第十九話 試練の森
厩舎に向かったので尋ねてみる。
「馬を置いて行くのか?」
ケンタスが頷く。
「ああ、馬に何かあっては任務を続けられないからな。世話を頼んで、ここで一旦休ませるのも一石二鳥かもしれない。途中で逃げた馬を捕まえる機会も訪れるかもしれないし、ここは徒歩を選択すべきだろう」
ということで、厩舎にいる牧夫に馬の世話を頼んで森に入ることにした。それと牧夫から兄貴が二日前に森に入ったとの情報を聞くことができた。クルルさんに聞き忘れたが、どうやら兄貴は歩いてガサ村へ来たようだ。
それも考えてみれば当然だ。牧夫が一人で移動手段に馬を使うのは危険すぎるからだ。腕に自信があればいいが、ないなら止めておくべきなのだ。馬を預けられるような宿は割高だし、安宿に泊まれる歩きが安全というわけだ。
それと牧夫からの情報として、ここ一週間以内にガサ村で様々な異変が起こっているということを聞くことができた。話によると、馬の盗難よりも試験中の被験者が失踪してしまったことの方が深刻な問題となっていた。
部隊長になるための試験には幾つかのテストが用意されているが、手始めに受けるのが『試練の森』と呼ばれる持久力テストだ。持ち物の持ち込みを禁止した状態で、森の中で四週間も過ごさなければならないのだ。
そのテストを受けて、本来なら数日前に帰って来る予定だった被験者たちが戻らないので問題となったのだ。通常でも事故が起こりやすいテストなのだが、テストを受けている五組の被験者が誰一人戻らないというのは前代未聞だそうだ。
それで捜索隊が結成されたのが三日前で、兄貴を加えた第二捜索隊が森に入ったのが翌日のことだったようだ。その第一捜索隊も昨日のうちに一旦ガサ村に戻る予定のはずが、戻らないので緊急事態となっているわけだ。
牧夫に「俺たちも森に入る」と言うと止められたが、固い意志を見せると軽い素材でできたテントを貸してくれた。その時点で相当な覚悟が必要だということが分かった。それから乾物の食料と刃先の鋭い小刀も持たせてくれた。
二日前に森へ入った捜索隊は森の西側にある湖を目指したということで、俺たちも同じ方向を目指した。曇ってしまうと確実に方向を見失うが、この日は晴天なので心配はいらなかった。
「なぁ、ケンよ」
森を歩きながら尋ねてみる。
「それにしても百人隊だけではなく部隊長の志願者までいなくなるって、どういうことだろうな? 自ら望んでテストを受けている連中なんだろう? 失踪は有り得ないじゃないか?」
ケンタスが歩きながら答える。
「うん、そうだな。途中でリタイヤするわけでもなく、もうすぐクリアできるという段階でいなくなるわけだから、何かあったと考える方が自然ではあるな」
森の中はガサ村へ来るまでの様子と変わらないが、馬車道がないというだけで不安が増大するものだ。特に失踪者だけではなく、彼らを捜しに行った捜索隊まで戻らないので、怖くならないはずがないのだ。
一度でも怖いと思ってしまうと、鳥のさえずりまでもが薄気味悪く聞こえてしまう。風で木立が揺れるだけで、そこに揺らしている何かがいるんじゃないかと、身体がビクッと固くなるのだ。先ほどまで心地よく感じていたはずの空気まで今はひんやりとしていた。
「考えてみれば、この持久力テストだけど、途中で逃げようと思えばいくらでもできるな」
ケンタスが俺の雑談に付き合う。
「それは可能だけど、逃げるくらいなら、そもそもテストを受けないんじゃないか? テストを受けるだけでも相当見込まれているということだし、行方をくらます機会は幾らでもあるからな。それにそういう人らは、いわば出世を許可された家の出身でもあるんだ。つまり実家の土地など担保がある人たちだけなんだよな。だからよっぽどのことがない限りは自分から消えることはないだろうよ。しかも今回は五組が一斉に消えたというじゃないか。出世欲がある人間が五組もいて示し合わせるなんてことはないだろうし、それにテストも第一段階だし、ここで他人の足を引っ張るには先が長すぎるんだ」
