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第八話(184) ビーナとの決別

 つまりデモン・マエレオスの作戦とは、南部を統治した後、北部征伐と見せ掛けて、オーヒン国を騙し討ちにするということだ。最初からストレートに伝えないのは、聞き手に『それが最善策だ』と思わせるためだろう。


「うむ」


 オフィウ・フェニックスが納得したように頷く。


「どうやらそれしかないようだ。問題はその『背中を刺される』っていうやつだね。カグマン国との交戦中にオーヒン国が攻めてきたらどうするんだい? いや、そうさせないための策が必要さね。いやいや、その前にお前さんはカグマン国と戦っても歯が立たないと言っていたじゃないか? それで本当に勝てるというのかい?」


 デモンが答える。


「それはあくまで兵力が最大限に引き出された場合に限るのです。七政院の自治領にはユリス・デルフィアスによって約束された未来を奪われた大貴族らがおりますので、その者らをこちらの陣容に取り込むことができれば、有事の際に率先して足止め工作に加担するはずにございます」


 大貴族の自治領にも権力争いがあることを既に把握しているようだ。


「自治領からの派兵がなければ何も怖くありませぬ。なにしろ旧都の兵士など名ばかりで、実態は公共事業に従事させるために集められた作業員でしかないのですからな。その中から衛兵としてスカウトされたハクタ兵とは訳が違います。国境で交戦すれば、援軍の到着を待たずして、三日と持たずに旧都を制圧することが叶いましょう」


 カグマン王国の兵士に武術の心得がないのは誰もが知るところだ。その王都を守るためにハクタ州という前線の防衛都市が築かれていたのだから、結果は戦うまでもない。防衛戦略を念頭に都市の構造を考えた人たちも、まさかこうなるとは思わなかっただろう。


「問題はオーヒン国が交戦中の我々に対して後背から速攻を仕掛けてくる場合でございますが、実を申しますと、私は何も心配していないのですよ。むしろ出征に掛かる費用を節約できますので、あちらから峠を越えてもらいたいと思っているほどなのです」


 老婆が不安そうに訊ねる。


「でもオーヒンは、その気になれば二十万の大軍を動かすことができるというじゃないか。それも『カグマン王国に支配されないように』って、オーヒンにいた時に、お前さんが軍事力の増強を推し進めたんだよ? デモンや、これは過去のお前さんと、現在のお前さんとの戦いでもあるんだ。本当に大丈夫なのかい? お前さんが三十年掛けて地固めしてきたオーヒン国に勝てるんだろうね?」


 まるでデモンを主役にしたお芝居を見せられている気分だ。


「オーヒン軍に遠征する力などございません。片道一週間の行程ですらままならんのですよ。なぜなら我が軍と決定的に違う部分があり、それが馬を持たされぬことですからな。オーヒン兵に馬を与えても、逃げたことにして商人に横流しするか、骨折したことにして食べてしまうのです。軍からの支給品を売り捌く者が多いので、身分の確かな者しか騎馬隊になれぬということですな。それも新興国なので国境警備隊に限るというわけにございます。つまりは、こちらの兵士とは意識に差があるのですよ。そもそも、軍を率いるコルピアスが馬を商用以外に利用することをケチっておりますからな。そのような組織の長がおる限り、意識が急に変わることはないでしょう」


 商売人のコルピアスが守りたいのは、国ではなく交易路だけだ。


「軍馬の有無が我が国の優位性でもあるわけです。オーヒンからハクタまで数万の兵を遠征させようと思えば、装備品の重量を考慮したとして、どんなに早くとも七日を要することでしょう。さらに統率など期待できぬのですから、隊列が伸びるに決まっておるのです。そうなれば二十万の大軍も、数千の脅威にしかなりませぬ。遊軍と呼べるほど柔軟ではなく、歩き疲れて疲労のピークにあるわけですからな、そうなれば連戦といえども、地の利を活かして撃退することは、そう難しくはございません。そもそも、二十万というのも私奴が喧伝に用いたデタラメな数字ですからな」


 その上、ハクタ軍を率いるのはドラコ隊のランバ・キグスなので負けるはずがない。


「作戦の肝となるのは情報伝達の速度と距離の関係にございます。我が軍が戦端を開いたと同時に、オーヒン国が伝令を走らせたとしましょう。交代制で馬を乗り継いだとしても三日は掛かるので、それから軍を遠征させても到着には十日を要する計算となります」


