第三十話(206) ミルヴァの負け
「マルン」
私の名前を呼んだのはミルヴァだ。
「わたしたちも行くわよ」
ユリス・デルフィアス率いるカイドル軍襲来の報を受け、コルヴス親子とセトゥス親子はすでに統合作戦本部が置かれているオーヒン城内の議場へと移動していた。そこへ私たちも向かっているというわけだ。
「報告だ! 新しい報告はまだか!」
ゲミニ・コルヴス宰相がウロウロしながら叫び続けていた。議場には彼らの他にもコルピアスを除く七政院の高官らが席に着いているけど、全体で話し合うわけではなく、それぞれの出身地域や派閥で協議している感じだ。とにかく、まとまりがなかった。
「デルフィアスが生きていただと? 冗談にもほどがある!」
誰も独り言を喚き散らすゲミニと目を合わせようとする者はいなかった。ミルヴァも壇上の隅っこに座り、無表情で新しい報告を待っていた。本当は今すぐにでも自分の目で確かめたいだろうけど、情報が間違っていた時のために留まっているのだ。
武器等の持ち込みは禁止されていたが、ミルヴァは『イナズマの杖』を持って座っていた。いざという時に全員を雷魔法で殺して逃げるためだ。城内にいる人は『アネルエ』と『アナジア』を同一人物だと見破れないので、全員に殺傷魔法を掛けることが可能だ。
「宰相閣下」
そこへ息を切らした衛兵がやって来る。
「新たな情報が入りました!」
「待ってたぞ!」
「こちらに向かってくる敵兵の数は五千。繰り返します。敵兵の数は僅か五千です!」
そこで場内は安堵と共に、喜びと嘲笑の混じった笑いに包まれるのだった。
「五千だと?」
ゲミニもバカにしたように笑うのだった。
「はっ、間違いございません」
「よし、結構だ。下がってよいぞ」
「宰相閣下」
ウッキウキのゲミニに対して、最前列に座るアント・セトゥスは冷静だった。
「どうされるおつもりですかな?」
「どうするも何も、返り討ちにしてくれるわ」
「それはいけませぬ」
その言葉に場内がざわついた。
「貴官は何を申しておる?」
説明が長くなるのか、セトゥスが水で喉を湿らせる。
「よいですかな? ユリス・デルフィアス国王陛下がご健在ということは、カイドル国は滅亡などしていなかったということになります。となると北部の覇権は未だデルフィアス陛下の御手に握られたままということでございましょう。もしもこのままデルフィアス陛下が祖国に帰還するようなことがあれば、次は自治領軍と呼ばれている大貴族お抱えの傭兵軍団を引き連れて攻めてくるやもしれませんぞ? しかも、その場合は北方からの攻撃も考え得るので挟み撃ちにされるのです。それでどうして浮かれていられましょう?」
一気に場内の熱気が冷めた。
「いや、そうとも限らんぞ?」
ゲミニも長い舌でペロペロと水を飲む。
「なぜこの時期に現れたのか、そこをよくよく考えてみる必要があるのではないか? 五千の兵を引き連れていたということは、どこかで身を隠しながら戦況を読んでいたわけだな。昨日の時点ではカグマン軍がやや優勢だったものの、今日になって形勢が逆転したところで、突如として現れたわけだ」
普通に街道を移動していたら五日前くらいには報告があったはずだ。
「つまり昨日の段階で和睦の申し入れがあったならば、無駄なあがきを止めさせるための降伏勧告だということが分かる。しかし、戦況が不利になった、まさに風向きが変わった瞬間に現れたということは、自治領軍などという手持ちの札など持っておらぬということだ。それで脅し文句を並べ立て、無条件降伏を押しつける気であろう。要するに、ハッタリをかましに来るということだな」
確かにユリスに自治領軍を動かせるなら、フィンスにも動かせるはずだ。そのフィンスが手持ちの王宮軍だけで戦っているのだから、ユリスが帰還したところで変わらないだろう。やはりゲミニ・コルヴス、いや、ゲミニ・フェニックスの天下だろうか?
