第三十四話 軍師ジェンババ
ジェンババが生きている?
五十年前に『テノンの奇跡』を起こした歴史上の人物だぞ?
しかも会える距離にいると?
どうなっているんだ?
俺たちは幻を見ているのか?
それとも今のは幻聴か?
「どうした? みんな急に固まっちまって」
ソレインが不思議がっているが、開いた口が塞がらないとはこのことだ。ケンタスも思考が止まったかのように放心しているし、いつも無表情のボボですら目を見開いたまま固まっている。
「ああ、そっか、悪い悪い、ジェンババのことはまだ話してなかったんだな。どうもお前たちとは今日会ったばかりとは思えなくてな、説明を欠いた言葉になっちまうぜ。そうそう、周りの奴らには内緒だが、ジェンババはまだ生きているんだ。といっても、そろそろくたばりそうだけどな。それでも口だけは達者で、おれなんて会うと怒られてばっかりさ」
村長が思い出す。
「この前も『山は拓くな』と怒られたばかりだ。『山は天然の城壁になる』って言ってさ、国が滅ぼされちまったっていうのに、まだ戦争が起こると思ってら。おれとしては、馬車道くらいは作った方が貨物の輸送に便利だから、今より金を稼ぎやすくなると思うんだが、それだと『虫の行き場がなくなる』って言うんだな。『虫を生かすのが結局は子孫のためになる』んだとよ」
ジェンババは死を前にしても死んだ後のことを考えているようだ。
「そうだ、ジェンババが生きていることも内緒にしてくれよな。三十年前に処刑されたことになってるのは知ってるだろう? 村の連中だって限られた奴しか知らねぇんだ。お前たちに話したのは、ドラコからの伝言を託しているみたいなもんなんだからさ」
ソレインはお喋りだが、線引きはしっかりしているようだ。
「あの」
ケンタスがやっと口を開いた。
「ジェンババと会わせてくれませんか?」
ソレインは悩まなかった。
「そうだな、ドラコの弟ならそう言うだろうと思ったよ。よし、連れて行ってやるから、お前たちはもう寝ろ。真夜中に起こすからしっかり寝るんだぞ。居場所を悟られないように昼間は近づかないことにしてるんだ」
ということで、言われるままに眠ることにした。考えたいことが山ほどあるが、兵士は強制的に睡眠を取らないといけない時もあるので、今晩はしっかり休むことにした。願うのは、これが夢じゃないことだけだ。
「起きろ」
目が覚めた瞬間から心臓が高鳴った。急いで旅装を整えて村を出ることになった。厩舎の見張り番の人はすべて承知のようで、ドラコの弟を見つけて嬉しそうな顔をしていた。村を出た後は戻らずに州都へ直行だ。
「案内はするが、今後おれに許可なく勝手に行くのはなしだぜ」
そう言うと、ソレイン・サンは黙って俺たち三人を森の中へと誘った。この人との約束は守らなければいけない。こちらが守れば、彼もまた約束を絶対に破らない、と思える人だからである。
馬は夜中に起こされたというのに嫌な顔を見せなかった。必要な睡眠時間がかなり短いとはいえ、それがとても愛おしく感じられるのだ。州都に到着したら美味しい野菜を腹いっぱい食べさせてやりたいものだ。
俺はといえば、先ほどからどうにも動悸が収まらないでいた。呼吸もおかしいし、常に息苦しく、吐き気も催している状態だ。これが、いわゆる他人がよく口にしている緊張というものだろうか?
