第二十三話 マクチ村の領主様
マクチ村では人身売買が行われているということだ。どうして俺はそのことに思い至らなかったのだろうか。それどころか、実体を知らぬまま「宗教は偉大だ」などと大絶賛してしまった。我ながらその単純な思考回路に腹が立つ。
上等な法衣服を纏っているから偉い人だと思い込んでしまったが、実際は初対面の男にすぎないのだ。それなのに、どうやって人間性まで知ることができるというのだ。まったく、俺の思い込み癖には怒りさえ湧いてくる。
いや、待て。人身売買といっても様々なケースがあるはずだ。マクチ村の場合は子どもに教育を受けさせると言っていた。ということは、礼儀作法を叩き込んでから農家や商家に奉公させるということかもしれない。
「なぁ、ケンよ、人身売買というが、孤児を躾けて奉公先を斡旋するなら悪くないんじゃないのか? 孤児の受け皿になって、人手が足りない労働者の手助けにもなってるじゃないか。何をそんなに深刻ぶってるんだ?」
アキラが俺を睨む。
「ぺガは黙ってろ」
どうやら俺は余計な口を挟まない方がいいようだ。
「もっと深く考えるべきだった」
ケンタスが後悔した。
「荷馬車の子どもたちを見ているのだから、ピンと来ないといけなかったんだ。あの子たちは、どう見ても孤児ではないよ。日焼けの痕や、髪の切り方など、町をうろつく孤児とは特徴がかけ離れているだろう? 全裸のまま行き倒れる子が本当の孤児だが、あの子らは自分の服を着ていた。用意して着替えさせた服なら統一されていただろうからな。死にやすい時期を終えた頃合いを見計らって、親から直に買い取ったんだろう」
アキラが念を押す。
「ケンはマクチ村と関係ないんだな?」
「ああ」
親が子どもを売ったり捨てたりするのは珍しくない時代だ。ニュースの泉ですら話題にならないくらいありふれた出来事である。いや、正確には、子どもは生まれてすぐに死んでしまうことが多いので、記録上は病死で片付けられることが多いのだ。
親が子どもを見捨てるわけがない、またはお腹を痛めた子を手放すわけがない、または子どもを大切に思わない親はいない、などという言葉のすべては、富裕層や中産階級に生まれた人たちの幻想である。
富裕層にも父母に対する精神の葛藤が存在するので一概にはいえないが、少なくとも貧困問題や孤児問題に対して根本から理解することは不可能だろう。それは、自分は自分であって、他人にはなり得ないので、当然の帰結だ。
富裕層に生まれた子どもの崇高で高潔なる言葉の数々は、時として努力ではどうにもならない問題に蓋をする悪魔の重石となることがある。生まれた時から選択肢に差がある、ということをまるで理解できずに無神経な言葉を浴びせるのだ。
俺は平民の中でも恵まれた方で、土地持ちの実家に生まれただけで幾つかの選択肢を有することができたわけで、もしも親に売られるような家に生まれていたら、文字に触れることもできなかったので、自分の頭で考える人間になることはできなかったはずだ。
志ある若者が口にする『世の中をよくしたい』という言葉は、矛盾を生む行為だといわれている。平均より上の富裕層に生まれて世の中をよくしてしまうと、今度は自分の子どもが貧困層で生まれてしまうことがあるからだ。
だからこそ、俺やケンタスようなギリギリのところで持ち堪えている人間が奮起しなければいけないのだ。歴史の転換点には、必ずといっていいほど貧困層から改革を成し遂げる者が現れるからだ。
大陸の宗教では『救世主は馬小屋で生まれる』とする気運が高まっているそうだ。それが数百年前には予言されており、現代にその救世主が降り立つことになっているらしい。それが誰かは分からないが、楽しみな時代に生まれたことだけは確かである。
「なぁ、アキラ。君が知ってることをオレたちに話してくれないか?」
田舎道で日没が迫っているというのに、ケンタスはこれ以上、何を知りたいと言うのだろうか。マクチ村が人身売買の拠点になっているとして、それを決定付けるには本格的な調査が必要なのだ。
