第十五話 宗教について
朝早くに町を出て、その日のうちにハクタ州の州都に到着すれば、それまでの遅れを大幅に取り戻すことができるだろう。そもそも新兵の初任務なので、それほど期待はされていないはずだ。
ベリウスも心配していたが、首都がカグマン州からハクタ州に遷都されるとして、それでどのような変化が起こるかは正直分からなかった。確かなのは俺たちに対する呼び名が「王都の兵士」から「旧都の兵士」へと変わることくらいだろうか。
フェニックス家の定めた年号は二百年を超えているが、遷都されると年号まで変わる可能性がある。フェニックス家の歴史の中でも初めての試みなので、誰も正確に未来予想できる者がいないのだ。
国王が代われば新しい法律が発令されるとも考えられる。そうなると現・国王のコルバ時代を懐かしむことにもなりそうだ。いや、それとも何もしてこなかった無能・無策の凡王と陰口を叩かれることになるのだろうか。
現在、我が国が抱えている一番の問題は雇用バランスである。実家が土地持ち農家の俺が言うのも何だが、今の法律では余りにも土地を持たない小作人が割を食っている状態だ。かといって土地を持っている農家が楽をしているというわけではないので難しい話だ。
小作人にしてみれば働いても働いても積立できる物がないので、労働意欲を維持するのが大変だと聞いたことがある。農期が終わればそれっきり戻って来ない人もいるし、優秀なら条件のいい他の農家に引き抜かれることもあるそうだ。
地主にしたら大農園を維持するには身内だけの労働力では収穫期は乗り切れないので、小作人の力は絶対に必要だと分かっている。それでも上手な関係を築けないのは、同じ仕事でも人生で得られるものに差があるからだ。
生まれた瞬間に人生が決まるような社会は健全であるはずがない。くどくなるが、人は生まれる場所を選べないからである。しかし我が国では、ほぼほぼ決まってしまうというのが悲しい現実だ。
小作人がちょっとでも問題を起こしただけで、それが元に小作人全員が偏見を持たれる。その逆もあり、地主が小作人に暴力を振るったと噂が流れるだけで、その農場が山賊に集中的に狙われたりもするのだ。
広い世の中なのだから、辛抱できない小作人や我慢できない地主がいるのは当たり前だ。それで農民同士で争うなんて一番あってはならないことだ。労働者が苦しんでいるのは、労働者自身のせいだけではないからだ。
労働者同士で憎しみ合わせているのは、どこのどいつだろうか。もう少し農家で働くことに意義を持たせれば国力が安定するように思うのだ。病気で働けない家族を抱えても余裕を持って暮らせるようになるのが、本当の豊かな社会だと思うからだ。
最近は七政院や五長官の下に補佐官があり、そのまた下に次官とか副官とか主任があるという状況だ。貴族の子どもを自動的に貴族にしていけば、こんなの数百年後には役人だらけになってしまうのが目に見えている。
外貨を獲得するために仕事をしてくれる役人ならば多くても文句はない。内需産業だけでは経済が先細りしてしまうからだ。結局のところ『役人の本質というのは外敵の脅威から自国民を守るために存在する』とケンタスが言っていたが、俺も同じように思う。
安定した職業とか、定収入とか、家業だからとか、そういった次元の意識では勤まらない仕事だ。税金を公平に集めるのにも心血を注ぎ、その税金の使い方を誤れば、せっかくの俺たちの税金も『外国人が欲する外貨』となってしまうわけだ。
税金をちょろまかす悪い地主もいるので、役人だけが悪者にされている風潮は誤りだ。どこにでも悪い奴はいるので、王族や貴族ばかりを非難してはダメなのだ。それでも批難の的になってしまうのは、他の職業よりも重責を伴うからである。
「どうやらここが州境のようだ」
ケンタスの言葉で一旦思考が止まった。見ると、確かに道路の横に看板が立てられていた。どうやらきっちり州境が定められているようだ。同じ国だからもっと曖昧になっていると思ったのだが、そうではないのが一目瞭然だった。