ソレインの後をついて歩いているだけなので、もうすでに道が分からなくなっていた。これでは自力で村に戻ることも難しいだろう。先ほどから同じ場所を行き来しているように感じるのは、村長が周囲を警戒しながら歩いているからなのかもしれない。
「着いたぞ」
切り立った岩山の崖下に連れて来られた。
「夏場はここで暮らしているんだ」
岩肌に岩窟が見えた。
周りに川がないので人工的な岩窟だろうか。
「ここまで来れば大丈夫だ」
と太い蝋燭を取り出して火を点けた。
「爺さん、入るぜ」
と穴に向かって声を掛けてから中へ入って行った。
俺たちもその後に続く。
「暗いところで寝るのが好きなんだとよ。少しでも光や音があると気になるんだそうだ」
声の反響具合から、それほど深くは掘られていないことが分かった。
視線の先に明かりが灯っていた。
――ジェンババがいる。
「爺さん!」
明かりが漏れている横穴へと向かう。
いよいよ、ジェンババとの対面だ。
「よお、爺さん、起きてたのか?」
「お前の声で起きたんだ」
ジェンババの声だ。
「客を連れて来てやったぜ」
「頼んだ覚えはないぞ」
「まあ、そう言うなって」
とソレインは俺たち三人を穴倉へと引っ張り入れてくれた。
「爺さんに会いたかったそうだぜ」
ジェンババは禿頭の髭を生やした小柄な老人だった。とても身体が小さく、若い頃でも俺より小さかったのではなかろうか。痩せぎすなので、大剣を振るうことができない身体であることは確かだろう。
寝台の上にいて、壁に寄りかかって足をのばしていた。俺は生まれてからずっと、この人と同じ時代を生きていたわけである。不意に戦争がとても身近なものとして胸に迫ってきた。歴史上の人物は、現実世界の人物だったわけだ。
「三人とも王都から来たんだ」
「そんなもの見なくとも、お前の言葉で分かる」
だから原住民の言葉ではなく、俺たちの言葉で喋ってくれているわけだ。
「隣がドラコの弟のケンで、その隣が二つ子のボボで、その隣がセタンのモモと結婚したペガだ。みんな王都の新兵だ」
ジェンババが俺たちの顔をまじまじと見ている。
それから微笑む。
「妙な取り合わせで来たものだ。時代はこうして変わっていくのだな」
とジェンババは感慨深げに呟いた。
白髭の老人だが、声は若々しかった。
「爺さん、このペガってのが傑作でよ。結婚したっていうのに自分のカミさんに指一本触れなかったんだぜ。堅物そうな面でもないのに、おかしいだろう?」
とソレインは笑ったが、色々と話を端折り過ぎだ。
「新兵だから成人まで待ったということか」
ジェンババは笑い話に乗らず、冷静に答えを出してしまった。
「なんだよ、せっかく面白い笑い話ができたと思ったんだがな」
「お前は少し黙ってろ」
ソレインは、この日もこうして怒られたというわけだ。
「仕方ねぇな、じゃあ外で馬でも見張ってくるか」
と言って、出て行った。
「三人共いい体つきをしている。少し触らせてくれないか?」
そう言うので、要望のままに従った。
「二人の剣士と一人の弓使いか。それもよく鍛錬しておる」
やはり観察して相手を知ることは、最初にしておくべきことのようだ。
「老師様、教えてください」
ケンタスが切り出した。
「ジェンババで結構だ」
「ならばジェンババ、教えてくれませんか? オレたちは戦争のすべてを知りたいのです。『テノンの奇跡』や停戦協定や、それが破られたことや、ジュリオス三世のことや、モンクルスのことなど、貴方が経験してきたすべての歴史を知りたいのです」
ジェンババがかぶりを振る。
「すべてを教えることはできない。それは教えたくないからでも、話せないわけでもなく、半分しか知らないからだ。例え自分の生涯であろうとも、その比率は変わらんだろう。人間というのは、物事の半身しか見えぬものだからな。月の裏側が見えぬように、己の背中も見ることは叶わぬだろう? 物事の本質を見極めたいのなら、わしの言葉も話半分のつもりで聞くことだな。その心構えができたなら、何でも聞くがいい」
これほど時間が尊いものだと感じられた瞬間は、今まで経験したことがなかった。
「その前に、地べたですまないが、適当に腰を落ち着けてくれぬか」
そう言うので、俺たち三人は腰を下ろすことにした。
「この年になると視線を動かすだけでも疲れを感じることが多くてな」
身体を楽にしたところでケンタスが訊ねる。
「ここへ来る前にテノン渓谷を通ってきました。それはペガが貴方のことを大変尊敬しており、どうしても『テノンの奇跡』が起こった場所を見ておきたいと言ったからです」
俺の名前を出してくれるケンタスの気遣いが嬉しかった。
「しかし実際に通過しても、どうして五千もの兵を撃退できたのかが分かりませんでした。左右をよじ登れないほどの崖に挟まれているというわけでもありませんし、攻撃を受ければいくらでも応戦できたのではないかと思ったからです。天候が勝敗を左右したという話は聞きませんし、そもそもカイドル帝国が、なぜ千人以下の兵力しか残っていなかったのかも分かっていません。どのようにして五倍の戦力差を跳ね返すことができたのでしょうか?」