たとえ事実だとしても、現在の俺たちの力ではどうすることもできないのである。王家筋の荘園では土地に入っただけでも捕まってしまうのだから。
「君が知っていることを教えてくれたら、今晩の食事をご馳走しよう。情報というのはね、それくらい価値があるものなんだ。だから何でも知っていることを話してくれないか? オレは君の情報が欲しいんだ」
歩いているアキラと馬上のケンタスが見つめ合っている。
「話したくないなら、それでもいい。無理に話すこともないさ」
とケンタスは早々に諦めてしまった。
「ごめん」
と言って、アキラは立ち止まった。
俺たちはそのまま馬を歩かせた。
誰も止まろうとしなかった。
結局、アキラとはそこで別れることとなった。
「いいのか?」
訊ねても、ケンタスは何も答えなかった。
後ろを振り返ろうともしない。
俺はどうしても気になったので、後ろを振り返ることにした。
そこには寂しそうな顔をした一人の子どもが立っているだけだった。
「泣きそうな顔をしているぞ?」
「人と係わるということは、つまりはそういうことなんだろうな」
ふと、カレンのことを思い出した。ケンタスのバカ野郎は情に篤いように見えて、人との関係をバッサリ切り捨てることがあることを忘れていた。縛り付けないのはいいが、適当な付き合い方も身に付けて欲しいところだ。
「なんとか日没前に辿り着けたな」
マクチ村の聖堂にいた男の言った通り、日没前にオザン村へと到着した。この村は山の手前にあり、峠越えをする前日に宿泊するには最適な村だった。宿泊小屋や厩舎も大きく、まさに宿場町と呼ばれるに相応しい村だ。
また、宿屋の主人もサービス慣れしているので、俺たちのような新兵にまで愛想よく接してくれる。王都札を持つ客は大歓迎のようで、宿泊小屋に食べきれないほどの食事を用意してくれた。ここの主人が後でどれだけ請求するのか気になるところだ。
「こんなに山盛りの黒ブドウなんて見たことないな」
ポークソテーでお腹をいっぱいにした後なのにパクパク食べることができた。
「舌が真っ黒だぞ」
とケンタスが笑った。
「お前もだろう」
と俺も笑った。
「ハハッ」
とボボまで笑った。
「ボボが一番不気味だな」
こんな下らないやり取りをしている時が一番楽しいのである。
「これ、食べたら食べただけ請求されるパターンじゃないよな?」
食べても食べても減らないのでどうしても気になった。
「もう遅いよ」
ケンタスの言う通りだ。
考えても仕方なかった。
「しかしハクタとオーヒンの州境にある村だというのに、随分と物資に恵まれているな」
率直な印象だ。
ケンタスが頷く。
「うん。食い物は地元の物だろうが、太いローソクや綿がいっぱい詰まった布団とか、かなりの贅沢品だが、惜しげもなく使われているもんな。はっきり言って、王都の近くでこれだけのサービスを提供できる宿はないぞ」
「こちらの方が、景気がいいということか?」
「物流のルートが一本しかないから、当たり前のように金が落ちるんだ。国道付近の土地を抑えている人たちは儲かって仕方がないだろうな。それが遷都でどのような影響が出るか分からないが、『道は人間でいうところの血管だ』というし、道路と経済の相関関係についてはもっと詳しく調べる必要がありそうだ」
道を通るにも税金を取られる時代が来るかもしれないということだ。マクチ村のような荘園に主要道路を通そうものなら通行料だって取られる可能性がある。それが現実化していないということは、まだ商人の力がそれほど強くないということなのかもしれない。
これもケンタスの兄貴の受け売りだが、道一つで時流を読むのが戦略家にとって重要な素養だと言っていた。地形や気候や市場や流通経路や人の流入などで、開戦前に勝敗を決しておくのが一流の軍師だそうだ。
そのためには情報が頼みの綱となるわけだ。ケンタスがアキラに『知っていることを話してほしい』と言ったのも、あらゆる情報を集めるためなのかもしれない。といっても今頃になって気が付いても遅かった。
「誰だ?」
ケンタスが扉の向こうに問い掛けた。
「ケン?」
アキラの声だ。
ケンタスが入口へ向かう。
