第三十一話(207) 公子の誓い
「公子!」
僕の名前を呼んだのはソレイン・サンだ。
「一体なにがあったというのですか?」
偽盗賊団の退治をランバの部隊に任せて、隠れ家のあるセトゥス領に帰ってきたら、道いっぱいに死体が転がっているので驚いたのだが、そこにガレットのお兄さんがいたから更に驚いるというわけだ。
「いや、ちょっと待ってください」
島民なら誰もが知っている軍旗が目に入った。
「あれはジェンババの旗印ではありませんか?」
「そうです。我が軍の参謀長はそのジェンババです」
ソレインが誇らしげだ。
「ここに転がっている死体はセトゥス軍の支援部隊で、指示が出るまで隊列を組んで待機していたのですが、この暑さでしょう? 敵軍は必ず湧水が豊富で、木陰が充分な場所で休ませるからとジェンババが言うので、敵軍一万五千に対して、こちらは三万で包囲したわけです」
ジェンババは人間の行動を予測して、そこから逆算して作戦を立てると聞いた。
「持っている矢をすべて撃ち込んでやりましたよ。真夏の炎天下に矢の雨を降らせてやったんです。いやぁ、圧巻でしたね。浴びせ倒すと言ったらいいのかな? だけど、まさか全滅させることができるとは思いませんでしたが」
涼を求めることを優先して、逃走ルートの確保をおざなりにしてしまったのだろう。
「おかげで放った矢を回収するのに手間取っている始末です。ただ、これだけの戦利品があれば、連れてきた兵士とっては充分な見返りになったでしょうし、ひとまず安心ですね。補給用の物資も手つかずの状態なので、そのままミクロス隊と合流できますよ」
ミクロス?
「ミクロスは生きているんですか?」
ソレインが笑う。
「あの悪たれが簡単に死ぬわけないでしょう?」
「カイドルは滅亡したんじゃないんですか?」
「陛下もご無事ですよ?」
「ガレットは?」
「公子の許へ走って行きましたが、行き違いになったのでしょうね」
ガレットはずっと僕の命を守ってくれていたのだ。
「ということは、つまり、どういう状況になっているんですか?」
もう、頭がパニックだった。
「南軍はかなり厳しい状況に追い込まれているんです」
「形勢は逆転しました。ミクロスが一万五千の兵を率いてキナイ峠に向かったんですが、その兵士らに、支援部隊であるセトゥス軍の軍服を着せて、味方の振りをして本隊と合流させるわけです。ジェンババの作戦ですが、大打撃を負うことになるでしょうね」
ジェンババの作戦には、正々堂々と戦う、という教えはないという話だ。
「コルヴス国王がオーヒン城に籠っているそうですが、なぜか人の姿がないようで、確認しても衛兵の数が二千人もいないそうなんです。それでユリスが五千の兵を伴って向かったのですが、明らかに罠のにおいを感じるじゃないですか? それでユリスも攻撃を仕掛けられないらしく、それでここの武器や備品の回収と、領内にある財産を没収したら、そのままオーヒン城へ向かう予定なんです」
つまり僕たちは勝ったということだ。
「馬を一頭、できれば疲れ知らずの名馬を貸してくれないでしょうか?」
もう姿を隠して移動する必要はない。
「亡きハドラ神祇官との誓いを果たしに行かなければなりません」
「だったら、おれの馬が世界で一番です」
僕はサン兄妹が大好きだ。
今日という、この日、世界は変わった。
いま、僕は自分たちのものとなった道を駆け抜けている。
堂々と道を走れることが、これほど気持ちいいとは、忘れていた感覚だ。
すべての者が命を懸ける必要はない。
命を懸けるのは僕の仕事だ。
他の人は微力でもいい。
僕が大きく貢献してみせる。
それが公人である僕の仕事だからだ。
理由は、気持ちがいい、ただそれだけだ。
ただ、エリゼを助けるのは公人だからじゃない。
僕が望んでいるからだ。
ハドラ神祇官への誓い。
僕が勝手に誓ったのだ。
エリゼを守ると。
ハドラ神祇官の奥方様を守ると。
ハドラ家の家名を守ると。
命を助けられた恩は必ず報いると。
それが僕の立てた誓いだ。
目指すはコルヴス領の別荘地。
まだそこに匿われているはずだ。
僕の裏切りが発覚するのは早くても今夜だろう。
敗北を知り、背信行為に思い至る。
時間的猶予は半日くらいだろうか。
人質として交渉に使えると考えるはずだ。
先に救出しなければならない。
アント・セトゥスは危険な男だ。
絶対に人質を取らせてたまるものか。
「やぁ、公子」
案の定、コルヴス邸に姿を見せても警戒されなかった。情報というのはそれほど早く伝わるものではないので、邸を守る警備兵らは、まだ僕のことを味方だと思っているというわけだ。見張りは二人しかいないので、エリゼと夫人を連れ出すのは簡単だ。
「それにしても、いい馬をお持ちですね」
建物裏手の厩舎に馬を繋いだところで見張りの一人に話し掛けられた。
「賭け馬としてゲティス陛下に献上しようと思ってね」
「陛下は賭け事なんてしませんよ」
「やってもらわないと困るんだ」
「それはまた、どうしてですか?」
「戦争が終わったら馬の使い途が減るじゃないか」
「なるほどね、そいつは確かにそうだ」
コルヴス家の私兵なので戦争に勝てると確信しているようだ。
「給水を頼めるかな?」
後で殺し合いになるかもしれない相手なので、この辺で切り上げることにした。
「お安いご用で」
なるべく殺したくない相手だ。
それから玄関口に回った。
立派な呼び鈴があるので、それを鳴らす。
エリゼに会える。
会う前から笑顔になってしまう。
真実を語る時がきた。
もう偽らなくてもいいのだ。
それが何よりも嬉しかった。
扉が開いた。
と思ったら、頭を殴られた。
目を覚ますと、椅子に縛られていた。
全身ずぶ濡れだった。
どうやら水を掛けられたようだ。
「ああ、よかった」
見上げると、バケツを持ったルシアス・ハドラが見下ろしていた。
僕はバカだ。
「公子、僕は父上のようには騙されませんよ」
頭が回らない。
今の状況は?
