第三十七話 逃走
死を前にした時、俺は友を置き去りにして逃げられる人間だということが分かった。どんなに格好のいい言葉を口にしても、その事実を消し去ることはできない。それが俺の本質である。
丘の斜面を下り、足がもつれそうになりながら、なんとか森を抜け、やっとの思いで民家が見えるところまで辿り着いた。街道の真ん中で咳き込んでいるボボを見て、確かな生を感じられた。
この背中の辺りの痛みこそが生きている、ということなのだ。人間には喜怒哀楽といった様々な感情が備わっているが、生を実感させてくれるのは感情ではない。痛みだけが俺を確かな生へと繋いでくれているのである。
「化け物だ」
そう言うと、ボボが地べたの泥水など気にせず仰向けになった。
「あれも幻なのか?」
と言いつつ、俺も足が震えて立っていられなかった。
「幻だけど、生きている者を殺せるんだ」
「どうして幻、いや幽霊に人が殺せるんだ?」
「きっと頭が殺されたと思ってしまうんだ」
「幽霊なんだぞ?」
「頭が思い込んでしまったら、肉体は死ぬしかない」
「ケンはどうなる?」
それには答えてくれなかった。
「このまま見捨てなくちゃいけないのか?」
それにも答えない。
「これからどうすればいいんだ?」
やはり答えなかった。
「このまま帰るなんて、俺にはできないよ」
そう言うと、ボボが上体を起こして俺を睨みつけた。
「生きて帰って何が悪い。どうして後ろめたく思う必要があるんだ」
ボボの言う通り、この期に及んで、俺はまだ格好をつけようとしていた。
「すまない」
どういうわけか、ボボが謝った。
「ペガばかり悪者にしていたな。自分でも頭の中がおかしいと分かっているんだ。オイラがオイラじゃないような感覚だよ。こんなのは生まれて初めての経験だ。きっとあの化け物を見てしまったからだな」
そう言って、泥水で顔を洗いだした。
「いや違う。これもオイラなんだ。幽霊のせいになんかしちゃいけないんだ。逃げたのも、ケンを助けに行かないのも、開き直るのも、全部怖いからなんだ。それを認めたくないのも、やっぱり怖いからなんだな」
幽霊と遭遇して自分の醜い部分と向き合わされたのは、俺だけではなかったようだ。ボボもまた死を司る化け物を前にして、自分の内に新たな一面を発見したようだ。
「うん?」
ボボが目を凝らした。
視線の先に、剣を杖代わりにして歩くケンタスの姿があった。
その瞬間、起き上がり、自然と駆け出していた。
「ケン!」
声を掛けると、膝から崩れるように倒れてしまった。
俺よりも先にボボがケンタスの元に駆け寄った。
「ケン!」
ボボの声にピクリとも反応しなかった。
「しっかりしろ」
とボボが抱きかかえた。
「ケン!」
耳元で呼んでみたが、反応はなかった。
「しかし、これはどういうわけだ?」
そう呟かずにはいられなかった。
何より目につくのが全身の痣だ。
身体中に内出血の痕が認められるのだった。
「俺たちが見たのは幽霊じゃなかったのか?」
「いや、幽霊で間違いない」
「この怪我はどう説明する?」
ボボによる持論。
「それはさっきも言ったはずだ。頭が攻撃を受けたと思い込んでしまったら、肉体が勝手に反応して痣ができるんだ。痛みだって勝手に感じているに違いない。あの幽霊はオイラたち人間を殺せてしまえるんだよ」
説明を受けて理解できるのは、実際にあの幽霊と遭遇した者だけだろう。重い大剣を何度も振り回し、それでいて息が上がらないという不可思議な恐ろしさ。攻め疲れを起こさない相手とまともに戦えるはずがないのだ。ケンタスだから生還できたのである。
「とにかく帰って寝かせよう」
ボボがケンタスを背負って歩いている間、俺は幽霊のことばかり考えていた。見たことのない顔であることは確かだ。しかし今となっては、その顔すら思い出せなくなっていた。あの幽霊がガサ村で死んだ人が口にしていたジュリオス三世なのだろうか?