見れば分かるというのは、実際に道路の舗装がお粗末だからだ。ハクタ州に入ると砂利が粗く、雨が降れば大きな水溜まりを作りそうな箇所もある。これは王都の新兵の方がいい仕事をしているということだろう。
先ほどは役人だらけになりそうな未来を憂いたが、やるべき仕事は山ほどありそうなので、役人仕事に対する理解をさらに深める必要がありそうだ。問題は、その大事な仕事に誰が就くかということだろう。
平民から徴用兵となり、そこで認められても登用されるのは首都長官や地方長官をサポートする下働きのポストだけだ。平民に生まれた時点で要職に就くことはできず、あったとしても、縁組で奇跡を起こすくらいしかチャンスがないのである。
ケンタスの兄貴が順調に出世すれば、軍の司令部に引き上げられるのではないか、という期待があった。しかし結果は何度も言っている通り、地方長官の下で残りの徴兵期間を全うするだけの人生になってしまった。
貴族は自分の地位を守るために、積極的に国の法律を変えるような真似はしないものだ。さらには反乱を起こすだけの力を民衆に持たせないようにしているので、地主も小作人に転落しないように地位を守ることに必死になるだけだ。
となると、どこの誰が国をもっと良くしてやろうと思うだろうか? 結局はケンタスや俺のように政治に関心を持つ人間は少数派となってしまうわけだ。恵まれた環境にいる人間にとっては、俺たちみたいな地位向上を目指す存在は邪魔でしかないのである。
邪魔どころか、国を破壊する反逆者と思われるかもしれない。格差が広がれば広がるほど、改革者は富裕層から疎まれてしまうというわけだ。富裕層どころか中流階級ですら、俺たちのような政治語りを浅いと嘲笑う始末だ。
内乱が起こる前に手を打った方がいいと思うのだが、俺も富裕層に生まれたら、自分が生きているうちは大丈夫だ、と思うに違いない。富裕層は外国の地にも土地を所有できるから、国がどうなろうと安全であり、そこに余裕が生まれるからだ。
そういえば『救世主は馬小屋から生まれる』という予言があったのは、どの宗教だっただろうか。これもケンタスの兄貴に聞いただけなので、はっきりと思い出すことができないが、大陸にいる信仰者はその予言を本気で信じているそうだ。
でも、現実的に考えて世界を変えるのは貧農で生まれた子どもだろう。せっかく金持ちの家に生まれてきたというのに、その特権を放棄するバカはいないからだ。これから貧困層が増えて、貴族がのさばるほど、その救世主となる子どもは神に近付いていくわけだ。
またしても話のオチが宗教になった。ありとあらゆる話の結論が宗教に収斂されるということは、この世のすべては宗教から始まっているのではないかと嫌でも勘繰ってしまう。特定の宗教を信仰していない俺ですら宗教から逃れられないでいるからだ。
「ペガ、この村で少し休ませてもらおう」
ケンタスに声を掛けられて辺りを見渡したのだが、村らしき姿はどこにもなかった。あるのは代わり映えしない森に獣道が通っているだけである。
「こんな所に村があるのか?」
ケンタスが頷く。
「ああ、煙が見えた。それと州境に隠れ里があるって兄貴に聞いたことがあったんだ。探していたから見つけることができたが、知らなければ見過ごして通り過ぎていただろう」
ここもシャクラ村のように、ひと目見ただけで軍需工場だということが分かった。違いは村の規模と比較して、なぜか警備兵の数が多いからだ。高い柵でしっかりと周りを囲っていることから重要な仕事を担っているということが分かる。
「王都からから来たのか、それはご苦労だったな」
と門兵は労ってくれたが、村の中には通してくれなかった。
「おい、水筒に水を汲んで来い」
警備隊長らしく、部下に命令を下した。
「すまぬが、許可証がないので中へ通すわけには行かぬのだ」
「それは構いません」
ケンタスの方も無理な要望はしなかった。
