第三十一話 湖畔の出来事
翌日、村を出る時にミトバさんからたくさんの穀物をいただいた。ここから先の道は集落を見つけることも困難だそうで、三日は野宿を覚悟しないといけないと言われた。
「雨が降りそうだな」
ケンタスが心配するのも当然だ。革袋で密閉されているとはいえ、書簡を濡らさないことが最も重要だからだ。カイドル州の州都に到着するのが四、五日後の予定だが、この日は雨宿りできる場所を探しながら慎重に馬を歩かせることにした。
「それにしても深い森だ」
ケンタスと同じ印象だ。日中だというのに背の高い木の枝葉がすっぽりと蓋をして、まるで森の中に閉じ込められたかのような心境になる。州都へ続く道はあるが、往来する人がいないので怖くなってしまう。
こんな深い森の中で寝泊まりしなければいけないのかと思うと不安で押しつぶされそうになる。世の中に俺たちしかいないような、そんな寂しさを感じる怖さだ。霧が出れば再び、あの幻が現れそうな気がしてしまうのだ。
「戦争中の話だが」
いつものようにケンタスが独り言を始める。
「こうして馬に乗っているところを、突然、どこからともなく矢が飛んできたというな。どこから飛んできたかというと、木の上に登って待ち構えていたというよ。矢を放つとすぐに逃げるから捕まえられなかったそうだ。補給部隊の馬はそれで全滅さ。歩兵部隊も夜は怖くて一睡もできなかったというのは有名な話だ。敵は夜目が利く山岳部族の弓兵を集めて夜襲を繰り返したというもんな。剣や槍を交えず、ひたすら弓矢を放って、それを明け方まで何度も続けたというじゃないか。昼間は昼間で今度は足の速い槍兵を集めて挑発行為をさせて、誘き出した兵を弓兵が仕留めたそうだ。『野兎よりも狩るのが簡単だった』と言われるくらい弓の腕に差があったそうだ」
生まれたのが終戦後で本当に良かった。
「五千の兵を蹴散らしたジェンババはやっぱり凄いよ。実際に南軍は何度も北征を敢行したけど、その度に撃退されて、結局勝利することができないから停戦協定を結んだんだもんな。その停戦協定の締結から二十年後にジェンババが生涯で唯一の敗北を喫したのは、精鋭部隊を集められなかったからなのかもしれない。あとは戦略レベルで勝利を確信しても、アクシデントが起こると戦術レベルの修正が利かないのもマイナス要因だ。といっても、実際のところは分からないけどさ」
ジェンババの敗北については知ったばかりなので理由はさっぱり分からなかった。でも俺は単純に兵士の数で負けたような気がしている。二十年といえば徴用兵がそれなりに経験を積んで成長しきった年齢に達するので、それで数で圧倒されたような気がするのだ。
それと山岳ルートではなく、遠回りとなる海岸線のルートを攻め込まれた可能性もある。日数は倍以上だが荘園地帯の領主から支援を取り付ければ戦局を有利にさせることが可能だからだ。
いや、南軍が協定を破って領地を増やしたことで北軍に対する包囲網ができたとも考えられる。それがジュリオス三世の領地奪還戦争に繋がったのではないだろうか? すべては憶測でしかないが、カイドル州に行ったら、そこら辺のことを調べてみたいものだ。
「湖だ」
ボボは目がいいので、ジェンババが生きていたらスカウトされていたかもしれない。
「ほとりに建物もある」
「湖があるのは教えてもらった通りだが、人が住んでいるとは聞いていないぞ」
とケンタスが警戒した。
「ん?」
とボボが空を見上げた。
ケンタスが呟く。
「雨か」
本降りになりそうな雨雲だ。
「雨宿りさせてもらおう」
馬の鼻先を湖畔の建物へと向ける。
「村という感じではないな」
木造家屋が四軒ほど建っているが、生活感はなかった。
「人がいるようにも思えない」
ケンタスが訝しがる。
「随分と古い建物だ」
築三十年から四十年、いや、五十年以上かもしれない。
「でも、しっかりと手入れされているな」
新しい木材で補修した跡があった。