 オーヒン国に所属していた時に何度もシミュレーションを行っていたのだろう。


「それに対して我が軍は三日で旧都を陥落させることが可能であり、次の三日でオーヒン軍に対する防御を固めることができるのです。さらに四日も余裕があれば、旧都の制圧と治安回復を、手懐けた七政院の官吏に任せて、我々は全軍を以ってオーヒン軍を迎え撃つことが可能というわけにございます」


 オフィウが満足気に頷きながら話を聞いている。


「そこで王妃陛下に折り入ってご相談申し上げたいことがあるのですが」

「なんだい? なんでも言ってごらんよ」

「はい。それは旧都への開戦時期、その決行日を私奴に一任していただきたいのです」

「それにはどういう意味があるんだい?」


 デモンが説明する。


「はい。これは情報戦でもあるのです。七政院への根回しさえ万全ならば、まず負けることはありませんが、オーヒン国に開戦時期を知られてしまうと、伝令の手間を省けるので、その分だけ時間的猶予を失う可能性があるというわけです。そうなれば旧都の制圧に手間取っている間に、ハクタの首都を急襲される恐れが出てくるわけですな。すべては情報が鍵を握っているというわけですよ」


 こうなると私たちが入り込む余地はなさそうだ。


「私奴に一任してくだされば、年内に島を統一してみせることをお約束いたしましょう。それは明日になるかもしれないし、半年後になるやもしれませぬが、いずれにせよ、指揮系統を一本化しておきたいのです」


 オフィウが即決する。


「よしっ、デモンや、今回はお前さんに任せるとしよう」


 この日の会議はそこで終わりを告げた。



「逃げるわよ」


 私室へと引き揚げたミルヴァが荷造りを始めた。


「逃げるって、どういうこと?」


 私には彼女の行動が理解できなかった。


「なんだか嫌な予感がするの」


 それ以上の説明はなく、オフィウとデモンに『町の教会へ行く』と告げてから、足早に新王宮を後にするのだった。夕暮れ時の外出なので不自然に思われたけど、それでも何とか無事に脱出することに成功した。



 それからすぐにガサ村の奥地にある隠れ家へと逃げ帰った。


「今日で『アニーティア』もお終いね」


 そう言って、ミルヴァは川辺で化粧を落とすのだった。


「どういうこと? ハクタを勝たせるんじゃなかったの?」

「計画を変更するの」


 そこでミルヴァが首を振る。


「そうじゃない。あいつのせいで変更せざるを得なくなったのよ」

「あいつって、デモン・マエレオスのこと?」


 ミルヴァがタオルで顔を拭う。


「そう、またしてもあの男に負けたっていうわけ」

「まだ何も始まってないじゃない?」

「あら? もう終わっているのよ?」

「ハクタが負けるっていうこと?」

「違う」


 ミルヴァがイライラしている。


「そうじゃなくて、ハクタは勝つの。勝って当たり前よ。だってわたしが何十年も掛けて勝つように準備してきたんですもの。その勝利を横取りされたのよ。しかも前回と同じく最後の仕上げを盗まれてね」


 意味が分からない。


「だったらハクタに留まるべきなんじゃないの?」


 ミルヴァが溜息をつく。


「あなたったら、まだ懲りてないのね。あいつの話を聞いていたでしょう? あの男は『開戦の日を自分で決めさせろ』って言ったのよ? そうすると、どういうことが起こるか分かってる?」


 残念ながら分からなかった。


「つまりいくらでも罠を仕掛けることができるということなのよ。たとえば一か月後に出陣するとして、その情報をわざとオーヒンに流すとしましょう。それは偽の情報なんだけど、それでオーヒンが騙されれば誰かが情報を敵国に流出させたことになるわけよね。それをわたしのせいにすることだって可能なの。そうすることで女王の寵愛を受けているわたしを失脚させることができるでしょう? そこに情報を一本化させる狙いがあるのよ」


 いくらでも濡れ衣を着せられる状況にあるというわけか。


「容疑を掛けられて監禁させられるだけでも苦しい状況になる。だってそうなると食事や排泄物の問題で、すぐに人間じゃないことが暴かれてしまうものね。そうならないためにも逃げなくちゃいけなかったというわけ。あと一歩のところだったのに、なんでいつもデモン・マエレオスに妨害されちゃうんだろう?」