セトゥスが訊ねる。
「では、改めてお訊ねしますが、宰相閣下はいかがされるおつもりですかな?」
ゲミニが楽しそうに考える。
「そうよのう、……ふふっ、所詮は五千の敗残兵であろう? こちらには城下町の警備兵も含めれば一万の衛兵がおるのだ。人生で一度くらい、後世に史実として、名を残すような武勲を立てるのも悪くないわい」
影として歩んできた男が、生まれて初めて表舞台に立つことを決意したようだ。
「よし、城門前の御前広場に一万の衛兵を今すぐ集めよ!」
衛兵が号令に従うように議場を出た。
「これよりユリス・デルフィアスを迎え撃つ!」
演説が似合わない男だ。
「このわしが、その指揮を執る!」
それでも、場内から拍手喝采を浴びるのだった。
城内にいるすべての人間が外の御前広場に集められたので、私も向かっているところだけど、その間もミルヴァは無言だった。自分の狙い通りいかず、裏をかかれたわけだから、当然腹立たしく思っているはずなのに、それを表に出さないのだ。
ヴォルベのことを少しでも警戒していたら、カグマン国が勝利することはなかっただろうし、大火事になった官邸の現場検証をもう少し注意深くしていたら、死んだユリスが偽者だと分かっただろうし、そういう詰めの甘さを認めたくないのだろう。
今回の場合は三十年前と違って、四悪人に騙されたわけじゃないから、感情の置き所に困っているのかもしれない。フィンスにしても、ヴォルベにしても、ユリスにしても、どちらかというと、これがお芝居ならばミルヴァの方が悪役のように思えるからだ。
私にできることは、これ以上ミルヴァが暴走しないように止めてあげることだろうか? やはりビーナが言っていた通り、ユリスを見殺しにするという一線だけは越えてはならなかったのかもしれない。
といっても、まだユリス・デルフィアスが助かったわけではないのだ。今度はゲミニ・コルヴスに殺されるかもしれないからだ。とはいえ、ユリスの方からオーヒン城に乗り込んでくるので、私には止めようがなかった。
「少し早く来すぎたみたいだな」
がらんとした御前広場に到着したゲミニが苦笑いを浮かべた。
「兵士たちは防具を身に着けねばなりませんから」
補佐官が説明した。
「おう、そうであったな」
広場を見下ろすバルコニーには城内にいる高官らが勢揃いしていた。
ゲミニが補佐官に訊ねる。
「敵軍はどこまで迫っておるのだ?」
「歩兵ばかりとの報告ですので、到着には今しばらく掛かるかと」
「慌てる必要はないというわけだな」
広場に整列している兵士は、見たところ一列百人として、二千人弱だろうか。
ゲミニが待機している兵士に呼び掛ける。
「その場で楽にするがいい。それでは戦う前に疲れてしまうぞ!」
広場から乾いた笑いが起こった。
その後の静寂が気まずかった。
そこでゲミニが思い出す。
「おお、アントよ」
セトゥスこと、ネズミオヤジのことだ。
「そういえば支援部隊の方はどうなった?」
「もうすでに出撃命令を出しておりますので、明日には本隊と合流するかと」
「おお、さすがは参謀長!」
セトゥスが参謀長とは初耳だ。
ゲミニが声を潜める。
「アントよ、念のために訊ねるが、支援部隊は城の衛兵を派兵したんじゃあるまいな?」
「いいえ、とんでもございません」
セトゥスの方は普通の声量だ。
「二万の追加支援を送りましたが、内訳は我が自治領軍一万五千と、残りの五千はコルピアス領に戻ってきた兵士、つまり第一陣として戦った者たちで、その中でも軽傷の者に追加任務を課したので、一万の衛兵はそのままでございます」
ゲミニが頷く。
「おう、そうか、それならば結構だ」
それからしばらく経っても、広場に兵士が集まることはなかった。
「遅い! 遅いぞ!」
ゲミニがイライラしている。
「兵士どもは一体なにをしておるのだ?」
そう言って、バルコニーの中を行ったり来たりするのだった。
そこで補佐官がヘビオヤジに歩み寄る。
「宰相閣下」
ゲミニがギロリと睨む。
「敵襲に備えて、そろそろご指示を出した方がよろしいかと」
その言葉に激昂し、ゲミニがサーベルで叩く真似をする。
「指示だと? 兵士が集まらぬのに何を指示せいというのだ?」
「申し訳ございません」
「さっさと兵士どもを呼んでこんか!」
それからしばらく経っても、やはり兵士は集まらなかった。
「宰相閣下!」
そこへ息を切らした補佐官がやってきた。
ゲミニが笑顔で迎える。
「やっとか。待ちくたびれたぞ」
「ご報告申し上げます!」
そう言って、バルコニーから空の彼方に手を広げる。
「城下町に町人の姿がありません!」
「ん?」
私もゲミニと同じく補佐官の言っている意味が理解できなかった。
「町人がいないとは、どういうことだ?」
「オーヒン市内へ向かったと思われます!」
「一万の衛兵はどうした?」
「同じように市内へ向かったと思われます!」