五十年前の謎が解ける日がきた。
ジェンババが遠い目をする。
「初めに知っておいてもらいたいのは、当時すでに島の北東部がすべて侵略されて土地を奪われていたことだな。わしが恐れたのは、その勢いで北西部まで侵略されることだった。そこでわしはそれを食い止めようと、海岸線のルート上にある村々に手持ちの兵を集結させて防衛ラインを築くことにしたんだ。つまり、そちらに主力部隊を配置したというわけだ」
確かに民兵も含めればカイドル帝国にも数万の兵士がいたはずだ。
「主力部隊を囮にして、敵の注意を引きつけ、山岳ルートが手薄だと思わせることこそ、わしの狙いだった。首都に近い山岳ルートの防衛を放棄したと思わせることができれば、敵軍の精鋭部隊を山岳ルートに誘い込むことができると考えたのだ。北東部の領土を奪われたのも、その僅か敵軍三千の精鋭部隊だったからな。そこまで追い詰められたのも、局地戦では応戦すらできなかったからで、それで土地を捨ててまで北西部へ避難するしかなかったというわけだ。だからこそ敵兵三千を殲滅させることが、唯一にして最後の希望と考えたのだ。幸いにして北東部と北西部の境目には壁のような山脈が盾のように聳えているので、海岸線のルートを一万の訓練兵で守らせれば突破されることはないと、そこまで狙い通りに敵国側に思わせることができたわけだ」
結果が分かっているというのに、先の展開が読めなかった。
「これは結果論ではなく、敵の三千もの精鋭部隊が山岳ルートへ向かったとの報せを受けた時、わしは勝ったと思った。誰一人として取り逃がすことなく、精鋭部隊を全滅させることも可能だと確信できたのだ。山岳ルートに侵入した部隊が五千人を超えていたのは間違いない。しかし、それは補給部隊も含めての数だ。テノン渓谷まで辿り着いた頃には、すでに四千まで減っていたと聞いておる。それは任務を終えた補給部隊が離脱したのと、途中で戦死した兵士も数に含まれていたからであろう」
それでも四千対一千の戦いだ。
「敵軍は山岳ルートへの侵入を始めたが、その歩みは遅かった。それは海岸線のルートを守る一万の兵の動きを監視していたからであろう。わしらの軍に動きがなければ歩を進め、それを毎日小まめに報告させていたわけだ。いくら連勝の精鋭部隊とはいえ、土地勘のない野山で一万の兵士と交戦するのは自殺行為だからな。慎重になるのは当然だ。わしらの軍に動きがあれば、今度は一万を超える数で海岸線ルートを攻略しようとしたことだろう。そこまで予測したからこそ、わしは一万の兵を絶対に動かさなかったのだ。そして、皇帝陛下自ら首都に残ることを誓って下さったのだ。『テノンの奇跡』とは、わしたちが起こしたのではなく、陛下が首都に留まったからこそ起こり得たのだ」
皇帝自ら敵軍による首都攻略の囮となったわけだ。
「皇帝が首都にいる確かな情報と、一万の兵が首都から離れた場所にいて動かないという情報、その二つの報せを手にした四千の敵兵は一気に歩を加速させた。その時点で、わしらが一万の兵を首都に向かわせても手遅れだったからな」
では、やはり、千人以下の兵で撃退させたということだ。
「すべてが頭の中で描いた展開となった。テノン渓谷へ来るまで四千まで減らせたのは出来過ぎだ。つまり五千の兵でも同じ結果だったということだな。なぜなら、わしはテノン渓谷に十二部族、二千人の弓使いを隠していたからだ。カグマン国の連中は山から下りずに暮らしている部族の存在は知っていても、その数を把握していなかった。なにしろ全員が同じ顔に見えるようだからな。それに対して、こちらは狩馴れしているので存在や気配を消すことを当たり前にやってのけることができるのだ」
貴族から人間と認められていない部族民が伏兵として存在していたわけだ。
「特別なことといえば、二万本の矢を用意したことと、テノン渓谷の両脇の山に二日間身動きせずに潜伏したことだな。山の中にある枯葉を集めて、そこに身を隠し、枯葉が足りなければ身体中に泥を塗って山と同化させた。先行する斥候兵が山で大便をしたんだが、こちらの伏兵が目の前にいて、じっと見られているというのに気づかなかったそうだ。なんでも鼻歌を鳴らしていたようで、すっかり勝った気でいたという話だな」
気配や匂いすら気づかせなかったということだ。
「道幅が狭くなって隊列が伸びるポイントが決戦の場だった。そこまで充分引きつけることができた時点で、生きて森から帰れる者はいないと決まったようなものだ。北東部を一方的に侵略した精鋭部隊も一日で全滅したわけだな。渓谷を歩いている時に、いきなり左右の山から二万本の矢が降ってくるのだから、それはそれは恐ろしかっただろう。せめてもの救いは弓の腕が確かなので、苦しまずに即死できたことだ」
実際は四千人と三千人の戦いだったわけだ。それが正確に伝わっていないということは、一人残らず、まさしく全滅させてしまったということである。噂や仮説ですら聞いたことがないということは、つまりはそういうことなのだ。