「お入り」
と、ケンタスが扉を開けてアキラを迎え入れた。
「歩いて来たというのか?」
ケンタスの問い掛けにアキラがコクリと頷いた。
「お腹が空いたろうに、中で待ってるんだ。何か作ってもらおう」
と言って、ケンタスは宿屋の主人の元へ走って行ってしまった。
とりあえず俺とボボはテーブル席を譲ることにした。
二人並んで寝台の縁に腰掛ける。
「座って待ってるといいさ」
アキラは珍しく俺の言葉に素直に従うのだった。
外は既に真っ暗闇だ。
アキラはテーブルの上に立っているローソクの火をじっと見ていた。
「開けてくれ」
すぐにケンタスが戻ってきた。
「よかった。調理済みの食事が残っていたんだ」
そう言って、トレーをアキラの前へ置いた。
「温かいうちに食べるがいい」
俺たち三人は左右の寝台に分かれて座り、アキラの食事を見守った。
意外にも行儀のいい食べ方をしていた。
しかし、食前のお祈りはしなかった。
「本当に歩いてきたのか?」
アキラが食事を終えたところでケンタスが尋ねた。
「うん」
と、黒ブドウを口に放り込みながら答えた。
「午後から歩き通しで、それでも馬と変わらない速さというのは、たいしたもんだ」
「なに言ってるんだ。オラは朝からケンたちの後ろをついて歩いていたんだぞ?」
「日の出から日没まで歩いたというのか?」
「うん」
それが何か? という顔をした。
「それで馬と変わらないだと?」
「うん」
「まさか」
流石に信じられない。
「まさかって? オラはこれでも追い越さないように気を遣ってたくらいさ」
いや、嘘に決まっている。
「今日は一度も気配に気がつかなかったな」
ケンタスの言葉にアキラがニンマリとした。
「オラ、この丈夫な足のおかげで助かったようなもんなんだ」
急にアキラの表情に影が差した。
「幼い頃の記憶は馬車に揺られているところから始まっている。オラのことを売ったのは親かどうかも分からないや。言葉を話せていたと思うけど、喋っていたという記憶はないんだ。泣いたり笑ったりしていたかどうかも思い出せないよ。連れて行かれたのはマクチ村で、あの高い壁に囲まれた中だった。他にもオラと同じくらいの子がいたけど、喋ったら叩かれるから、みんな息すら音を立てないように吸っていたんだ。途中でおもらしした子もいたけど、鞭の男は犬を見る目つきで笑ってるんだ。聖堂に着くとすぐに身体を洗わされて、それから揃いの服を着せられて、神様にお祈りさせられた。その時は何も考えられなくて、言われたことを言われた通りにやることしかできなかった。その聖堂には十歳くらいまでの子どもが三十人近くいて、みんな同じ服を着せられていた。勝手に喋るような子は一人もいなくて、みんななぜだか笑っているように見えたんだ。最初はそれが不思議で仕方なかったけど、後ですぐに分かった。それは領主様が天使の石像みたいに笑えって言われてたからなんだ。オラたちを裸にして、一日中立たせて、少しでも動いたら怒鳴り声を上げて、朝から晩まで石像を彫ってた。二人きりになった時は身体中を触ってポーズまでつけるんだ」
これは本当のことだろうか。
「半年間みっちりと礼儀作法やお祈りの言葉や歌と踊りを練習させられると、今度はその歌をたくさんの人の前で披露させられるんだ。立派な服や綺麗な装飾品を身に着けた人たちの前でな。ほとんどがシワくちゃの老人ばかりだった。歌が終わったら、やっぱり裸にさせられて、今度は歌いながら踊らされた。男の子も女の子も関係なく、みんなやらされるんだ。逃げることなんてできないよ。だって生きていける世界は、もう、その狭い壁の中にしかないんだからさ。でも、本当に怖いのはそれからだ。その品評会で老人に気に入られてしまうと、どこかへ連れて行かれちゃうからな。何も知らないから、殺されてしまうんじゃないかって、勝手に考えちゃうんだ。背が伸びた男の子や、胸が膨らんできた女の子だけじゃなく、五歳か六歳くらいの女の子も連れて行かれた。連れて行かれた子は帰ってこない子がほとんどだけど、中には翌日に戻って来て、また歌の練習をさせられる子もいたさ」