「ケンタス!」
官邸の玄関口に到着すると、首都長官のユリスが駆け寄ってきた。それから床に寝かせたケンタスを胸に抱きかかえるのだった。この男は自分が泥だらけになることを厭わない人のようだ。やっぱり貴族らしくない人物だ。
「フィルゴ、身体を拭いて部屋まで運んであげてくれないか?」
ユリスはこんな時でも補佐官に命令しなかった。
「さあ、二人も湯浴みをしてから着替えるといい」
着替えを済ませた後、ボボと二人で遅い昼食をいただき、食後に長官室へ移り、そこでユリスとフィルゴに朝の出来事をすべて話した。質問を受けて俺が答えるという形式で報告を終えた。信じられないような話なのに終始真剣に聞き入ってくれた。
「シューレの話と一致しているな」
ユリスが口にしたシューレというのは熟練兵の生き残りの男だ。彼もまた俺たち同様に仲間を置き去りにして逃げたようだ。その男も自分の行為に自責の念を抱いているようだが、ユリスは俺たち二人に「恥じることではない」と強調して慰めてくれた。
「よし、フィルゴ、王城跡は全面立ち入り禁止にしてくれ。本格的な調査は王都から戻ってからとする。入り口を完全に封鎖して、見張りを交代で立たせた方がいいだろう。長旅に同行できない者の中から選ぶといいが、人選は任せるとしよう」
「御意」
とフィルゴが承知した。
「殿下、王家の墓についてはいかがされますか?」
「そちらは後でいい。旅の支度を優先してくれ」
「御意」
そう言って、フィルゴが退室した。
「王家の墓で何かあったのですか?」
ケンタスがいないので、俺が訊ねた。
「ひと月近く前に荒らされたんだ。金目の物が埋まっていると思い込む者が後を絶たなくてね。あったとしても戦争が終わった三十年前には掘り起こされていただろうし、もう何も残っていないさ。しかし幽霊騒動の発端はその墓荒らしがきっかけではないかと、フィルゴは考えていてね、関連についても調べた方がいいんじゃないかと言うんだ」
一息ついて、気持ちを切り替える。
「いずれにせよ、王都から戻ってからじゃないと何も手をつけられそうにない。君たちは任務を終えたのだろう? だったらしばらくゆっくりしていくといい。私は明日の朝には出立するが、あの身体ではケンタスも安静にしていなければいけないだろうから、好きなだけここにいるといいよ」
そこでユリスが深いため息をつく。
それから両手を組み合わせて天井を見上げた。
視線はちょうど二階で休んでいるケンタスがいるところだろうか。
「ああ、ケンタスよ。どうか、早くよくなっておくれ」
この人は純真すぎる。
身分が違うのだから、名前など呼ばなくてもいいのだ。
却ってこちらの方が心配になるくらいだ。
「ケンタスなら大丈夫です。前に『年を取った自分が絵のように見えている』と言っていましたから、死ぬことはないと思います」
ユリスが頷く。
「ありがとう」
わざわざ礼を言うのだから、やはり変わり者だ。
「しかし賊の仕業ではないことが分かっただけでも良かった。相手が幽霊ならば、こちらから踏み入れなければ実害はなさそうだしね。それが分かっただけでも助かったよ。これで仲間を残して長旅に出られる」
その日、結局ケンタスは目を覚ますことはなかった。目を覚ましたのはユリスが結婚したばかりの奥さんと五十人の旅団を引き連れて旅立った後だった。旅立つ前にユリスがケンの元へ来て祈りを捧げていたのが通じたのかもしれない。
「ケンタスが目を覚ましたぞ」
フィルゴに声を掛けられた時、俺は官邸の会議室に籠っていた。本当は書庫へ行って、カイドル国の歴史が詰まっている本を読みたかったのだが、いかんせん使われている文字が読めなかったので諦めたのだ。
そこで紙をもらって、昨日から一日かけて地図を描いていたというわけだ。オーヒン国の街で売られていた地図を参考にして、自分の足で確かめた距離感をそのままにして描いてみようと思い立ったのだ。
完成度に関しては、かなり自信を持っている。ユリスが旅立つ前にエルマという奥さんの召使いがやってきて、俺が描いた地図を見て「よく出来てる」と言って褒めてくれたからだ。「本物の地図とそれほど距離感が変わらない」とまで言ってくれた。
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「よく死ななかったな」
