第三十三話 テノンの奇跡
湖で出会ったばかりの少女と、その日のうちに結婚することとなった。その間わずか半日の出来事である。ボボも言っていたが、物事に流されやすい俺らしい結婚の仕方といえるだろう。
しかし結婚するには一つだけ大きな問題があった。カグマン国では成人を迎える十八歳になるまで婚姻が認められないので、今すぐ夫婦になることはできないのだ。
そのことについて宴の後、モモと話し合うこととなった。念のために話がこじれないように、両親とケンタスとボボにも立ち会ってもらうことにしたが、ボボだけ酔っ払っているせいか目がトロンとしており、いないも同然の様子だった。
しかし、この男は北方原住民の言葉を話せるので眠らせるわけにはいかなかった。微妙なニュアンスを伝えられるのがボボしか存在しないからだ。ちなみにボボの母親が話すガンマ村の部族の言葉とは語尾が変わる程度の違いしかないそうだ。
俺には兄嫁のクルルさんという原住民系の義姉がいるが、彼女は故郷の言葉を使わなかったので習得することはできなかった。俺たちが知らない言葉を使わないというのが、彼女なりの気遣いなのだろう。
「ペガ、結婚する意思はあるんだな?」
なぜかケンタスがこの場を取り仕切っていた。
「ある」
曖昧な言葉ではなく、はっきりと答えなければならないことは学習済みだ。
「そうか、ならば問題はない」
ケンタスはよくても、モモはまだ難しい顔をしていた。
彼女の後ろで控えている両親も似たような顔つきだ。
「モモ、君には理解しにくい問題かもしないが、ペガが結婚するにはあと二年半待たなければならないんだ。それが国の決まりなんだよ。君がこの村の決まりを守っているように、オレたちも国の決まりを守らないといけないんだ」
俺が言うべきことをケンタスが説明してくれた。
「だからペガのために二年半だけ待ってくれないか? それだけ待ってくれれば正式に結婚することができるんだ。オレたちは明日旅立つから、それで会えなくなってしまうけど、約束はちゃんと守らせる」
俺の人生なのに、まるでケンタスが主役のようだ。
「会えなくなるのか?」
モモだけではなく、その後ろにいる両親まで不安そうだ。
「結婚が認められれば転属願いの許可が下りるだろうけど、それまでの二年半は我慢しなければならないだろうな。それだけは確実だ。でもペガは君を裏切るような男ではない。それはオレが保証する。だから新兵の期間が終わるまでは独り身のまま任務を続けさせてやってほしいんだ」
十八歳になれば夫婦生活が認められるが、それまでは自由がないのである。
「話してもいいか」
そこでそれまで黙っていた父親のダンバさんが口を開いた。
「ボボ、私の言葉を二人に伝えてくれ」
そう言うと、そこから原住民の言葉で語り出した。
ボボが眠そうな顔で通訳する。
「その昔、村の娘を好きになった王国の兵士がいたそうだ。男はプロポーズして、村の娘は承諾し、二人は今日のように村で祝宴をあげた。しかし半年も経たずに男は娘を捨てて村を出て行ったそうだ。その男には郷里に妻と子どもがいたそうだ」
言葉数や話の長さが合っていないので、細部をかなり端折ったに違いない。
モモが一言でまとめる。
「母さんと父さんは帰って来ないんじゃないかと思っている」
モモは自分のことよりも両親のことが気掛かりなのだろう。
「ボボ、すまないがオレの言葉をご両親に伝えてくれ」
今度はケンタスが頼んだ。
「ペガとオレは母親におんぶされている時からの友達だ。今日まで会わない日がないほど一緒に過ごしてきた仲だ。親や兄弟よりも一緒にいる時間が長いし、オレはペガのことを自分のことのように考えてしまう時があるくらいなんだ。だから、もしもペガが心変わりしてモモを裏切るなら、その時は罪を犯したと判断して、オレの手でペガの首を刎ねて殺すと約束しよう。そして、その首を持って村へ来たオレを、その手で煮るなり焼くなり好きに殺すがいい」
コイツは本当にやり遂げる男だ。
今度はダンバさんの言葉を通訳する。
「村の娘を捨てた奴は一緒にいた二人の仲間に命令するだけの男だった。そいつは王様のように振る舞っていたが、この村では絶対に村長に選ばれるようなタイプではなかった。しかしお前たち三人は、たとえどんなところだろうとも力を併せて生きていける。それが村で生きる意味であり、人生でもある。生きる道を知っている者は、迷いはするが、答えを見失うことはない。よき友を持つ男に大事な娘を嫁がせることができて良かった。もう何も心配することはない。ペガは再び現れる。これからの日々が楽しみだ。信じることの喜びを感じられる瞬間が訪れるのが待ち遠しい」