「すいません」
とケンタスがありったけの大声で叫ぶが、反応はなかった。
「やっぱり誰もいないようだ」
そんなはずはない。
「俺たちのことを警戒しているんじゃないのか?」
「そうなのかな」
ボボが馬から降りる。
「よし、オイラが見てこよう」
と言って、建物内の様子を探りに行った。
すぐに戻ってくる。
「空っぽだ。誰もいない」
「とりあえず厩舎を使わせてもらおう」
ケンタスの判断だ。
四方の壁がない屋根だけの厩舎なのだが、建て付けはしっかりしていた。
「強くなってきたな」
雨のことだ。
「無断で申し訳ないが、上がらせてもらおう」
ということで、勝手に家の中へ入ることにした。
ボボが言った通り、家の中には寝台以外は何もなかった。
「これはどういうことなんだ?」
答えられないと知りつつ、訊ねずにはいられなかった。
「旅の宿ではなさそうだが、避難用の小屋なのかもしれないな」
ケンタスの予想だ。
雨の音が外界を遮る。
「塵一つ落ちてないぞ」
とケンタスが寝台の縁を指でなぞって、その指を俺に確認させた。
「掃除人がいるってことか?」
「ここで生活しているわけではなさそうだが、近くに人が住んでいることは確かだろう」
「あとで金品を要求されたりしないだろうな?」
「さあね」
はっきりしないというのが一番すっきりしないものだ。
「今夜は見張りを立てて交代で眠った方がいいな」
とケンタスが提案すると、ボボが一番に名乗りを挙げる。
「分かった。早速オイラが先に馬小屋を見張ってくるよ」
これから四、五日は交代制で眠るしかなさそうだ。
考えてみれば、もう二週間近くも休んでいなかった。
休めない任務とはいえ、身体は疲れ切っている……
「ペガ、起きろ! 交代の時間だ」
さっき眠りに就いたと思ったら、すぐに起こされた。
外に出ると月が出ていた。
雨は上がっていたが、地面はぬかるんでいる。
「ボボ、休んでいいぞ」
彼はひたすら暗闇の中で身体を鍛えていたようだ。
俺は濡れていない地べたに寝転んで干し肉を齧るだけだ。
二人に内緒で隠し持っていたのだ。
今夜は一万回噛むことに挑戦してみよう……。
「ペガ、起きろ!」
見ると、ケンタスが呆れていた。
どうやら、いつの間にか眠ってしまったようだ。
「見張りが眠っちゃダメじゃないか」
「すまない」
と詫びを入れつつ、ボボが寝ている小屋へ帰ることにした。
ふと見ると、東の空が明るくなっていた。
「アイツめっ」
ケンタスのバカ野郎が小屋で一番長く休んでいたようだ。
小屋へ帰ると、ボボがアホみたいに眠っていた。
俺はもう、すっかり目が冴えてしまっている。
ということで、眠らずに、外に出ることにした。
「ケン、一緒に湖に泳ぎに行かないか?」
一応、声を掛けてみた。
「まだ湖水は冷たいと思うぞ」
「行かないのか?」
「やめとくよ、荷物と馬が心配だ」
一人でも行くつもりだったので、断られても構わなかった。
改めて湖を眺める。
大きな水瓶だ。
淡水魚を放流して魚が増えてくれたら、大きな村を作れそうだ。
湖水も綺麗で放置しておくのは勿体ない環境である。
そんなことより水浴を済ませよう。
それにしてもあの野郎、母親みたいなことを言いやがる。
湖水が冷たいことくらい、俺だって分かっているのだ。
春先の冷たい川で泳いでいたアイツは、どこへ行っちまったのだろう。
大人にはなりたくないものだ。
それにしても、大自然の中で素っ裸になるのは気持ちがいいもんだ。
この世界が俺だけの物のように感じられた。
それとは反対に、自分だけが小さくも感じる。
生まれてくる前の時と同じような心境といえばよいのだろうか。
一人の時間は、そんなことを考えさせてくれるのだった。
人間は、こうして時々は一人きりにならないといけないようだ。
「ん?」
遠くの方で音がした。
耳には自信がある。
確かに湖面を何かが跳ねる音がした。
巨大生物だろうか?
