第二十一話 アキラ
兄のクトゥムに別れを告げて、ガサ村を出た。予定より遅れているが、急ぐことはなかった。馬を疲れさせないのが長旅のコツだからだ。とにかく信書を確実に届ければいいのである。
「森を抜ける頃には暗くなってるんじゃないのか?」
腹がいっぱいになると、今度は今夜の寝床が気になった。
「オーヒンへ行くまでの間に幾つかの村があるそうだから心配ないそうだ」
ここまで来るとケンタスも探り探りの状態だ。
「村がなくても、なんとかなるだろう」
ケンタスの答えが曖昧なのは、兄貴から仕入れた地理情報がここら辺で途切れているからだ。赴任先のオーヒン国で処分を食らってカイドル州へ飛ばされてから会っていないので、その二つの地方については何も分からないのである。
森を抜けると草原が広がっていた。龍の背中のようにくねくねとした一筋の馬車道がどこまでも続いており、目的地はまだまだ先だと思い知らされた。それどころか村がありそうな気配すら感じられなかった。
「少し急ぐぞ」
とケンタスが馬を駈足にした。俺とボボも後に続いた。馬たちは休養十分ということもあり、快調だった。消えゆく暖炉の中の火のような太陽に、草原の草たちは手を振っている。吹く風はまるで俺たちが起こしているように感じられた。
「ここら辺が限界だな」
草原を飛ばしに飛ばしたが、結局集落まで辿り着くことができなかった。馬の疲労もあるが、知らない夜道は怪我をさせる恐れがあるため無理をさせることはできないのである。二日続けての野営だが、今は薄くて丈夫な布のテントがあるので心配無用だ。
「思ったより良さそうな場所だな」
ケンタスが野営地に選んだのは、共用の馬車蔵が建っている緊急避難所のような場所だった。天候が荒れた時のために誰でも利用できるように無料で開放されているわけだ。この日は快晴だったので利用者は俺たちだけだった。
ここはあくまで緊急用であって、計算に入れて泊まるような場所ではなかった。特に荷物を抱えた行商人ならば、逆に賊が潜んでいないかと身構えてしまうようなポイントである。そのため街道からは離れた位置に建てられているのだ。
しかし、野宿を覚悟していた俺たちにとっては最高の寝床だった。前の人が残していった薪があったので、火を熾して持参した水を沸かして豆のスープを作ることができた。パンが硬いので不味くても温かい飲み物がありがたいのだ。
「どうした?」
調理中からケンタスが周囲を警戒しており、パンを齧りながらも闇夜に視線を合わせているので、とうとう我慢できなくなって訊ねてみたのだが、ケンは返事をせずに、闇夜を睨み続けるのだった。
「やっぱり感じるか?」
とボボが呟いたが、何を感じるというのだろう?
「一人いるな」
「ああ」
俺たちの他に人がいるというのか?
俺にはそれらしい気配がさっぱり感じられなかった。
しかし二人は、それをずっと感じていたわけだ。
だから不自然に無口だったのだろうか?
それでも剣を抜いていないところを見ると、危険ではないようだ。
「初めは小動物かと思ったが、どうやら違うようだ」
それがボボの印象のようだ。
「オレは鳥に近いと思ったな」
これはケンタスの印象だ。
「分かる。鳥ではないんだが、まるで鳥のようだな」
その言葉に二人が笑った。
俺だけ何が面白いのかさっぱり分からなかった。
それでも、とりあえず一緒に笑うことにした。
「しかし、凄いと思わないか?」
一転してケンタスが褒めだした。
「ああ、オイラの弟より身を隠すのが上手いな」
「しかも時々近づいているようだぞ」
「そうだな。それなのにまったく音を立てない」
「さらに風下にいて匂いも消している」
「本当に、たいしたヤツだ」
そんな奴が俺たちの周りをうろちょろしていたというのか?
調理中、俺はそいつに監視されていたというのだろうか?