この半端ない重圧はなんだろうか。
これが結婚するということなのか。
今度はケンタスの言葉を通訳する。
「どうか、今の話を村長さんだけではなく、村の人全員に伝えてあげてください。ペガの再訪をみんなで祝ってあげてほしいんです。それは人生で最も輝かしい日となることでしょう」
自分の人生が自分の人生じゃないみたいだが、俺にとってはよくあることだ。
「ケン、ありがとう」
モモの目がウルウルしているが、その目は俺に向けられるべきものだ。
「こちらこそ、ありがとう」
ケンタスの言葉も俺に向けられるべきものだ。
「すまないが、もう休ませてくれ」
とボボの泣きが入ったところで寝ることにした。この日はモモの狭い家で全員が隣り合って眠ることになった。これがモモと出会って丸一日も経っていない日の出来事である。『人生とは何が起こるか分からない』とは、どうやら本当のことだったようだ。
任務が半日遅れたということもあり、翌朝は村人が寝静まっている間に村を出た。ダンバさん一家に見送られての別れだ。どうやら昨日の出来事は夢や幻ではなかったようである。俺は本当に結婚してしまったようだ。
「明々後日には到着できるだろう」
ケンタスの予想通りなら悪くないペースだ。悪くないどころか、かなり早いペースではないだろうか。すべては俺たちの力、と言いたいところだが、ここは素直に兄貴の育てた馬のおかげと思っておいた方がいいだろう。
十六日目の朝を迎えた。聞いた話ではここより少し先に行った所に、かの有名なテノン渓谷があるという話だ。テノン渓谷はジェンババがモンクルス率いる五千の兵をわずか千名以下の兵で撃退した、いわゆる『テノンの奇跡』を起こした舞台である。
明後日には州都に到着できる距離にいるので、カイドル帝国にとってはそこが最終防衛ラインだったに違いない。そこを突破されて市街戦に持ち込まれてしまったら、得意のゲリラ戦もできないので兵力を削ぎ落すことも難しくなるはずだからだ。
「ペガ、お前が見たかったテノン渓谷が見えてきたぞ」
嘘だ。ケンタスだって興味がないはずがない。しかし今はそんなことどうでもよかった。それよりも歴史の息吹を感じることの方が先決だ。英雄崇拝は戦争賛美と曲解されることもあるが、不測の事態に備えて戦を学ぶことは、己を守る行為でもあるので大事なことだ。
見たところ渓谷はどこにでもある、誰もが想像できるような普通の渓谷だった。山と山の間に溝ができており、その溝に流れが急な川が流れている。季節や天候によって増水するが、現在は道を塞ぐほどの川幅にはなっていなかった。
下調べをして五千の兵を進めたはずだから、途中で立ち往生するような水深となっているわけがない。しかし、それにしても、渓谷は細道のようなもので、隊列が伸びることはあっても、五千の兵が千人以下の兵に負けるとは考えられなかった。
「なあ、ケンよ、ジェンババはどうやって『テノンの奇跡』を起こしたんだろうな?」
俺一人の頭で考えるのは限界だった。
「オレもそれを考えているところだ。なにしろ五倍の戦力差をひっくり返したわけだから、通常なら起こり得ないことをやってのけたわけだ。それだけに答えを導くには発想の飛躍が求められそうだ。渓谷といっても別に左右を切り立った崖に囲まれているわけではないから、いざとなれば百人単位で散らばって、一時退却することもできたはずだ。たかだか千人で包囲殲滅など出来る地形ではないからな」
となると、やはり秘策があったわけだ。
「俺も考えてみたが、こういうのはどうだろう? 川の上流を大きな岩でせき止めて、充分に引き付けてから一気に放水するんだ。そうすれば五千の兵でも殲滅させることができるだろう? 水ほど怖い武器はそうそうないからな」
自画自賛になるが、悪くないアイデアだと思った。
「ダメだな。五千の進軍なら、必ず斥候兵を先行させていたはずだ。川が干上がっていれば誰でもおかしいと思うはずだからな。それに簡単に川をせき止められるとは思えない。それならまだ岩で投石した方が有効だろう」
あっさりと否定されてしまった。
ならば、ここは発想の転換が必要だ。
「だったら『勝負の行方は流星に訊ねよ』って言葉があるくらいだから、天候が味方したのかもな。雨が降ったら一気に増水するだろうし、ひょっとしたら土砂が流れて飲み込まれただけなのかもしれないぞ」
ケンタスが否定する。
「それも違うな。さっきも言ったように袋小路というわけではないんだよ。雨が降ったら別の場所に避難して、川の増水が収まるまで待機すれば済む話だ。広場でやっているジェンババを主役にした芝居や伝承には大衆を楽しませるという成分が含まれているから、必ずしも現実通りというわけではないんだ」