「攻める時は兵の数を多く見せ、守る時は兵の数を少なく見せる。また、その逆もしかりだ。いずれにしても、戦争というのは情報戦であることも忘れてはならない。だから歴史には不正確な数字ばかりが残ってしまうのだろう。歴史上には幾つもの奇跡が存在するが、それは一人が起こしたものではなく、多くの者によって起こすことができたということも忘れてはならぬのだ」
そこでジェンババは一息ついた。
俺たちが疲れさせてしまっているのかもしれない。
寝台の横の台に手を伸ばして水を飲もうとするが、中身が空だったようだ。
すかさずケンタスが腰に下げた水筒から水を注ぐ。
それを美味そうに飲むのだった。
つまりは、俺たちのことを信用してくれているということだ。
ケンタスが話を続ける。
「ジェンババ、貴方の話にモンクルスの名前が出てこないのですが、剣聖はどこで何をしていたのでしょうか? 私たちの正史ではモンクルスが『テノンの奇跡』で生涯唯一の敗北を喫したことになっています」
ジェンババが少しだけ瞑想状態に入る。確かにモンクルスはその後の歴史にも登場しているのでテノン渓谷では戦死していないことは確かだ。ならば部隊を見捨てて剣聖だけが逃げ帰ってきた可能性もあるわけで、是非とも確かめておきたい部分だ。
「つまりだ」
ジェンババが白髭を撫でる。
「冒頭で話したのが、そのことだな。史実というのは、どうやっても、どちらか一方の側面しか見ることが叶わぬのだ。勝者にのみ書き残すことが許されるという歴史書の三人称問題が、それだな。ここから先はわしの想像の話になる。だから話半分として聞くのだぞ」
歴史書を三人称で公平に書けるのは神だけだ。だからこそジェンババは戦史を一人称で語ることに拘り、自らの実体験ですら話半分で聞くようにと、しつこいくらいに忠告するわけだ。それゆえ勝者の驕りもなければ、敗者の自虐も感じられないのである。
「結果から逆算すると、精鋭部隊が山岳ルートに突入した時点で、連戦連勝へと導いていた指揮官であるモンクルスの姿は部隊にいなかったはずだ。その時あの男は第三のルートからカイドルの帝都を目指していたのだからな。それは山岳ルートの脇道や、海岸線ルートの脇道でもなく、海上ルートだった。百人隊を率いて高速艇に乗り込み、海からそのまま帝都へ上陸しようと計画したわけだな。もしも停戦協定が一日ずれていたら、皇帝陛下の命はなかっただろう。すべては想像だが、おそらくモンクルスは平民の出だから、肝心の帝都攻略の段になって、軍閥出身の軍人に指揮官の職を奪われたのだろう。精鋭部隊が愚鈍な動きをしていたのも、それで説明がつくからな」
剣聖は貴族の名誉を守るために、敗戦の責任を取らされたというわけだ。
「モンクルスに帝都攻略の手柄まで立てられたら最高の地位と名誉が奪われるのは確実だった。そうはさせまいと軍閥出身の軍人が出しゃばって、負け知らずの精鋭部隊は全滅したわけだ。最後に一番いい思いをしようと思ったようだが、戦争の幕引きほど難しいことはないのだ。剣聖がそのまま連戦連勝の精鋭部隊を率いていたらどうなっていたかと、わしもよく聞かれるが、それに関しては答えようがないな。あの男ならば狙われやすい谷底を避けたとも考えられるが、こちらはテノン渓谷の近くまで誘い込めば生きて帰さぬ自信もあったからな」
確かに当時のモンクルスはまだまだ若く剣聖と呼ばれる前の段階だった。北東地域を手中に収めて地位を高めていった頃なので、絶対的指揮権があったわけではないわけだ。歴史上の人物は年齢や、その時の地位を考慮しないと考証を見誤りかねないということだ。
「モンクルスが上陸したのは停戦協定の申し出を伝える特使が都入りした翌日のことだった。その日のうちに和睦を祝う宴の準備が始まったが、その様子を目の当たりにした剣聖の胸の内は如何ほどであっただろうか? 神祇官の到着を待っていたので、停戦協定の調印式が執り行われるまで都に半月以上は滞在していたが、その間のモンクルスは恐ろしかったぞ。何が恐ろしいかって、一切の感情を見せなかったことだ。まるで幻でも見えているかのようだった」
それに近い印象を最近持ったことがある。それは七人の山賊を殺した時のケンタスだ。あれは言葉が通じない獣の怖さだ。いや、威嚇行為もしないので、毒を持った虫の怖さに近かった。
「言葉を交わさなかったんですか?」
ケンタスが訊ねた。
「その当時、わしは王城で料理人に成りすましていたので、味方であろうとも正体を明かすわけにはいかなかった。しかし帰路に就く前日に出した料理を見て、あの男はわしの正体を見破ったのだ」
「何を出したんですか?」
「モンクルスの皿にだけ共食いしたばかりのカエルを出してやった。わしからの細やかなメッセージとしてな。『わしらは団結し、お前たちは互いを食い合ってしまった』という意味を込めたのだ。軍人を辞めたのは、あの男なりの返答だったのだろう」