なるほど。
「だったら事件か事故か、そのどちらの可能性が高いんだ?」
ケンタスが即答する。
「今のところは五分五分だな。このテストは四週間に渡って森の中で自活することになっているけど、事故防止のために毎日生存報告が義務付けられているという話だ。だから個別で何か起こったらすぐに分かるんだよ。そういうシステムなのに五組が一斉に消えたということは、単純に襲われたとか、仲間割れが起こったとか、災害に巻き込まれたとか、そんな理由ではないんだろうな。一人でも生きていればキャンプ地に戻ってくるだろうからな。特殊精鋭部隊の百人隊も消えたというし、同じタイミングで消えたなら連れて行かれたか、志願してついて行っちゃったんじゃないかな?」
もっともな説明だ。消えた百人隊のことを一緒に考えた方が答えを見つけやすいかもしれない。実家の土地などどうでもよくなるくらい稼げる話を聞かされたとか。
「湖はこの山の向こうだな」
返事をすることが出来なかった。標高が高いわけではないが、時々急斜面に出くわして、そこを登るたびに体力が奪われていくからだ。どうやら目指す湖は水たまりのような池ではなく、しっかりとした窪地に水を張った本物の湖のようだ。
「今日はもう無理だ」
と早々にケンタスがこの日の捜索を打ち切ってしまった。これは正直ありがたかった。ハクタの州都を出てガサ村に到着した時には既にお昼を過ぎていたわけで、それから休まず森の中へ入って、山登りまでする羽目になり、疲労困憊だったからだ。
「ここが良さそうだ」
ケンタスがテントを張る準備を始めた。
「山頂まで来ればどこかに煙が上がってるのを確認できると思ったんだが、まったく見えないな。もう少し早く来たかったが仕方がない。今日のところはゆっくり休んで明日に備えるとしよう」
というわけで、干し魚と木の実で簡単な食事を済ませて、簡易テントの中で眠ることにした。この時期は暖を取らなくてもいいので一年で最も過ごしやすい時期でもある。それでも朝晩の寒暖の差は激しく、体調を崩しやすいので注意が必要だ。
翌日は朝冷えで目を覚ました。眠気は続いていたが、空気が冷たかったので再び寝入ることができなかった。それでも兄貴たちも冷たい朝を過ごしているかと思うと、いつまでも寝ていられないという思いが先立つのである。
簡易テントから出ると、あまりの景色の変わりように、まるで自分が死んでしまったかと思ってしまった。そう、そこは雲の上で、天国を思わせるような風景が目の前に広がっていたからだ。
「……霧か」
背後でケンタスが呟いた。
「麓は霧雨に近いだろうな」
そう、山の麓に湖を覆うほどの霧が立ち込めていたのである。窪地の湖なので雲状の霧に逃げ場がなく、気温が上昇するまでしばらく滞留しそうに見えた。それでも兄貴は湖のほとりに向かったはずなので、俺たちも霧の中に向かわなければならなかった。
「出発は早い方がいいだろう」
眠りの深いボボを起こして、この日もケンタスの背中について行く。山を下りて霧の中に入ると、霧雨どころか、まるで小雨の中を歩いているみたいだった。陽は充分ではないので薄暗く、足元も覚束ない状態だ。
「離れるなよ。何かあったら声を出すんだ」
ケンタスが指示を飛ばしながら歩く。少し遅れただけでもケンの背中が霧の中に消えてしまうので声掛けが重要だった。無口なボボもこの時ばかりは声を上げて自分の存在を必死にアピールしているのだった。
「クトゥムさん!」
三人でずっと叫び続けているが、反応は一切なかった。ひょっとしたら行き違いになっているのではないかと、そんなことが頭をよぎった。捜索活動に慣れていないため、捜索方法がまるで分からないのだ。
「ケンよ、俺たちが遭難しているということはないよな?」
返事はなかった。初めての土地で捜索活動することの危険性は、ケンタスなら充分理解しているはずだ。山があるので憶えやすい地形となっているため迷うことはないが、それでも山が恐ろしい場所であることに変わりはなかった。