だとしたら自分の鈍い感覚に腹が立つ。
いや、ケンタスやボボが敏感すぎるのだ。
「どうする?」
ボボがケンタスに判断を委ねた。
「分かった」
と言って、ケンタスは立ち上がり、風下の闇夜に向かった。
「おい! 隠れているのは分かっているぞ。オレたちは今晩、見張りを立てながら眠る予定だ。だからお前に盗める物は一つもない。それでも邪魔をするというのなら、こちらも容赦しないので覚悟するんだ。誰であろうと、寄らば斬る!」
その瞬間、闇夜に甲高い声が響き渡る。
「ああ、ちきしょう!」
声と共に闇夜から現れたのは一人の子どもだった。いや、背が低いのと声変わりしていないからそう思っただけで、実際のところは同い年の可能性もある。まぁ、でも、不貞腐れて歩いて来る姿は子どもそのものだった。
「オラが気配に気づかれるなんて、生まれて初めての屈辱だよ」
生意気そうなガキだが、最近はこういう子どもがとにかく多かった。
「オマエら、いや、その背の高い二人だけど、よく気がついたな」
コイツは俺が気配を感じなかったことまで知ってやがった。
「その装備を見ると王都から来たんだろうが、それで油断しちゃったんだな。だって、王都の兵士なんて揃いも揃ってウスノロばかりだろう? だから調子に乗って近づきすぎちゃったんだ。ああ、一生の不覚だよ。驚かせようと思ったのに台無しだ」
ペラペラとよく喋るガキだ。
「それは残念だったな。ところで名前は何ていうんだ?」
現れた相手が子どもだったので、ケンタスの口調が優しくなった。ということは、現れる前までは子どもだと思っていなかったということだ。二人が褒めただけあって、ケンにそう思わせるだけでも凄いことだ。
「ああ、本当は言いたくないけど、負けちまったもんは仕方ないや。オラの名前はアキラっていうんだ。家名は知らないから聞いたって無駄だぞ。年だって分からないから、これ以上は教えてやれることなんてないんだ」
アキラという名前だと大陸由来の南方民族系ではあるが、見た目はハッキリとした部族民で、ボボよりも民族の特徴である、一つ一つのパーツが大きい目鼻立ちをしていた。闇夜よりも黒い瞳をしており、短い黒髪を見て、ふと、ドラコの親友のことを思い出した。
「どこから来たんだ? この辺に民家があるのか?」
こういう場合の会話はケンタスに任せてあった。
アキラが笑う。
「家なんかあるものか、ここがオラの家なんだからさ」
流石にこれには黙っていられなかった。
「そんなわけないだろう? ここは共用の避難所なんだ。それがどうしてお前の家になるんだよ。いや、こんな大真面目に反論することでもないか。ガキの話を真に受けた俺が悪かったよ」
子どもに怒鳴ってしまっては大人げないと思ったが、当の本人は涼しい顔をしていた。妙に肝が据わっているというか、落ち着いているというか、度胸があるというか、とにかく兵士を相手にしているというのに平気な顔をしているのだった。
「まぁ、家のことはどうでもいいや。でも、その焚き火に使っている薪はオラが用意したものだから、ちゃんと金を払ってもらうよ。金がなければ物でもいいや。とにかく交換する物を出してもらおうか」
デタラメなことを言いやがる。
「ふざけるな。勝手なことを抜かしやがって。どこにお前が用意した薪だっていう証拠があるんだ。いや、いいや、お前が用意した薪でもいい。だったらな、明日森に入って枯れ木を拾って来てやるから、それで返してやるよ」
俺の言葉にアキラが首を振る。
「冗談じゃないね。オマエが燃やした薪はオラにとって大事な薪だったんだ。返すというのなら、そっくりそのまま同じ物じゃないと意味がないよ。人間だってそうさ、どこに同じ人がいるっていうんだ。物の価値が分からないヤツだな」
ケンタスが俺たちを見てニヤニヤしてやがる。
「ぺガス、お前の負けだな」
そう言うと、アキラに微笑みかけた。
「分かったよ。君の言う通りにしよう。しかし生憎だが、オレたちは新兵だから持ち合わせがないんだ。だからどうだろう? そこにあるスープの残りと、非常食の干し肉で手を打ってくれないか?」
その言葉を聞いた途端、アキラの顔が子どものような笑顔になった。いや、クソガキそのものだが、ケンタスに向けた笑顔だけは幼さが残る子どもそのものだった。
いや、そんなことはどうでもよくて、お人好しのケンタスには呆れるしかなかった。こんな奴は剣を抜いて追っ払ってしまえば良かったのだ。
「よほど腹が空いていたんだな」
ケンタスの言葉に一切反応せず、アキラは一心不乱に硬くなったパンと干し肉を交互に口に入れては懸命に噛み砕いているのだった。おそらく帰る家のない浮浪者だろう、それでも生き延びて来られたのだから大したものである。