とりあえず大きな声を出して誤魔化している感じだ。
「ならば城の防衛はどうする?」
「残された者たちで戦うしかありません!」
「五千の敵軍に勝てるのか?」
「二千の兵では勝てません!」
「では、どうする?」
「わかりません!」
会話の途中で、半分の高官がバルコニーから姿を消した。
「宰相閣下」
アント・セトゥスが余裕を持って語り掛ける。
「ご提案させてもらってもよろしいか?」
頭を抱えていたゲミニがニコッとする
「おお、アント、なんだ? なんでも言ってくれ」
「我々セトゥス家の自治領軍に王城を守らせてはいかがですかな?」
「おお、そんなことができるのか?」
「出撃させた支援部隊が陛下にご挨拶するために、そろそろ現れる頃ですからな」
「おお、なんという僥倖!」
ゲミニが飛び跳ねて喜ぶのだった。
「宰相閣下の手柄を横取りして申し訳ありませんがな」
「何を申すか」
そう言って、いい歳をしたおっさん同士が肘で小突き合うのだった。
「閣下!」
そこへ息を切らした伝令兵が走ってきた。
どうやらセトゥス領の私兵のようだ。
「宰相閣下の御前であるぞ?」
セトゥスは努めて平静を装った。
「失礼しました!」
「伝令を聞こう」
「はっ」
伝令兵が敬礼する。
「我が、セトゥス軍、一万五千、先ほど、全滅いたしました!」
それを聞いたネズミオヤジの開いた口が塞がらなかった。
「全滅だと?」
力なく訊ねたのはゲミニ宰相だった。
「はっ、出撃命令を伝えに行ったところ、すでに味方は全滅しておりました!」
「何があった」
「はっ、推定三万、敵ジェンババ軍に包囲殲滅されたと思われます!」
「ジェンババだと?」
誰もが我が耳を疑うような顔をしていた。
「はっ、ジェンババの軍旗に間違いありません!」
ゲミニが呟く。
「……悪い夢を見ているようだ」
それは、まるで魔法だ。ミルヴァの魔法よりも凄い魔法かもしれない。伝説の軍師を現代に甦らせるなんて、そんな召喚魔法は本物の魔法使いであるミルヴァでも不可能だからだ。名前だけ利用したデモン・マエレオスとも訳が違う。
人間は決して魔法を使えるようにはならないけど、魔法のような奇跡は起こせるのかもしれない。それが五十年振りに戦場へ帰ってきた『ジェンババの再臨』だ。老師の心を動かせる何か、それとも誰かがいたのだろう。
一人では起こせない奇跡も、多くの人の共感を呼べば、やがて大きな奇跡となる。それが人間の起こす魔法ではなかろうか。たった一人で孤独に活動を続けてきたミルヴァを思うと、それがあまりに対極すぎて、哀しくて、切なくて、胸が痛くなった。
森の奥で新しい魔法を独りで発明しているけど、それを喜んだり褒めたりしてあげる者は誰もいないのだ。私としても魔法が使えないから、彼女の真の凄さを理解してあげることはできないので、彼女ほど孤独な者は他にいないだろう。
身分や人種を超えて、全員で協力して起こした奇跡を目の当たりにして、ミルヴァは何を思うだろうか? 本当はその奇跡をミルヴァが起こしたかったのではなかろうか? そして、全員で喜びを分かち合いたかったはずだ。
「ゲミニ宰相閣下!」
補佐官が報告する。
「城下町から町人が消えた理由が判明しました」
「衛兵が国王のいる城を勝手に放棄したのだぞ?」
「その理由も分かっております」
「なんだ? 言うてみい」
ゲミニにはまったく心当たりがないようだ。
「おそらくではありますが、ビナス・ナスビ―が関係しているかと思われます」
「ビナス・ナスビ―だと?」
「はい、劇作家の」
「そんなことは知っておる」
それはビーナのペンネームだ。
「ビナス・ナスビ―など、ひと昔前の流行作家ではないか」
「はい、それが一年ほど前からリバイバル上演が市内でヒットしておりまして」
「それがどう関係あるのだ?」
「はい、実は『ブルドン王の生涯』にエピローグが追加されたのです」
「何を加筆したというのだ?」
補佐官が言いにくそうにする。
「はい、実は、その、ブルドン王が死の間際で、臨終の言葉として、一人息子のオークス殿下に王位を譲るシーンが追加されまして、その頃から、オークス殿下こそ、オーヒン国の第二代国王と呼ぶ者が増えたわけでございます」
ゲミニが鼻で笑う。
「くだらない芝居の台本だぞ?」
「国民は亡き国王のお言葉だと信じております」
「作家が書いた駄文ではないか?」
「宰相閣下も、昔はお芝居に夢中になっていたと伺っておりますが」
その言葉に項垂れたのは、ゲミニだけではなかった。
ミルヴァも敗北を知り、打ちひしがれていた。
そこで、緞帳が降りたように日が沈むのだった。
ビーナはたった一冊の本で世界を変えてしまったというわけだ。ことあるごとに芝居を小バカにしてきたミルヴァには信じられないことかもしれない。でも、本には世界を変えるだけの力がある。それをビーナは、たった独りで証明したというわけだ。