「しかし新兵なのに、よくこの村の存在が分かったな。ここは地図にも載っていないので知りようがないのだがな」
そう言われてケンタスは兄貴のドラコ・キルギアスの名前を出した。こういう時は正確に説明するに限る。その警備隊長も既知であったらしく、しばらくドラコ・キルギアスについて話に花が咲いた。
「この村は何を作っているんですか?」
話が一段落したところで尋ねてみた。
「すまぬが、それは教えられぬのだ。余計な詮索もせぬことだな。それと村を出たら存在も忘れねばならぬぞ。いま見えているものをそっくり消し去るのだ。王国の兵士ならば、決して口外せぬことだ」
「分かりました」
とケンタスが俺の代わりに返事をした。
ということで水をもらったら早々と村から引き上げることとなった。
「なぁ、ケンよ、あの村では何を作っているんだ?」
森を抜けて街道に戻った所で尋ねてみた。
「兄貴も村の中に入ったことがないので、又聞きの憶測だが、おそらく紙を製造しているんじゃないかと推察していたな。この世で武器や防具や食料よりも大事な物は、紙しか存在しないからさ。時に人の命に代えてでも守らなければいけないと言うだろう?」
「なるほど、それなら納得だ」
認めたくないが、この世に紙ほど大事に扱われている物は存在しない。紙の前では、時に人の命はちっぽけに映ることもあるくらいだ。王宮で写本をさせられているが、あれは兵士の知能や技能を試すテストなので、ぞんざいに扱えば当然のように鞭で叩かれる。
有事になっても、家や土地を奪われても、災害に見舞われても、謄本だけは命に代えてでも守り抜けと叩き込まれていた。それが王国の国民としての身分を保証してくれる唯一の物証だからだ。たかが紙切れ一枚にすぎないのだが、それが家族を守ってくれるのだ。
それは俺たち平民に限らず、貴族社会であっても同じだ。大きく違うのは聖典を大事に所持していることだろうか。どんなことがあっても聖典の写しがあれば『神』が救ってくれると考えられているというわけだ。
またまた宗教の話に帰結してうんざりするが、生まれた国がそのような教育ばかりしているので、これは仕方がないことなのだ。その中でも、勉強中ということで信仰心を持たない状態で、心をロックしているのは俺くらいなものだ。
後世の時代から現代を振り返ると、王国では太教を国教と定めているので『信教の自由』はなかったと断定されるかもしれないが、少なくとも現・国王のコルバ時代にはそれほど厳しい強制はなかったと断言しておこう。
宗教とは面白い学問なのだから、様々な教義を知るためにも『信教の自由』が認められた社会の方が面白い。国王個人の権限で強制力が決まってしまうというのが現実だが、新しい国王には引き続き心の中まで縛り付けない状態を維持して欲しいものである。
頭が疲れたので気晴らしに風景描写をしてみようと思ったが、森が続き、時々平原が見えるだけなので特筆すべきことは何もなかった。街道の両端には畑もないので農婦を見て夢想することもできないのである。
それでも高原地帯に辿り着くと、空気がカラッとしており、とても気持ちのいい風を全身に浴びることができた。街道沿いには珍しく羊が放し飼いされているので、ここら辺はかなり治安がいいのだろう。
「ダブン村だってさ。せっかくだから寄って行こうか」
ケンタスの提案に賛成した。馬を休ませるには最高の環境だからだ。旅程に遅れがなければ、ここに泊まってもいいくらいだ。兵舎に似た建物があるということは、ここも国が管理している軍事工場か工房があるということだ。
馬に飲ませる水を貰うために牧場主を訪ねたのだが、その牧場主こそダブン村の村長さんだった。ただし領主や地主ではなく、州都から派遣されている役人なので任期を終えると州都に戻るとのことだった。
村長さんは暇を持て余していたのか、俺たち三人を色んな仕事場へと案内してくれた。まずは牛が放牧されている牧場である。そこで搾りたての牛乳をいただき、それから牛革工場を見学させてもらった。