竜や半獣など大昔から様々な伝承がある。
もちろん、話が大袈裟になるというのが世の常だ。
とにかく行ってみよう。
湖面に突き出た岬の向こうだ。
怖いので音を立てずに近寄ることにした。
しかし湖畔や湖面を見ても、生き物の気配はなかった。
安心したが、残念でもあった。
折角だから湖畔をブラブラしてみることにした。
朝日が湖面を照らしている。
まるで太陽から神が降りてきそうな雰囲気だ。
突然、目の前で音がした。
同時に湖面から生き物が姿を現す。
本当に神が降りてきた。
いや、違う。
いや、違わない。
それは一人の女性だった。
何も身に着けていない裸の少女。
小さな胸の膨らみ。
自分とは違う身体。
生まれて初めての体験だ。
少女も俺の方を見ている。
視線の上下の動きを見られていることだろう。
少女もまた視線を上下させていた。
それからしばらく見つめ合った。
少女が歩いてくる。
俺は一歩も動けないでいた。
湖畔へ上がった少女の背は、俺とそれほど変わらなかった。
ひょっとしたら彼女の方が年上かもしれない。
少女が俺の目の前で立ち止まった。
そこで改めて視線を上下させた。
興奮しているはずなのに、身体は緊張しきっていた。
「女の裸を見るのは初めてか?」
なぜか言葉にならず、頷くことしかできなかった。
「アタシも男の裸を見るのは初めてだ」
そこもなぜか頷いてしまった。
「結婚はしていないんだな?」
いきなりでよく分からない質問だが、頷くことにした。
「アタシも結婚していない」
言葉が上手く出てこず、先ほどから頷くことしかできないでいる。
「分かった」
と、少女もなぜか頷き返すのだった。
「村へ案内する」
そう言うと、草むらに置いてあった布地で身体を乾かし、服を着始めた。
俺はそれを黙って見ていることしかできなかった。
腰まである美しくも光沢のある黒髪。
濃い眉毛と長い睫。
吸い込まれるような黒い瞳は、リンリンさんを思い出す。
少女も北方原住民の血を引いているのだろう。
薄生地の襦袢の上から貫頭衣を着るのが彼女たちの平服のようだ。
「さあ、行こう」
「いや、俺も着替えないと」
「分かった。待とう」
言葉は通じるが、微妙な意思の疎通が取れない感じだ。
「あっちだ」
というと、俺を置いて先に歩き出してしまった。
速足で追い掛けていく。
少女も俺の着替える姿をじっと見ていた。
「あまり見ない服だな」
貫頭衣の上から夏用の革製防護服を着ているのは任務中だからだ。
「これが王都では正装なんだ」
「正装って何だ?」
「平時における軍服のことさ」
「兵士なのか?」
「新兵だけど」
服を着ることで、ようやくいつも通り喋れるようになった。
と思ったら、今度は少女の方が黙り込んでしまった。
この子が何を考えているのか分からなかった。
そう思っているのは、彼女も同じようである。
「ここへ来た目的は何だ?」
「目的? ああ、カイドルの州都へ行くのが任務なんだ」
もう少し詳しく説明した方がよさそうだ。
「手紙を届けるのが目的なんだけど、昨日、雨が降ってきたんで、あそこの家で雨宿りさせてもらったんだよ」
少女がものすごく何かを考えている。
「村へ来るというのは嘘か?」
どう答えていいのだろう?
「いや、行ってもいいのなら行きたいけど」
そう、とにかく腹が減っていた。
「村へ来るんだな?」
ちゃんと意思表示をした方がいいと思ったので、何度も頷いて見せた。
「分かった」
と少女も同じように頷いた。方言や訛りがキツイというよりも、独自の言語を持っている民族だからカタコトなのだ。カイドル州には北方原住民の中でも枝分かれして、少数民族として暮らしている村が多く存在しているので多様性があるという話だ。
「よし、案内する」
そう言うと、また俺を置いてさっさと歩いて行ってしまった。
「ちょっと待って」
言葉にすると、ちゃんと待ってはくれるようだ。
「俺の他に仲間が二人いるんだ」
「兵士か?」
「うん」
そこでまた少女は難しそうな顔をした。やはり南部の兵士に対して良くないイメージがあるのだろう。年齢的に彼女が戦争で被害を受けたわけではないが、両親や祖父母は戦争に巻き込まれた可能性があるわけで、そこを考慮しないといけないのである。
「ゴウカンするつもりか?」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。
「三人で強姦するつもりなのか?」
「そんなことするはずないだろう? 俺たちは仕事中なんだ」
「本当か?」
「そんな気があるなら、さっき裸を見た時に襲ってるさ」
そう言うと、少女は今頃になって顔を赤らめるのだった。
本当に何を考えているのか分からない子だ。
「そんなに心配するなら、会って自分の目で確かめるといい」
結局、それしか方法がなかった。
「俺たちは、一人ではどこにも行かないって決めてるんだ」
「分かった」




