが町から姿を消すのを見計らってから兵舎を出た。外は身震いするほど寒かったけど、ひと目を避けて、遠回りしながらマリンさんの邸へと向かった。
周辺を警備している私兵に声を掛けると、丁寧な扱いで出入り口を管理しているハッチのところまで案内してくれた。この日の彼は無言だったが、それが本来の姿なのだろう、やるべき仕事を淡々とこなしていた。
「やあ、ジジ」
客室に入るとドラコが一人でミクロスを看病していた。
「ミクロスの意識は戻った?」
「いや、昨夜と変わらないな」
「ランバから気付け薬を預かってきたんだ。鼻の内側に塗るようにって」
ドラコに軟膏を預けた。
「よく気がつく男だな」
そう言って薬を受け取ると、早速ミクロスの鼻に塗り付けるのだった。
塗ったそばから、鼻の辺りがピクピクと動き始めた。
「反応があるよ」
嬉しくて、思わず声が出た。
「様子が変だぞ」
ドラコが訝しがるのも無理はなかった。
「うん。鼻がどんどん腫れていってるよ」
ミクロスの鼻がブタの鼻のように赤く膨らんでしまった。
「呼吸もおかしいぞ」
息が苦しそうだ。
「ああう、ああう」
すると突然、喉元を押さえて呻き始めるのだった。
「ミクロス!」
ドラコの言葉に、カッと目を見開いた。
「ブハッ!」
次に鼻の頭を押さえて、寝台の上でのた打ち回るのだった。
「痛てぇ、痛てぇよ。鼻がもげるよ」
ドラコがミクロスの身体を押さえる。
「洗面器に水が張ってある。よく洗うんだ」
ミクロスが水を求める。
「ああ、うう」
洗面器の水を使って、鼻の洗浄を始めた。
「代わりの水をもらってくる」
そう言うと、ドラコが部屋を飛び出して行った。
「鼻が、オレ様の鼻が」
僕はドラコのように機転を利かすことができなかった。
「痛てぇ、痛てぇよ」
そこで不意にランバの言葉を思い出した。確か彼は薬を渡す時に、『鼻の内側の粘膜に軽く塗ってやるといい』と言ったのだ。それを僕は『軽く』の部分をドラコに伝え忘れてしまったのである。
「お湯をもらってきたぞ」
ドラコの後ろにはマリンさんもいる。
「手ぬぐいも使ってください」
お湯で薬を洗い流して、手ぬぐいでキレイにぬぐい取り、そこでようやくミクロスが平静を取り戻した。しかし握り拳くらいにまで膨らんだ鼻は元に戻ることはなかった。その部分に関しては経過を待つしか手の施しようがないようである。
「ところで、ここ、どこだよ?」
ドラコが説明する。
「お前を助けてくれたマリンさんの家だ」
「三日も眠り続けていたのですよ」
ミクロスがマリンさんを見て、目を丸くする。
「うひょっ、キレイなお姉さんだな」
どうやら怪我の後遺症はなさそうである。