ここは客間のようだ。
長椅子にはマナ夫人。
その隣に、エリゼ。
エリゼが縛られている僕を見ている。
助けようとはしてくれなかった。
ルシアスが僕の頭の傷を見る。
「公子は大事な人質ですからね、死なれては困ります」
人質を救出しようとして、人質になってしまったようだ。
これは予想できたことだ。
それだけに浮足立っていた自分が腹立たしかった。
「ハドラ夫人」
真実を伝えれば分かってもらえるはずだ。
「ご主人を殺めたのは長兄のリュークです」
「嘘をつくな!」
と言って、ルシアスが僕の頬をはたいた。
「リュークはこの男に命令されたのです」
「デタラメを言うな!」
そう言って、また叩きやがった。
「オーヒン国に潜入捜査するために、仕方なく嘘をついたのです」
「その証拠はどこにある?」
言われてから、証拠がないことに気がついた。
僕は大バカだ。
どうして『話せば分かってもらえる』と勝手に考えたのだろう。
「証拠はある」
僕しか知り得ない情報は証拠になり得るはずだ。
「僕はカグマン国のスパイで、ハドラ神祇官の下、ドラコ・キルギアスと共にスパイ活動を行っていました。猊下のお力によってパナス王太子とパヴァン王妃を救い出すことができたのです。そして、カグマン国は勝利しました。僕を人質にしようとしているのは、敗戦国のゲミニ・コルヴスか、アント・セトゥスでしょう。僕の命と引き換えにして、恩赦を求めるか、軍事裁判を行わないように取引するつもりなのです」
ルシアスが僕を殴る。
「母上、この男が言っていることはすべてデタラメです。確かにカグマン国は戦争に勝利しましたが、七政院の高官を殺したのも事実であり、王家伝来の神器が盗まれたのも事実なのです。それをこの男は僕たちハドラ家のせいにしようとしているのです。この男がここに来た目的は、僕たちを殺すためなのですよ?」
ルシアスの話には事実も含まれているから否定するのが難しかった。
「ハドラ夫人、こんなところでのんびり話している暇はありません。もうじき敵兵が僕を捕まえにくるでしょうからね。ですから一緒に逃げましょう。今から逃げれば捕まらずに逃げ切ることができます」
ルシアスが訴える。
「母上、聞きましたか? この男は自分が追われると分かっていて、僕たちハドラ家の隠れ家にやって来たんですよ? この男が来なければ、僕たちに危険はないんです。それじゃあ、まるで僕たちを危険に巻き込みに来たようなものじゃありませんか?」
面倒臭い男だ。
「僕が助けに来なければ、エリゼを人質に取って、僕を誘き出すに決まっています。僕が隠れ家を見張らせていることは周知の事実なのですからね。僕がスパイだと分かれば、命懸けでエリゼを救いに行くと予想できるじゃないですか」
それでもハドラ夫人は僕を助けてはくれなかった。
「母上、くれぐれも騙されないでください。この男はハドラ家を破滅させた張本人なのですからね。父上の死を兄上のせいにして、兄上の死を僕のせいにしようとしています。ハドラ家の土地と家名を盗むのが目的なのでしょう。その証拠に、ほら、見て下さい」
そう言って、僕の首に掛かった紋章を手に取る。
「ハドラ家の人間でもないのに当家の家紋をぶら提げているのです」
「いや、これは猊下から直接いただいたものだ」
「殺して盗んだな?」
「そんな真似するはずがないだろう」
「死人に口なしというわけか」
こんなもの貰うんじゃなかった。
「一つだけ訊ねます」
ハドラ夫人だ。
「紋章は二つありませんでしたか?」
「いいえ。一つでした」
「二つあったはずですよ」
「いいえ。猊下とご長兄、それぞれ一つずつしか持っていませんでした」
「リュークの紋章はどこに?」
「ご次兄に渡しました。猊下のご命令です」
「そうですか」
そこで立ち上がった。
「よく分かりました」
それからテーブルの上にある僕が持参した短剣を手に取るのだった。
「主人の仇を討たねばなりませんわね」
間違っている。
「母上、お待ちください」
止めてくれたのが、よりにもよってルシアスだった。
「この男は大事な人質です」
「わたくしは家を守らねばならないのです」
「そのためにも必要だといっているのではありませんか」
「家を守るとは、こういうことなのですよ?」
「な、なんで?」
と言って、ルシアスが両膝をついた。