 それは二人の思考が似通っているからだ。ただし考えることが同じだから、今回は罠を仕掛けられる前に回避することができたともいえる。私しかいなかったら、ある日突然、身に覚えがないまま投獄されていた可能性があったわけだ。


「それで、これからどうするの?」

「そうね」


 そこでミルヴァは月が浮かぶ川面を見つめながら長考する。


「考えてみれば、わたしたちには悠久の時があるのだから急ぐ必要はないのよね。これからは柔軟に対応していきましょう。今まではハクタ国を勝たせるために動いてきたけど、なにも一つに固執することはなかったのよ。オーヒン国やカグマン国が勝ってもいいように準備しておけばいいんだわ。つまりサイコロの上がり目を一つではなく、三面待ちの状態にすればいいの。もっと言うと、初めから上がり目が三つのサイコロを用意しなくちゃいけなかったのよね」


 わざわざデモンと同じ上がり目で待つ必要はないわけだ。


「そのためにはカグマン国のフィンス少年に近づく必要がありそうね。『アニーティア』や『アナジア』とは別の人物を用意しましょう。その前にヴォルベ、あの狡賢い子どもの正体を見破る必要があるわね。あの子の世渡りの巧さはデモンに通じる部分がある。本当に父親と縁を切ったのか罠を仕掛けて確かめてみなくちゃ」


 下級貴族出身の子どもは親兄弟を裏切ってまで成り上がろうとする者が出てくるので用心が必要というわけだ。王家の秘宝を盗んだまま所有しているだけでも大罪人だ。彼の本心を探る意味でも罠を仕掛けるのは当然だ。


「マルン、あなたは一度ビーナのところへ帰りなさい。わたしはオーヒンに行ってヴォルベに罠を仕掛けてくる。デモンがゲミニ・コルヴスと未だに通じている可能性もあるから、『アナジア』も安全とは言い切れないのよ。わたしだけなら殺傷魔法で切り抜けられるけど、あなたを守れるか自信が持てないのよね」


「うん、分かった」


「それと、これからしばらくは様子を見るから、ハクタが戦争を仕掛ける情報を外部に漏らしたらダメよ。こちらも情報の管理を徹底しましょう。オーヒン国にせよ、カグマン国にせよ、後は自力でデモンの策略を見抜いたらいいのよ。もう、わたしは誰にも手を貸さない。自力で勝った者と手を組む。最後に生き残ったのがデモン・マエレオスなら、その時に改めて罠に掛けてやりましょう。殺すことになるけど、それも仕方ないわよね。だって、わたしの夢を盗んだんですもの」


 何もしなくてもデモンが勝つ公算が高いということか。


「それじゃあね、ビーナによろしく」


 そう言うと、隠れ家に戻って行った。



 それから数日かけて歩き続けて、マエレオス領にある隠れ家へと辿り着いた。しかし、木の上に建てた小屋へ行くと、そこにはビーナの姿はなく、小屋の中もきれいさっぱり片付けられているのだった。書きかけの台本すらなかった。



 そこで役場町にある教会へ行ったのだが、そこで書庫で働くビーナを見つけることができた。彼女と最後に会ったのは一昨年の秋ごろだったので、実に五百日振りの再会となった。しかし、ここでも彼女は荷物を整理している様子だった。


「何しているの?」

「見れば分かるでしょう? 荷造りしているの」


 久し振りの再会なのに、ビーナは素っ気なく、目も合わせようとしなかった。


「それは分かるけど、どうして荷造りしているの?」

「あのね、マルン、ワタシたちは一所に留まることができない存在なのよ?」

「そんなことは知ってるけど」


 ビーナが私の言葉を遮る。


「分かってない。ミルヴァとアナタは何も分かってないの。人間の世界では、出会いと別れがそれほど簡単に割り切れるものではないんだよ? 人間は星の数ほど存在しているけど、どこに同じ星があるというの? 失くしてしまえば、もう二度と同じ星とは巡り合うことができないの。それが人との別れなのよ」


 詩的な表現は、あまり好きじゃなかった。


「ここを出て、どこへ行くというの?」

「教えてあげるわけないじゃない」

「どういうこと?」


 そこでビーナが手を止めて、こちらを睨む。


「ワタシ、言ったよね? ユリス・デルフィアスを利用するだけ利用して、簡単に見殺しにするなら許さないって。それでアナタたちは彼に何をしてあげたというの? 己の野望のために裏切っただけじゃない」