ジェンババが雨乞いをする芝居があったが、あれは芝居の演出というわけだ。
「しかしな、実際には現実離れしたことが起こったわけだろう? だとしたら滑稽に思われるようなことが起こったと考えても無理な話ではないといえるんじゃないのか? いま俺が本気で考えているのは、幻に殺されちまったんじゃないかってことなんだ」
馬上のケンタスが真顔で頷く。
「うん、その方がよっぽど現実的な考えだ。オレたちが遭遇したガサ村での体験が五十年前にも起こっていたとしたら、五千の兵だって殲滅に近い状況に追い込まれるかもしれないからな。あれは体験した者にしか分からないだろうからさ。そう考えると剣聖モンクルスが表舞台から消えてしまった謎も同時に解ける気がするんだ。真相は定かじゃないが、よっぽどのことが起こったことだけは確かだろう」
結局はそこに行きついてしまう。ケンタスは認めたくないかもしれないが、剣聖と呼ばれる男が多勢を率いて負けた事実は覆しようがない現実だ。それなら、いっそのこと幻にでも殺されたと考えた方がまだ受け入れられるというわけだ。
「村が見えてきたぞ」
ボボが見つけた時には、もうすでに日が暮れていた。そこがおそらく州都の手前にあるソレイサン村なのだろう。正規のルートではないので王都札が使える村ではないが、食べ物にはありつけそうだ。寝床はテントで充分である。
薄暗いので村の規模は推察できないが、雰囲気はボボの出身地であるヤソ村に近いように感じられた。木造家屋がどれも新しく歴史を感じさせなかった。ひょっとしたらこの村も、ヤソ村同様に戦後新しく作られたのかもしれない。
「ようっ! 王都のダンナ、待ってたぜ!」
村へ入ると、いきなり若い男に声を掛けられた。
「遅かったじゃねぇか。みんな待ってたんだぜ?」
どうして俺たちがここへ来ることを知っているのだろう?
「あんまり遅いから、みんな待ちくたびれて、とっくに寝ちまったよ」
口調が軽く、とにかく馴れ馴れしい感じの男だ。
「おっと、紹介がまだだったな。おれはソレイン・サンといって、この村で村長をしている男だ。年はダンナたちより五つ上の二十歳だが、なに、だからって気を遣うことはないぜ。おれはそういうの大っ嫌いだからな」
装飾品をジャラジャラさせて、とにかく派手な印象だ。
「なるほど。真ん中がケンで、怖い顔をしているのがボボで、小さいのがモモと結婚したペガだな。へへっ、そんな驚くなって。ウチの使いっ走りがダンナの祝宴に参加してたんだ。それで知ってるってわけよ」
やっぱり地元民の方が馬の並足よりも速いようだ。
「おっと、立ち話をさせてすまなかったな。おれの家に来いよ。食い物も用意してあるんだぜ? 馬小屋もあるからそこで愛馬も休ませてやればいい。用心深いと聞いていたが、この村では心配無用だ。一日中交代で見張りを付けているからな。だからダンナたちも今日はゆっくり休むがいいぜ。新しく家を建てたばかりでよ、古い家が空いているんだ。今夜はそっちに泊まればいい。ちゃんと寝台にフカフカの寝具も用意してやったから、気持ちよく眠れるだろうさ」
家に入って食事を頂いているのだが、その間もソレインは一人で喋り続けた。
「もう少し早く来てればな、村の女の艶っぽい踊りを見せることができたんだ。セタン村の祝宴でやった堅っ苦しい舞とは違うぜ? あそこの爺様連中は風紀っていうのか? そういうのにうるさいからよ。いや、だからこそ結婚を許されたダンナたちが信用できるってのもあるんだ。一度悪い男に騙されて厳しくなってるから尚更な。それと堅物のモモが自分で決めちまったから、おれとしても認めるしかねぇんだ」
食事は魚の丸焼きで、それを三人で黙々と頂いているところだ。
「モモはよ、おれがガキの頃から知ってる女なんだ。幼馴染っていうのか? 年も同じだし、もし結婚するならモモにしようって思ってた時期もあったんだぜ? でも、おれが色んな女に声を掛けるのが気に入らないみたいで、結局落とせなかったんだ」
初めて知ったが、どうやら俺の妻は五歳も上だったようだ。
「アイツはとにかく古いしきたりをいつまでも信じてるような女だからな。まぁ、どっちみち、おれでは無理だったんだ。このままじゃ務まる相手が見つからなかったかもしれないし、ダンナと知り合えて良かったんだよ」
そこでソレイン村長が大笑いした。
「そうそう、祝宴を挙げた後も結局は手も握らなかったんだって? 正式に結婚するまで待ってくれと頼んだというじゃないか。いや、それが良かったんだ。おれだってよ、そこをはぐらかして村の女を弄ぶような男なら家に呼んだりしなかったからな」