「負けは負けだ」
そう言うと、ケンタスはチキンにかぶりついた。食堂には俺たちの他にもフィルゴとボボもいたが、食事をしているのはケンだけである。一羽の鳥が骨だけになっていく様を見て、白骨化する死体を思い出して気持ちが悪くなった。
「幽霊相手に勝ちも負けもないだろう」
「そんなことはないさ。ガサ村では幻を打ち破ったからな。王城の幽霊だって退治する方法はあるはずだ。今回は単純にオレの力不足だよ。本当の戦場ならば逃げ延びることもできなかっただろう」
官邸の留守を預かるフィルゴも草茶を飲みながら会話に加わる。
「幽霊を退治する方法があると?」
ケンタスが首を振る。
「それは残念ながら今のところ分かりません。ガサ村では攻撃を加えれば一瞬で消えていなくなりましたが、王城の幽霊はこちらの一撃が空を斬りましたからね。何がどう違うのか分からないんです」
「あの化け物に反撃できたのか?」
信じられずに訊ねてしまった。
「ああ、しかしそれだけだ。せめて首か心臓を突ければもっと多くの情報を得られたんだが、やはり力不足を感じるよ。しかし興味がある相手ではある。生まれて初めて真剣勝負をすることができたからな。練習で得られる経験ではなかった。戦いながら、オレはもっと強くなれると感じることができたんだ」
コイツもあの幽霊と同じくらいの化け物だということを失念していた。やはり俺やボボは逃げて正解だったのだ。ケンタスの性格ならもう一度挑んでみたいと思っても不思議ではない。そんな奴の心配をして自分を責めていたのがバカらしく感じた。
「もう一度、手合わせ願いたいものだ」
フィルゴが咳払いをする。
「殿下から立ち入り禁止の命令が出ておる故、くれぐれも勝手な行動は慎むように肝に銘じておくのだぞ。いくらドラコの賢弟であっても、殿下が不在の間は勝手な真似はさせぬからな」
「以後、慎みます」
とケンタスが素直な返事をした。ユリスが魅力的な人物でなければこうはならなかっただろう。ケンのことだから、翌朝こっそり抜け出して、もう一度あの化け物に会いに行っていたに違いないからだ。
「それでは私は職務に戻るとするか、そなたらはゆっくりとするがよい」
そう言って、フィルゴは食堂を出て行った。俺はそれからケンタスに寝ている間に交わしたユリスとの会話について余すことなく報告することにした。それが幼い頃からの癖になっているのだ。その癖のおかげで記憶力が向上したようなものだ。
「墓荒らしか……」
ケンタスが興味を持ったのはそれだけだった。
「気になるのか?」
「ああ。あの幽霊騒動の発端と言われたら尚更な」
「王家の墓は立ち入り禁止になってないぞ?」
ケンタスが即座に否定する。
「いや、やめておこう。カイドル国の歴史や滅んだ王家について調べるには時間が足りない。幽霊騒動は兄貴に任せるとして、オレたちも早めに王都へ戻ることにしよう。兄貴を呼び戻すための伝令だとばかり思っていたが、長官が『大事な投票がある』と言っていただろう?」
ユリスが感情的になっていた。
「それに伴って重大な発表があるかもしれないからな。こうしている間にも新国王が誕生し、人事が刷新され、ハクタに都が遷るかもしれないんだ。オレたちも歴史的瞬間を王都で立ち会ってやろうじゃないか」
ということで、その日のうちに旅の準備を整えて、昼過ぎには官邸を出ることになった。フィルゴは呆れつつも、オーヒン国で困らないようにと銀貨をくれて、わざわざ見送りまでしてくれた。
「海岸線のルートも見ておきたかったんだけどな」
ケンタスは復路も最短距離で帰れる山岳ルートを選択したので、思わず愚痴をこぼしてしまった。同日出発のユリス一行よりも五日から六日は早く王都に到着できる予定だが、そこまでして急ぐ理由が俺には理解できなかった。
「どうせならユリスに追いついて一緒に王都へ行けばいいんじゃないか?」
「オレたちが楽をした分、長官に負担が掛かるんだぞ?」
やっぱり俺の浅い魂胆は簡単に見抜かれてしまった。もう、それ以上は何も言うまい。しかし幽霊騒動を放置して引き揚げなければならないというのは、何ともすっきりしない終わり方だった。