牛革工場では女工が革ベルトや革サンダルを仕立てていた。ここで作られた物が俺たちの装備品になるわけだ。ただし革靴を履けるのは貴族だけだ。他は布靴や布巻きならいい方で、貧民街では裸足が一般的だ。
他にも軍事用として革の防護服も仕立てられていた。防具というと青銅の鎧や鉄の鎧をイメージするが、夏場の猛暑日に金属を身体に宛がうと熱傷し、逆に真冬日だと凍傷を加速させるため、警備兵や護衛兵でも年間を通して使用しているわけではないのだ。
肌の上から直接着用することはないし、鎧の内側には革が張りつけられているが、仕立てが充分であるはずもなく、衣服を重ね着できるのは軍閥貴族くらいなので、防具に関しては不満しかないというわけだ。
といっても、金属は貴重でもあるので全員に行き渡るわけではないし、戦術次第で重いと逃げられなくなるし、死んでしまうと戦利品として奪われてしまうので、支給されるのは一番大事な頭部と心臓を守る兜と胸当てくらいなので、俺には縁のない話でもある。
そもそも戦争というのは季節によって戦い方が変わるので、決まった格好というのが存在しないのである。指揮官クラスは重装備だが、弓兵や歩兵は身軽さを優先するので、防寒着にもなる革の服の方がありがたかったりするのだ。
でも、これはジェンババの存在がこの島における戦い方の方向性を決めてしまったともいえるだろう。ジェンババが得意としたのはゲリラ戦で、山岳地方に引きこもり、とにかく足の速い兵士を集めて、誘き寄せた所を急襲するという作戦を用いるのだ。
また、夜襲を得意としており、地理上のアドバンテージを最大限に活かしたとも聞いている。五千人を超える敵軍に対して千人を下回る数で挑んで退散させてしまったというのは余りにも有名な話だ。
移動中の馬だけを弓で狙い、戦うことなく逃げるなど、卑怯といえば卑怯なのだが、家族を持つ敵兵たちに恐怖を与えることなど、ジェンババにとっては楽勝だったようだ。狩猟が得意な山暮らしの部族を弓兵として重用したことも付け加えておく必要がある。
また、その姿を誰も見たことがないというのも、ジェンババが知将と呼ばれる所以であろう。戦後になってカイドル国の軍部に話を聞いても、実際に会ったことがある軍人は一人もいなかったという話だ。暗殺されないように徹底していたということである。
話は逸れたが、小さい島国の戦争では重い金属は、場合によっては足枷となってしまうというわけだ。大陸の戦争では兵士の数が数万を超えるというので、飛来する矢の数も変わってくるだろうし、そうなると鎧の価値も変わるので、あくまでこれは島に限った話だ。
とにかく防具に関しては気候や金属の埋蔵量や兵数や武器の性能などでも変わってしまうので、進歩したかと思えば、退行することもあるわけだ。一つだけ確かなのは、武器にしても防具にしても、使いこなせる人は少ないというのが現実だ。
「羊皮紙の製法は村の秘密でな」
牛皮工場の後は羊皮紙工場へ行ったのだが、残念ながら決まりで工場の中は見せてもらうことができなかった。代わりに教典の重要性や、信仰を大事にするように、という話を長々と聞かされることとなった。どうりで愛想がいいわけだ。
夕飯に誘われたが、任務が遅れていることを理由に断った。俺たちに食事の前のお祈りをしっかり教え込みたかったようで、とても残念がっていた。村長さんはとても素晴らしい人なのだが、俺にとっては面倒に感じる部類の人だ。
いや、そんな評価をしてはいけない。「愛想がいい」だなんて嫌味そのものだ。どうも俺は斜に構えた自分に酔う時がある。冷笑したり、嘲笑したりして、悦に入るのだ。傍から見て最も薄っぺらく見えるタイプなので気をつけたいところだ。
おそらく村長さんは太教の中でも穏健派と呼ばれている宗派に属する人だと思われる。確認したわけではないので断言できないが、そういうのは俺たちに接する態度で分かるのだ。これは異教徒には理解できない部分だろう。