「おい、ちょっと待ってくれ!」
突然、しんがりのボボが取り乱したような声を上げた。その声にケンタスは立ち止まり、俺を追い越すようにボボの元へ向かって行った。その後から遅れて行くと、ボボが地面の方を覗き込んでいる姿を確認することができた。
「死体だな」
ケンタスに言われて、やっとそれが死体であると分かった。それほど見分けがつかなくなっていたのだ。わずかに蠢いているのは蛆だろう。町の外に捨てられていることもあるので、死体そのものは珍しくないが、進行中の白骨死体を見るのはキツイものがあった。
「他にもないか探してくれ」
こういう状況でもケンタスは冷静だった。俺は指示を受けても頭がさっぱり働かない状態だ。霧が発生していなかったら漂う臭気で胃液を吐き出していたに違いない。なぜか動悸が収まらず、歩くことすらできなくなっていた。
「ケン、こっちに二体ある」
ボボは山育ちということもあり、見えている景色に違和感を覚えるのが敏感のようだ。一人で三体も見つけて、その後に「この辺にはもうないようだ」と結果報告までしてしまった。その間にケンタスは死体を調べていた。
「おそらくだが」
ケンタスが説明する。
「三人一組で行動しているから、五組いた被験者のうちの一組だろうな。三体とも今日中には完全に白骨化しそうだから、捜索隊が出る前に死んでいたと考えられる。ただし死因については調べようがないな。それでも三人とも剣を抜いた状態で死んでいることから、格闘中に殺された可能性が高いと思われる。でも、仲間割れか、他の被験者に殺されたか、それとも別の何者かに殺されたかまでは判断しようがない。今のところはそれくらいしか分からないから、他の場所も探そう」
こんな状況でもケンタスはテキパキと行動できるのだ。ハキハキと喋って次に何をすべきか、という行動の道筋まで立てられるのである。それに引き換え俺ときたら、背後から襲われるのではないかという不安で身体が勝手に震えてくる始末だ。
「おい、ケン、あっちにもあるぞ」
ボボが次から次へと死体を見つけるのだった。今度の死体は腐敗が始まったばかりのように見えた。白髪交じりの頭なので、テストの被験者たちではなさそうだ。おそらく捜索隊の一人だろう。
「短剣を抜いているが、荷物をまとめた布袋は背負ったままだな」
これはどういう意味かというと、脅威となる敵と遭遇したが、荷物を取られるどころか、布袋の中を検めてもいないので、物盗りによる犯行ではないということだ。山賊ならば荷物の中身くらいは確認するはずだからである。
「ケン、見てくれ、こっちの死体も恐怖で顔が引きつっているぞ」
ボボが指摘した通り、捜索隊らしき死体を立て続けに二体発見することができたが、その表情はまるで悪魔でも見たかのように瞳孔が開き切っているのだ。でも、俺が確認できたのはそれだけだ。顔の穴という穴から虫が出入りしているので直視できないのである。
「参ったな」
ケンタスが首を振る。
「打撲痕や出血の跡が見られない。死体が比較的新しいというのに、これでも死因が特定できないんだ。どの死体も長剣や短剣を握ったまま死んでいるが、なぜだか刃先に接触痕は残っていないんだよな」
意味がまるで分からなかった。
「毒を盛られて、最後の力を振り絞って剣を抜いたとか?」
ケンタスが首を捻る。
「さあ、どうだろうな? 死体が腐敗していて口の中まで調べるのは無理だ。今は何も分からないので、あらゆる可能性が考えられる状況だ。ただ、先発した捜索隊は戻らなかったんじゃなくて、戻れなかったと見るべきだろう。ん?」
今、麓で叫び声を聞いたような気がした。
「ペガも聞いたよな? 後発の捜索隊の声かもしれない。とりあえずオレたちも行ってみよう。ただし、ここから先は用心しないとダメだ。いつでも応戦できるように身構えておくとしよう」
二十歩先で視界が遮られる濃い霧の中で戦えというのだろうか? しかも被験者や捜索隊まで見境なく殺されているのだ。山を知っている者ですら命を落としているというのに、この俺に戦えるはずがなかった。