見ると、腹から大量の血が溢れていた。
ハドラ夫人が殺したのは息子のルシアスだった。
「母上……、なんで僕を?」
「金の紋章は盗人の証です」
「そんな……」
ルシアスが血を吐いた。
「土の紋章も、金の紋章も、どちらも、おまえの父親のものなのですよ? 本当の価値が分からぬ者は、金というだけで、そちらを盗みますからね。リュークは父親から金の紋章を盗んだのです。それがあなたの手に渡ったということは、父親を殺したのは、あなたということになるのです」
危なかった。金の紋章をルシアスに渡していなかったら、僕が殺されていたということだ。金製品なので渡さずに持っていようと一度は頭をかすめたが、危うくエリゼのお母さんに殺されるところだったわけだ。
「追手が迫っているというのは本当ですか?」
と訊きつつ、ハドラ夫人が縛りを解いてくれた。
「はい。僕がスパイだということはバレたと思います」
「そうですか」
そこで廊下にいる使用人を呼ぶ。
「今すぐ馬車の用意を」
「かしこまりました」
そう言うと、ルシアスの死体を一瞥し、仕事に戻るのだった。
「ハドラ夫人、表にいるコルヴス家の見張りには何と説明しましょう?」
「何を言っても同行するでしょうね」
そう言いつつ、ドラコの剣を返してくれた。
つまり『始末しろ』ということだ。
「分かりました。僕の方で何とかしたいと思います」
「お願いしますね」
「あの、奥様」
言っておきたいことがあった。
「猊下を、いえ、ご主人をお守りすることができなくて、申し訳ありませんでした」
「殿下と王妃陛下をお守りすることができたなら、それでいいではありませんか」
それで割り切れてしまうのが国政に従事する名家の細君だ。
「ダンナ! てぇへんだ」
そこへ外からジンタの声がした。
「僕が行ってきます」
ということで、二人を残して玄関口に向かった。
「ああ、よかった」
ジンタが僕の顔を見てホッとする。
「ルシアスに殺されたかと思いやしたぜ」
「そこまで知ってて、なぜ助けにこなかった?」
「勘弁してください。命を助けろなんて頼まれちゃいませんぜ」
確かに、非力な者は助けに行ってはいけないものだ。
「それより弓を持った兵隊が大勢やってきますぜ」
「大勢とは?」
「馬車に乗っていたのを全部入れると三十人くらいですかね?」
「弓兵の三十か……」
「ダンナ一人に三十人とは大した評価じゃないですかい?」
「からかうのは止せ。それより、どう切り抜けるかだ」
とりあえず客間に戻ってハドラ夫人に説明することにした。
「召使いや使用人を置いて行くわけには参りません」
そう言うと、ハドラ夫人は椅子に腰を落ち着けてしまった。
「ですが、三十人の弓兵相手では、全員を無事に連れ出すことはできません」
「何を言っても答えは変わりませんよ」
エリゼも母親の隣に座るのだった。
「敵の狙いは僕ですが、僕を逃せば、お二人を人質に取ると予想できます。そうなると今よりも難しい状況になってしまいます。お二人だけならば守ることはできますが、全員となるとお約束できません」
そう言っても、もう返事すらしてくれなかった。
「とりあえず、状況を確認してきます」
客間を出たところで、状況が好転することはない。何よりも厄介なのが、剣士や槍兵ではなく、相手が弓兵という点だ。弓矢という武器は腕が悪くても、新兵の放った一矢がまぐれで急所に当たることがあるから怖いのだ。
剣や槍が相手ならば絶対に負けない自信があるけど、弓矢が相手ではその自信が一気にゼロになってしまう。弓を持って待ち構えている相手に突っ込んでいける人間なんて、この世にいるわけがないのだ。
だから敵も僕が投降すると思って弓隊を送り込んできたのだろう。僕の剣の腕を知っているということは、敵はセトゥス家の残党に違いない。自治領軍が全滅したので、僕を人質に取って逃亡する気なのだろう。
コルヴスの別邸が石造りということもあり、火を放たれる心配がないということで、籠城することが決まった。僕としても踏み込まれて近接戦を挑まれた方がマシだから納得できた。それと邸が堅牢であるのも理由の一つだ。
「ダンナ、てぇへんだ! なぜか全員死んでますぜ」
翌朝、ジンタが吉報をもたらした。
それを聞いた瞬間、ガレットが助けにきてくれたと思った。
なぜなら彼女は、ガレット・サンだからだ。