地教を元にした太教に、更に異なる宗派が存在しており、それらを把握することなど不可能に近く、穏健派というのもケンタスの兄貴が分かりやすく教えてくれたからそう呼んでいるだけであって、本当は正式な名称があるはずだが、とにかく説明が難しいのだ。
穏健派の特徴は自らを神牧者ではなく、農牧者と位置付けていることである。州都出身の身でありながら牧場長と名乗っていることから、我が国が国教と定めている宗派とは異なる信仰をしていることが分かる。一言でいえば、正道から外れた生き方だ。
でも、彼のような人が農村を守ることで、辛うじて秩序が保たれているともいえるのである。村長が中央から派遣されるタイプの集落で、農民が農奴として扱われるかどうかは、一人の人間の宗派で決まる場合が多いというわけだ。
また、穏健派の農牧者は、村の教育者という側面も持ち合わせているのが特徴的だ。お祈りの仕方だけではなく、歴史や教訓、罪や罰についても教示するのだ。そういう意味でも、今や共同体運営に欠くことのできない存在となっているというわけだ。
それでも俺が素直に認められないのは、子どもに対して半強制的に信仰心を植え付けようとしているように見えるからだ。我が国に『信教の自由』を保証する法はないが、逆説的に、この自由という思想を持たせないために宗教が存在しているように感じられるのだ。
世の中は広く、しかも大昔から生まれた時点で宗派が決まっている民族が、大陸には存在しているそうだ。そういう民族は他民族と結婚することはないので、生まれてくる子どもも、また同じような境遇で生を受けるわけだ。
その一方で、生まれてくる子どもはみんな神の子どもとする宗派も存在するようだ。先述したが、その異なる二つの宗派が、元を辿れば同じ神を一神教として祀っているから、頭が混乱してしまうのだろう。故に理解しろと言う方が無理なのである。
両宗派の成り立ちを振り返ると、どちらも迫害の歴史と利権が存在しているため、根本的な部分で相容れないことは分かるのだ。それでも棄教という概念がないということは、多くの者にとって宗教が必要とされているからだろう。
子どもに罪の意識を持たせることは大事なことだ。良心に委ねられるのは成熟したままの頭と身体で生まれることができる者のみである。そんな超人は物理的にも在り得ないので、やはり宗教という学問が必要であることは認めなければならない。
原罪を背負わせて自虐的にさせる宗派も存在するが、他の宗派の人間は、その原罪をすべて背負ってくれる救世主が現れることを待ち望んでいたりする。ああ言えばこう言う、ではないのだが、信仰者とは常に何かと戦っている状態でもあるのだ。
宗教とは解釈の応酬、砕けた表現だと言葉の殴り合いとも言い表すことができる。その挙句に手が出るのだから始末に負えないというわけだ。宗教というのは、つくづく男という生態をよく表している学問だと思う。
思い出(歴史)を美化して、自分(出自となる民族)をよく見せ、他人(他民族)を批判したり非難したりして己の価値を高めようとするのだ。すべての起因は動物によく見られるセックス・アピールと何ら変わらないのである。
都合よく解釈し、間違いを指摘されると怒り狂い、口では勝てないと知ると暴力をふるう。宗教で起こることは、男の一生で起こることとさほど変わらないわけだ。もちろん俺も例外ではない。
権力志向があり、他人を従属させたいという欲求も存在し、女を征服し、子どもを泣かせて、創造の父として、神の存在を己の人生に投影するわけだ。このような人格形成を可能にしてしまうのが、宗教の力でもある。
その一方で、生かされていることに喜びを見出し、あらゆるものに感謝を捧げ、己を厳しく罰しながらも、他人をとことんまで赦し、貧しい暮らしの中でも微笑みながら死ぬことができるのも、宗教の力なのだ。
間もなく州都に到着するというのに、またしても宗教のことで頭が埋め尽くされた。大人になるまでは無宗教と決めているのに、どうしても逃れられないのだ。それが俺たちの生きている時代の空気感である。