 完全に怒っている様子だ。


「でも、ミルヴァのおかげで渡来人から原住民を守ることができたんだよ?」

「そのためならユリスを利用しても問題ないと?」

「北部の人たちは、本当に酷い目に遭わされてきたんだから」

「それで、戦略を練るために潜入したというわけね」

「うん。ミルヴァは原住民を救いたかったんだよ」


 ビーナの目が悲しげだ。


「やってることはデモンのオヤジと一緒だって分かってる?」

「どうして一緒にされなくちゃいけないの?」

「何もかも一緒だからでしょう?」

「一緒にしないで」


 と言いつつ、ミルヴァとの類似性には気づいていた。


「一緒なのよ。北部にいた時は南部に怯えて、オーヒン国にいる時には大陸からの脅威に怯えて、領主になったら王宮からの圧力に怯えて、それでハクタにいる今、全方位に怯えているの。その恐怖を終わらせるために島を統一させようとしているんでしょう? ウルキア帝国を守ろうとしていたワタシたちと何も変わらないのよ」


 確かに、すべては大帝国脅威論が恐怖の根元にある。


「だからワタシは、あんなクソオヤジと一緒にされたくないから、アナタたちの元から去るって決めたの。もう、戦争はたくさんなのよ。自分を守るために他者を裏切るのもたくさん。ミルヴァとは二度と会うつもりはないから、アナタもワタシのことを捜さないで」


 そう言うと、原稿を詰めた木箱を持ち上げて、立ち去ろうとするのだった。

 ここで引き止めないと、もう二度と会えないような気がした。


「ビーナ」


 と言ったものの、言葉が続かない。


「ずるいよ」


 思わず出た本音が、それだった。


「ワタシのどこが狡いというの?」

「だって、ビーナだって戦争に勝って喜んでいたじゃない?」


 ビーナが真っ直ぐに過去を見つめる。


「そうね、ガルディア帝国の大遠征軍を撃退した時だっけ? あれからもう五十年になるのね。あの時のワタシはバカだった。何が愚かって、『知らない』ということ知らなかったことよ。それは恥ずかしくもあり、罪でもあるのよね。すべてを知った気でいたから、知っていること以上のことを想像することができなかったんだもん。今も利口とはいえないけど、少なくとも色んなことを知ることができたし、無知であることを自覚できただけでも、少しはマシになったのかな」


 それでもなお、自虐的な言葉で己を正当化する彼女が許せなかった。


「今のビーナだと、ウルキアの最前線で戦ったスパビア王女を救えないね」

「それが狡いって言いたいの?」

「だってそうでしょう? 安全な場所から私たちを非難するだけなんだもん」

「ねぇ、マルン」


 そこで急に穏やかな顔に変わった。


「憶えてる? この島に渡る前、大陸を横断している最中に、そう、あれはガルディアの帝都に寄った時、アナタは戦災孤児の姿を見て心を痛めていたじゃない? あの時の優しいマルンはどこに行ってしまったというの? あれは綺麗事なんかじゃなくて、一番大切にしなければならない心の持ちようだったのよ。得意げに他者を皮肉る現実主義者の言葉に惑わされて、心変わりしてはいけないの」


 あの時の胸の痛みは、今はもう遠くにあった。


「ワタシは変わったけど、アナタも変わってしまったのよ。ただ、両者の違いは、ワタシは良い方に変わって、アナタは悪い方に変わってしまったのよね。そしてミルヴァだけが、あの頃のままなの」


 自分でもミルヴァに気持ちを寄せていった感は否めなかった。


「『信念を貫く』とか、『ぶれない』とか、変わらない心を尊ぶ言葉はたくさんあるけれど、それが間違っていた場合だと、とても恐ろしい事態を招くのよね。『変わらない』ということを善とすることで、『自分のしていることは正義だ』と信じて疑わなくさせてしまうんだもん。『変わること』も『変わらない』ことも、どちらも絶対ではないんだよ。ワタシは偶々、本当に偶々良い方に変わることができたというだけ」


 そこで優しい顔になった。


「マルン、アナタは他者の意見に左右されやすいけど、良い方に変われる心があるんだから、もう一度だけ変わりなさいね。変わることができたら、もう一度会いましょう」


「ビーナはこれから何をするの?」

「ワタシはワタシにしかできないやり方で四悪人と戦うの」


 彼女の戦意は失われていなかった。

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