俄かには信じがたい話である。
「私語は絶対にしてはいけないから、その帰ってきた子に何があったのか、気軽に訊ねることもできなかった。でもその機会は突然訪れた。一緒に石像のモデルをしていた時、領主様が腹を下していなくなった時、それで思い切って聞いてみたんだ。すると返って来たのが『交尾をさせられた』という言葉だった。『それは何?』と訊ねても、その子はその教えられた言葉以外に話せなくて、結局オラは何も理解することができなかったんだ。今は何もかも知っている。それがどんなに酷いことかも全部知っているんだ。その子はまだ九歳の女の子だった。言葉なんて教えられないから、満足に話せやしない。ただ、命令されるしかないんだ」
神に仕える神牧者がそんなことをするはずがない。
「それでいよいよ、オラも老人に連れて行かれる日が来ちまった。見ての通り、オラは部族の子だから、ずっと目に留まらなかったけど、老人が品定めをしている時に、オシッコがしたくなって、我慢していたけど、それが目立っちまったんだ。それで目をつけられて連れて行かれちまった。連れて行かれた先は聖堂の門を出たところにある民家の中だった。そこで老人と一緒に泊まるように命令されたんだ。その時ほど夜になるのが怖いと思ったことはなかった。話し掛けられても言葉が通じない振りをして、とにかく解放されることを心の中で念じていたんだ。それでもすぐにその願いが意味のないことだと理解できた。だって、衣服を剥ぎ取られて、身体中を触られて、流した涙まで舐められちまうんだからな。それから泣き叫んでいると、息が苦しくなって、何も見えなくなって、もう、何がなんだか分からなくなったんだ」
神に祈りを捧げる老人が、そんなことをするはずがない。
「気がついたら、血まみれになってた。そいつが鼻血を流しているのを見て、鼻をオデコで思い切りぶつけてやったって理解できたんだ。鼻を押さえて蹲ってたから、膝やつま先で顔の目や耳を蹴飛ばしてやった。目が特に嫌がっていたから、何度もつま先で突いてやったんだ。床に這っても動いていたから、止まるまで踵で顔を踏んづけてやったんだ。それから急いでそいつが身に着けていた装飾品を全部奪って村を出た。辺りは暗かったけど、夜が明けるまで走り続けた。途中で血を洗い落とすために休んだけど、太陽が昇った時にはオーヒン国に着いていたんだ。それがもう五年か六年も前のことになる」
話し終えたようだが、問題は全部作り話の可能性があるということだ。
「ねぇ、ケン、オラはあの時、人を殺しちしまったかもしれない。でも『盗みをしたことがあるか』って聞かれた時、『一度だけ』って答えたのは本当のことなんだ。なぜだか、ケンには嘘をつけなかった。それだけは信じておくれよ」
妙な拘りだが、殺人の方が遥かに罪は重いはずで、気にすべきはそちらだろう。
「盗みは悪かったな。でも、それ以外は仕方ないさ」
ケンタスよ、いや、友よ、正気か?
「オラの話、信じてくれるのか?」
「君が無事なら、それでいいんだ」
アキラの目に涙が溢れる。
「今まで誰にも言えなかった」
「アキラの抱えてきた苦しみは、今ここで終わったんだよ」
そう言うと、アキラが泣きじゃくってしまった。
ケンタスが説く。
「君は幼い子どもで、あの時、もしかしたら首を絞められて殺されていたかもしれないんだ。誰が君を裁くことができるというのだろう? 君を裁くような人は『抵抗せずにそのまま死んでしまえ』と無責任に命じる、殺人者の仲間だ。そういう人は、自分がどれだけ酷いことを主張しているか分かっていないものさ。『命を大切にして、絶対に人を殺さないように』と言いつつ、暴力をふるう相手には『たとえ殺されても、死ぬまで耐えろ』と言っているんだからね。あの時、君を守ることができたのは君しかいなかった。だから君は絶対に間違ってはいないんだ。もしも君を裁くような人がいるなら、オレが全力で君を守ってみせる。どんな相手でも、君に理不尽な死を従順に受け入れさせるような真似はさせないさ」
アキラが救われたかのような顔をするのだった。