軽薄そうに見えるが、結婚は真面目に考えたいタイプの男なのだろう。
「真面目が取り柄の男はつまらんが、契約を軽く考える奴は信用ならんからな。ダンナの真面目さは人を惹きつける真面目さだ。王都から来た奴らはクズばっかりだったから、余計にそう思うんだ。まぁ、例外はあるんだけどさ」
モモに指一本触れていないのは事実だが、両親の隣で寝ている女とどうやって乳繰り合えというのだろう? 寝室が別ならば俺だって触れずにいられたか保証できたもんじゃない。それでも好意的に受け止められているなら、ここは黙っていた方が良さそうだ。
「それにしても、ケンは誰かに似ているな」
そう言って、ソレインが凝視した。
ケンタスが確かめる。
「もしかしたら兄のドラコ・キルギアスじゃないですか?」
「やっぱりか!」
「はい。私はドラコの弟のケンタスと申します」
「だから堅っ苦しい言葉はよせって。おれとドラコはそんな仲じゃねぇんだ。あの男が来てから二年も経っちゃいないが、おれの人生はすっかり変わっちまったんだからな。おれが村長になれたのも全部『兄弟』のおかげなんだ」
ドラコは左遷されてもちゃんと目の前の仕事に取り組んでいたようだ。しかも新しい村を作るための申請を通す力も健在のようである。どれだけの行動力と人望が備わっているのだろうかと、つくづく貴族の出じゃないというのが惜しまれるのだった。
「村の名前を、おれの名前にしたのもドラコの進言だ。島には原住民の人名由来の地名が多いから、『これからも島の伝統を受け継いでいった方がいい』って言ってな。あの男はまず地元の人間を一番に考える男なんだよ」
ドラコらしい考え方だ。
「おれたちの夢はこの村を島一番の厩舎にすることなんだ。先祖の一部が馬乗りの遊牧民だっていうのに、今じゃ馬を見たことも触ったこともねぇ部族があるくらいだからな。そんな奴らにも馬を宛がうことが出来るように発展させようってわけだ。戦争が終わってすっかり荒れちまったからな。力を持て余した奴は盗賊団を結成して、荘園に潜り込んでは畑泥棒をして凌いでるんだが、それではダメなんだよ。それでは原住民への偏見を助長させるだけだからな。そいつらは自分が死んだ後のことをさっぱり考えちゃいねぇんだ。おかげで盗んだのは奴らの方だというのに、おれらが生まれた頃にはすっかり『盗人の息子たち』っていうイメージが定着しちまったじゃねぇか。そのくせ自分たちの先祖がどれだけ野蛮なことをして領土を奪ったかなんて知らんぷりしてるからな」
それは事実なので、否定してはいけないことだ。
「じゃあ、ケチな盗みをしない奴らはどうかっていうと、セタン族のように森に籠るか漁村で燻るしかないわけだ。そんな燻っている奴らを集めたのが、この村ってわけよ。表向きは牧場だが、ここが再出発の地点でもあるってことだ。まあ、でも、こうして道の先に光が見えるようになったのはドラコのおかげなんだけどな。それまでは真っ昼間だっていうのに、暗闇の中で生きているみたいだったんだ。あの男が民族の自衛を説いてくれなかったら、本当に滅んでしまうところだったぜ」
立派な夢だが、そんなことに手を貸すからドラコは貴族から睨まれるのだ。せっかく非武装化させているのに、私兵の騎馬軍団が現れた日には真っ先に疑いが掛けられるに違いない。ドラコはどこに向かっているのだろうか?
「しかし、こんなことを大っぴらに語れるのもドラコの弟だからだけどな。王都なら逮捕されて、オーヒンじゃその場で殺されるというじゃないか。『まったく、お前たちの民族は何を考えているんだ』って言ってやったよ。一昨日会ったばかりでな、しばらく会えなくなるからって言って酒を飲んだんだ。ケン、お前のことも気に掛けてたぞ。『オレのせいで苦難を受けるかもしれない』とな。しかし『弟はどんな苦難も乗り越えていける』とも言っていた」
苦難を受けているのは、どちらかといえば俺の方だ。
「それにしても、まさかケンタスが『ケン』のことだとは思わなかったよ。ドラコも弟がカイドルに向かっていることは知っていたが、『あと二十日は掛かるだろう』と言っていたからな。あの男でさえも弟が山岳ルートを選ぶとは思わなかったんだろう。しかし二日違いとは惜しかったな。互いに一日ずれていれば再会できたわけだ。でも、ドラコの方はやけに急いでいたから、再会したとしても顔を合わせるくらいの時間しかなかっただろうけどさ。ジェンババにも軽く挨拶しただけだからな」
ジェンババに挨拶?