「おい、ケン、待ってくれ」
ボボがまたしても死体を発見したようだ。
「こっちの死体はまだ温かいぞ」
ケンタスが死体の脈を確かめるが、すぐに首を振った。
「今から衣服を脱がせるから、二人も一緒に調べてくれ」
指示に従うしかなかった。
「どこかに咬まれた痕がないか、入念に調べるんだ」
死者にはすまないと思うが、これは自分たちが助かる唯一の手段なのだ。
「……どうなってるんだ」
全身を隈なく調べ上げたのだが、虫刺されの痕しか残っていなかった。
「死体の状況はどれも同じだな。この人も短剣を握っている」
それと顔が恐怖で引きつったまま固まっていた。
「今のは?」
尋ねたのは、また麓の方から叫び声が聞こえたからだ。
「行こう」
そう言うと、ケンタスは大股で山を下りて行くのだった。
俺も遅れないようについて行くが、霧が濃いので見失いそうだ。
これなら転がって下った方が早い。
と思った瞬間。
足がもつれて本当に坂道を転がってしまった。
痛みがあるということは、生きているということだ。
頭を打たなくて良かった。
それでも背中が痛くて堪らなかった。
背中に挿した剣の鍔の部分に痛みを感じた。
痛みが引くまで眠っていたいと思ったが、そういうわけにもいかなかった。
「はっ」
実際は驚いて声が出ていなかったと思う。
目を開けると隣に新しい死体が転がっていたのだ。
目を開けた瞬間、もろに目が合ってしまった。
すると、死んでいるはずの死体の口が勝手に動き出したように見えた。
「……ジュリオス、三世」
そう言い残して、死体は完全に息を引き取った。
その顔はそれまで見てきた死体と同様に、恐怖で顔が引きつっていた。
ジュリオス三世は三十年前に死んだ暴君だ。
この濃い霧の中で、その姿を見たというのだろうか?
二十歳という若さで死んでいるので、もしも生きていれば五十歳だ。
だから考えられなくはなかった。
しかし、顔も知らない五十歳の男を見て、ジュリオス三世と認識できるだろうか?
いや、少なくとも俺には不可能だ。
「ケン!」
居場所を知らせるが、返事はなかった。
起き上がって周りを見渡してみる。
どうやら麓まで転げ落ちたようだ。
「ボボ!」
こちらも反応がなかった。
ふと、視界の奥に人影が見えた。
それも二人。
霧の中を泳ぐように近づいてみる。
一人は見慣れたケンタスの背中だ。
両手に剣を持って構えている。
対峙している男も剣を構えているようだ。
ケンタスと重なっているので顔がよく見えない。
そこで回り込んでみることにした。
そこでやっと剣先を突き合わせている男の顔を確認することができた。
信じられないことに、ケンタスと向かい合っている男は、この俺だった。
俺が剣を振り上げた瞬間、ケンタスが正面を突いた。
俺の首にケンタスの剣が突き刺さる。
俺の目の前で、俺が死んでしまった。
ケンタスが俺の首から剣を抜いて、こちらに向き直った。
「おい、ぺガス! 後ろだ! 殺せ!」
その声を聞いた瞬間、身体が勝手に反応した。
振り返ると、目の前に剣を振り上げた兄貴が立っていた。
それでも迷うことはなかった。
俺はケンタスの言葉に従うと決めているからだ。
抜いた剣を兄貴の首に切りつけたが、手応えは一切なかった。
その瞬間、霧を破って太陽の陽射しが辺りを差し始めた。
天を見上げる。
そして視線を戻した時には、嘘みたいに霧が晴れたのだった。
死んだはずの俺や兄貴の死体も、霧と一緒に消えてしまったようだ。
「今のは何だったんだ?」
ケンタスが首を振る。
「ボボは?」
「オイラならここだ」
と後ろから現れた。
「ボボも幻を見たのか?」
「うん。オイラのところには村長が現れた」
「よく斬れたな」
「うん。村長はもう歩けないから、ここに居るわけがないんだ」
「なるほどな」
「ペガこそ、よく迷わず兄貴を斬れたもんだ」
「兄貴は兵士が嫌いだから、剣なんて振り回さないんだ」
「おおい、ぺガス!」
噂をしたところで、本物の兄貴が姿を見せた。