「その肉やパンはケンタスの物ではなく、俺やボボの物でもあるんだからな」
「ぺガスはちっちゃな男だな。そんなことは分かってるに決まってるだろう」
「生意気なガキめ」
アキラがどういう経緯で浮浪者となってしまったのか聞きたかったのだが、ケンタスが訊ねないので黙っていることにした。
昔から浮浪者というのは少なくなかった。終戦直後に比べれば減ったという話だが、それでもどうしたって無くなるはずがない。
そもそも無くそうとすること自体が間違っている、という考え方があるようだ。浮浪者というのは、それ自体を一つの生き方として捉えるという超越した考えがあるからだ。
結局、万人に生き方を強制させるのは不可能ということだ。生を受けた時点で抱えている事情が、あまりにも違いすぎる。
「アキラ」
と声を掛けてみたが、その宇宙のような瞳を見ると、何も言えなくなってしまった。
「なんだよ」
「なんでもない」
「だったら気安く名前を呼ぶな」
そう言って、アキラはほっぺを膨らませるのだった。
「悪かったな」
事情を知らない俺が、浮浪生活をしているアキラに説教してはいけない。「真面目に働いたらどうだ」などと子どもに向かって言えるはずがないのである。
せめて「盗みだけはするな」と忠告しておきたかったのだが、それも命の補償を考えると躊躇われる。
「なぁ、アキラ」
おもむろにケンタスが声を掛けた。
会ったばかりの子どもと一緒に知らない土地で焚き火を囲む不思議な状況だ。
「なんだ?」
「お前、盗みをしたことはあるか?」
ケンタスも俺と同じことを考えていたのだろうか?
「どうなんだ?」
一瞬、間ができた。
「うん、あるよ。一度だけ」
「よく正直に答えたな」
「別に隠すことじゃないだろう?」
と言いつつ、アキラは俺たちと目を合わそうとしなかった。
「そうか、正直に答えてくれたら、それでいいや」
「なんだよ、なにか言いたいことがあったんだろう? だったら言えばいいじゃないか」
アキラがモヤモヤした様子でせがむのだった。
ケンタスが語る。
「アキラは自分で言ったろう? これは大事な薪だってさ。さっきのは単なる口車のついでに出た言葉かもしれないけど、物事の本質でもあるんだよ。つまり物の中には、その人にしか分からない価値があるかもしれないんだ。盗みそのものが悪いという話で終わらせることが多いけど、その中でもどうしても許されない盗みというのが存在するんだが、今のオレたちがそうだ。ここで何かを盗まれたら、自分たちだけではなく、家族にも迷惑が及ぶかもしれない。世の中には切羽詰まった状態の人も珍しくなくて、その状態で盗まれると人生が終わってしまう場合もあるんだ。ケチな窃盗なら決して許されないという罪ではないけれど、それで一生の恨みを背負うこともあるって覚えておいてほしいんだ」
その言葉を聞いて、アキラが立ち上がった。
「ケンには完敗だよ。もう馬を盗もうなんて思わないから、今日はゆっくり休むといい。約束する。オラはもうケンには逆らわないことにするよ。スープは不味かったけど、干し肉は美味しかったからな。それで満足するとするか」
と言って、アキラは闇に紛れて行った。
「あいつ馬を盗もうとしていたのか」
「ペガならチョロイと思ったんじゃないのか?」
「そうなのか?」
そう思われても仕方ない部分はあった。
「足に相当な自信があるんだろう。見知らぬ土地で三頭の馬を守るのは大変だからな。馬を驚かせて暴走させれば捕まえるのは困難だ。剣を背負って走ったら、オレでも先に捕まえられるかどうか分からないさ」
もしも剣を置いて行けば、今度はそっちを盗まれる。昔から「新兵は落馬の心配より、馬泥棒の心配をしろ」とキツく言われていることだ。実際に落馬事故よりも馬泥棒の被害が多いというのは実証済みである。
わざわざ新兵の俺たちが伝令兵に選ばれたというのも偶然ではなかった。ケンタスの兄貴の威光もあるが、それよりも馬を扱えるというのが一番の理由だろう。休ませるタイミングなど、特に重要なのだ。
「今夜は交代で休むとしよう」
念には念を入れて、代わりばんこで眠ることにした。泥棒にゆっくり休んでいいと言われて、本当にゆっくり休むバカはいない。他にも賊がいるかもしれないので、いつでも応戦する心の準備も必要だ。
それでも交代制の時は、眠れる時にしっかり眠った方がいい。こういう時、目を閉じた瞬間に寝息を立てられるボボの特技が心底羨ましいと思うが、反対に、それほど眠らなくていいケンタスの体質については余り羨ましいとは思わないのであった。