夜更けになって、ソレインのいるソレイサン村に到着した。村は寝静まっていたが、見張りの男が俺たちに気づいて、わざわざソレインを起こしてくれた。三日前に別れたばかりだったので懐かしいという感じもなかった。
「そいつはパルクスの亡霊だぜ」
ソレインの家でブドウパンとホットミルクをいただきながら、俺たちが遭遇した幽霊について語ったところ、返ってきた幽霊の正体がそれだった。村長もまた幽霊の話を疑うことはなかったのである。
ケンタスが訊ねる。
「それは一体、誰のことですか?」
ソレインがブドウ酒を口に含む。
「ああ、そうだったな。王都の人間にはジュリオス三世と呼ばれているんだっけ? 正式な名前がパルクス・ジュリオス・アクアリオスだったかな? おれたちの間ではパルクスと呼ばれてるんだ。その親父がハルクスで、爺様がガイクスだな。皇帝の名前は覚えるのが大変なんだよ。その前がルア・ノアで、その前がハカン・アクアリオスで、その前がシャンパと、ほら、ごちゃごちゃしてるだろう?」
ケンタスが驚く。
「今まで疑問を持たなかったのが自分でも不思議なんですが、カイドル帝国というのは必ずしも原住民系から皇帝を輩出しているわけではないんですね。アクアリオスやジュリオスなど移民系由来の名前じゃないですか?」
ソレインが解説する。
「おれたちの国は伝統的に強い者が国を治めてきたからな。どこの部族かなんて関係ないんだ。ハカンやガイクスは自分の力で王様になったのよ。それぞれシャンパやルア・ノアに認められた後継者だったわけだから誰も文句は言わねぇのさ。それこそ大昔は女王が治めていたわけだし、そこが大陸の大帝国との大きな違いだから、理解できなくても当然だわな」
起源が女王国だったとは驚きだ。
「ジュリオス家から三代続けて皇帝が輩出されたけど、それだって力があったからだ。まぁ、二代目のハルクスの場合は半分ジェンババのおかげだけどな。といっても、戦争で最前線に立ったことで王として認められたわけだから、反対する奴なんていないんだ。そこがお前たちの国の世襲との大きな違いさ」
力を持つ者が国を治めるなんて、まさに理想的国家だ。絶対的な階級社会に生まれたせいか、余計に眩しく感じられるのだ。独裁政治を危ぶむのは、絶対的な階級社会を脱してからでも遅くないはずだ。
「しかしな」
ソレインが酒を呷る。
「こんなことをお前たちに言っても仕方ないんだが、おれたちの国がおかしくなっちまったのは移民系が王になってからってのも間違いないんだよな。結果的に国が滅んだんだから、そう思っても仕方ねぇだろう? 根拠を示せと言われたって書物なんて残ってないし、証拠なんて用意できないんだけど、歴史は改ざんできても、国が滅んだ事実は変えられないんだぜ? どうしてこうなったのか、それくらいは知っておきたいじゃないか」
そこで村長がケンタスに微笑む。
「それでお前の兄貴のドラコが今それを調べてくれているところなんだ。最近じゃ、あの男の方がカイドルの歴史に詳しいくらいだ。どうしてあんなにも他人のために生きられるんだろうな? 当の本人は『好奇心が強いだけだ』と涼しい顔をして誤魔化しているが、簡単なことじゃないことくらい、おれにだって分かるってんだ。まったく、アイツほど生き様が格好いい男は見たことねぇよ」
涙ぐむので酒を注ぎ足してやった。
「しかし弟の方もなかなかのもんだな。兵士が幽霊に殺されていると知ってて、わざわざ行くかね? 剣を交えて身体中に痣まで作ってよ。それで生きて帰ってきたわけだろう? ドラコですら調べが終わるまで墓には近づかないようにしてたんだぜ? おれたちにも怖い顔をして近寄らないように釘を刺していたくらいなんだ。同じ兄弟でもやっぱり性格は違ってくるもんなんだな」
そいつに付き合わされる俺のつらさよ。
ケンタスが訊ねる。
「兄は幽霊騒動についてどこまで調べがついていましたか? 調べた上で王城跡の幽霊をジュリオス三世と推定したわけですよね? どうして見てもいないのに、そこに辿り着けたのかが分からないんです」
「ああ、それはドラコの憶測じゃねぇよ。王城で働いていた爺さんがいて、その爺さんがパルクスを見たと言うから、そうじゃないかとピンときたのよ。最初は夢でも見たんじゃないかと思ったけど、お前の痣を見たら信じるしかねぇだろう?」




